第三話
「傷が深くないようで良かったよ」
イゾルデの手を見つめながら、トリスタンは安心したように言った。
包帯を巻かれた指は、すでに侍医によって棘を取り除かれ、膏薬を塗って手当てされている。
「この白魚のような指に傷痕が残ったりしたら、僕は後悔してもしきれない」
そう言って、トリスタンはそっとイゾルデの手を取り、口づけようとする。
その直前……イゾルデは、その手を反射的に振り払った。
「イゾルデ……?」
怪訝そうなトリスタンの表情に、イゾルデの胸はますます苦しくなった。
(でも、もう逃げてはいけない)
深呼吸を一つして、イゾルデは口を開いた。
「……トリスタン殿下。私は、あなたにお伝えしなければならない事がございます」
ブランエノワールの本心は分からないし、そもそも既にブランエノワールはマルクと婚約している。
だから、今更イゾルデが真実を告白したところで、トリスタンとブランエノワールが結ばれる事はないのかもしれない。
それでも、とイゾルデは思う。
ブランエノワールは、自慢の妹だ。
少し不思議な雰囲気で、たまに突拍子もない言動をとることもあるが、美人で頭もいい。
少なくとも、魔力で愛を得ようとした姉などより、ずっとトリスタンの相手に相応しいだろう。
「私は、あなたに魅了の魔力を使いました。あの夜会で、私に優しくしてくれたあなたに愛されたくて……」
瑠璃色の瞳が、驚きに見開かれる。
イゾルデは、そこにまだ軽蔑の色が浮かんでいない事に安堵し……同時に、そんな自分に嫌気が差した。
(……バカよね。まだ、どこかで期待して……)
はじめは、ただ誰かに縋りたいだけだった。
トリスタンを選んだのも、優しくしてくれたからというだけの筈だった。
魅了の魔力は、異性だろうが同性だろうが、少年だろうが老人だろうが虜に出来る。
気づかれずに魔力を解除する機会はいくらだってあったし、誰かに縋りたいだけなら、他の人間に魔力を使っても良かったのだ。
それでも、イゾルデはトリスタンから離れられなかった。
トリスタンが優しかったから、というのは理由の半分だ。
はじめは純粋な感謝と尊敬だったトリスタンへの感情が恋に変わっていたのは、いったいいつからだったのか。
だからこそ、何度もあと少しだけと思っては、ずるずると魔力を解除もせずに、イゾルデはトリスタンの隣を独占し続けた。
(……でも、せめて最後くらいは、潔くしないと)
再び深呼吸をすると、イゾルデは顔を上げ、トリスタンに告げる。
「王族に対して魔力を行使した以上、厳罰に処されて然るべきと覚悟しております。ですが、この件は私の独断で、家族は何も関わってはおりません。どうか罰は私一人に……」
「ちょっと待って、イゾルデ」
決死の覚悟で懇願しようとしたイゾルデの言葉を、あっさりとトリスタンが遮る。
「それは、あり得ないよ?」
***
「……この耳飾りには、特別な力があってね。神官が祈りを捧げたミスリルで作られていて、魔力の効果を無効にするんだ」
七色の光沢を帯びた、不思議な銀色の耳飾り。
耳朶に着けられた王家の象徴に触れながら、トリスタンはそうイゾルデに語った。
「魔力持ちは珍しいとはいえ、皆無ではないからね。特に、イゾルデのような魅了の魔力持ちが、悪意を持って王族に近づいたりしたら、それこそひとたまりもない」
トリスタンの言葉に、イゾルデは胸にグサリと刺さるものを感じた。
他意はないと分かっているが、実際に似たような事をやらかそうとした身としては、耳が痛い事この上ない。
「だから、強い権力と影響力を持つ直系王族は、常にこの耳飾りを身に着けている事が義務になっているんだよ」
「それ、では……」
そうだよ、とトリスタンは頷く。
「だから、きみを好きになったのは魔力のせいではないし、求婚したのも僕自身の意志だ」
「しかし……私達が初めて出会ったのは、あの夜会だったはず……っ」
イゾルデが言えば、トリスタンは少し寂しそうに「やっぱり覚えていないんだね」と言った。
「僕達は、あの夜会よりも前に出会っているんだよ」
「え……」
「もう、十年近く前になるかな。ちょうどこの薔薇園できみを見かけて、少しだけ話をしたんだ」
そう話すトリスタンは、わずかに頬を赤らめている。
「それ以来、僕はずっときみを想っていた」
それは、ずっと聞きたかった言葉だった。
何度も、何度も望んだ言葉だった……そのはず、なのに。
「……本当、ですか?」
口からは、どうしても疑念の言葉が零れてしまう。
「トリスタン殿下の本当の想い人は、ブランエノワールではないのですか?」
先程のマルクの言葉が、薔薇の棘のようにイゾルデの心に刺さったまま、消えてはくれない。
マルクが何を思ってそう言ったのかは分からないが、そう思ったのには何か根拠があるのではないか。そんな不安が、イゾルデを手放しでは喜ばせなかった。
「……もしかして、マルクに何か言われた?」
歯切れの悪いイゾルデの様子に、何かを察したらしいトリスタンは、珍しく眉宇に険しさを滲ませている。
イゾルデが躊躇いながらも頷けば、いよいよその眉間の皺が深くなった。
「やっぱりか……。でも、何でブランエノワール嬢の名前を出したんだ?」
怪訝そうに呟くトリスタンは、まるで心当たりがないらしい。
だが、ややあって、何かに思い当たったように「あ、もしかして、あれかな……?」と声を上げた。
「その、ずっときみの事が諦められなくて……夜会で見かけるたび、いつも離れたところから見つめていたんだ。きみの隣にはブランエノワール嬢がいたし、それで……」
尻すぼみに声が小さくなっていくトリスタンは、もはや耳まで真っ赤だ。
取りなすように咳払いをするが、かえって噎せてしまっている。
「ごほっ、げほっ……!と、とにかく、マルクの言った事は誤解だよ。婚約は魔力によるものでもないし、他に想い人がいるなんて事もない」
トリスタンはイゾルデに向き直り、そして真っ直ぐに見つめた。
「僕は、心からイゾルデを愛している」
瑠璃の瞳は、これ以上ないくらいに甘やかな熱を持って、イゾルデを捕らえて離さない。
愛する者に、ここまでの好意を向けられて喜ばない人間はいないだろう。
……だが。
「……もしかして、まだ疑ってる?」
「いえ……。ただ、その、どうしても、まだ実感が湧かないのです」
魔力ではなく、本心からこの人に愛されたいと、何度も心の中で願い、そのたびに叶わぬ願いと諦め続けていた。
それが、既に叶っていただなんて……とてもではないが、すぐには信じられない。
「……そうか」
カチャリ、と小さな金属音が響く。
「殿下……!?」
声を上げるイゾルデに構わず、トリスタンは王族の証でもある耳飾りを外していく。
「これ、持ってて」
そうして、トリスタンは外した耳飾りをイゾルデの手の平へと落とした。
「この通り、もう魔力を無効化する耳飾りはない。この状態で、きみのありったけの魔力を使って、僕を魅了してみてくれ」
「何を仰るのです!そんなことは……」
出来ません、と言おうとしたイゾルデを遮り、トリスタンは宣言する。
「不敬に問うたりはしない。カルディア国王太子の名において、約束するよ」
澄んだ瑠璃の瞳が、真っ直ぐにイゾルデを見つめている。
「絶対に、大丈夫だから」
トリスタンは微笑みながら、そっとイゾルデの頭を撫でる。
その声はどこまでも優しく、躊躇うイゾルデの心を勇気づけた。
「……かしこまりました」
震える手で、イゾルデはトリスタンの手を握る。
(何が起こるかは分からない。それでも……私を信じてくれたこの人を、私は信じる)
指先に集中し、ありったけの魔力を注ぐ。
やがて、全身の力が抜けるような虚脱感と、猛烈なだるさが全身を覆い、イゾルデは魔力が空になった事を悟った。……だが。
「なにも、変わらないだろう?」
言葉の通り、トリスタンは顔色一つ変わっていなかった。
イゾルデへの眼差しも、態度も話し方も、何もかもが同じままだ。
「でも、確かに魔力を……。耳飾りも外しているのに、どうして……?」
そんなの決まっているじゃないか、と言って、トリスタンは笑う。
「そもそも、魅了の魔力があってもなくても、僕はきみの虜だ。だから、たとえ耳飾りがなくても、僕に魅了の魔力はかからないよ」
多分これからもね、とトリスタンは言って、イゾルデを抱きしめた。
お読みいただき、ありがとうございました!
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ここで、一旦イゾルデ視点が終わります。
別視点での物語もぼちぼち投稿していこうと思いますので、お付き合いいただけましたら幸いです。