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鬼瞼娃娃  作者: mob
1/1

かすかな潮のにおいと甘ったるい排気ガスのにおいで物流倉庫の早い朝がはじまる。高速道路とモノレールが頭上を走り、まだ日もとどかぬ蒼い闇の底でフォークリフトが積み残した荷物を運んでいる。寺山の夜はその溜息のような音で終わる。

夜がタイムカードにジッという音で書き込まれ、トラックのエアブレーキの音が響く広い倉庫街の底で寺山はスニーカーの軋む音だけに耳を澄ませた。

歩みはともすれば音がたよりだ。それほどここは広い。

 後ろから足音が近づいて来た。振り向くとバイトの山岸だった。

「へっへー」と細長い顔をくしゃくしゃにし、「どうすんの、帰んの?」と言う。

「何言ってんだよ、こんな朝っぱらから」

「茶店発見した。行かへん?」

 山岸は家族で京都から移り住んで4年になろうとしているのに関西弁が抜けない。山岸は「東京はこの方がねーちゃんの受けがええんや」という。

「コーヒーならさっき休憩所で飲んだばかりじゃないか」

「ちゃうちゃうそんな店やない。女の子がおるんや。朝からやってる早朝なんとか喫茶や」と山岸は肩をすり寄せた。

「好きやなあ。俺はくたくただよ」いつの間にか寺山にも関西弁がうつっていた。

 山岸はヒョコヒョコと跳ねるように歩きながら、「寺山さん一人やろ。一万ちょっとで最後までやから安いよ。もっともみんな中国かあっちの人らしいけどな。疲れまらって言うやろ、連れまらってのもあるんちゃう?」

「ないない」と寺山は一笑した。

「明日は入れ替えの休みやんか、中国語の勉強にもなるしな。国際交流や」

 トラックゲートまで来たとき、寺山さーんと呼ぶ声がした。「事務のみっちゃんや」と山岸が振り返った。

「朝、寄ってって昨日言ったでしょ」と美智代は駆け寄り息せきってとぎれとぎれにそう言うと、

「はい」と手提げの小さな紙袋を差し出した。

寺山は「ん?」と怪訝そうに袋を受け取り、「あー」とやっと思い出し「悪いね、ありがとう」と困ったような笑顔を浮かべた。

「何それ?」と山岸がのぞき込むと「あんた関係ないの」と美智代が押しのけた。

「あ、差別や」

「あんたは家に帰ればちゃんとご飯あるでしょ。お母さんいるんだから」

「えー、そうなの。弁当か。いいな、それって」

「ばか」と美智代は頬を膨らませ、横にらみそう言うと、その目を寺山に向け、

「早く食べてね」と言い、手でトラックの進行を制止しながら急ぎ足で事務所に戻っていった。

「美智代さん寺山さんに気があるんだ」と山岸が冷やかすように笑った。

「そんなんじゃないよ。いいから行こう。店行くんだろ」

「なんだそりゃ。変なひとだねえ、あんたも」と山岸は東京弁でこたえた。


 喫茶店とは名ばかりで、店構えからして町に馴染みすぎている。コンクリートのビルの壁面に薄汚れた紅白のストライプのテントがポツンとあり、「喫茶アイランド」と黒いガラスドアに白抜いている。

山岸の後に付いて寺山はそのドアをくぐった。ドアの向こうは滑り止めだけの打ちっ放しの階段で、2階に上がると殺風景な壁をくりぬいたようにまた黒いガラスドア。鉄の扉を差し替えただけのお手軽な外装だ。カランと音をさせたドアの向こうは薄明るく、弱々しい外光が北側の窓から射し込みカウンターに落ちている。そのカウンターの奥の方に30くらいの小柄な女が座っていて、カウンターの中には谷啓が悪擦れしたような50絡みの男がタオルを手に立っていた。

「いらっしゃい」とその男はやけに明るい声で顔を向けた。声までタニケイに似ている。

 山岸はカウンターの端に座り、寺山にも隣に座るようにとうながした。建物の形のまま矩形になったスペースにボックス席があり、籐の衝立に仕切られたその席に、それらしき女達が3、4人が座っていた。

 山岸はカウンターの男に「フェイは?」と訊いた。男は首をすくめ親指で店の奥を指した。

店の中には小さく中国語の歌が流れている。ゆっくりとしたリズムで男女が掛け合う可憐な曲だ。どこかで聴いた曲だと寺山は思った。

 男はコーヒーと紅茶とコーラしかないメニューを二人の前に置いた。山岸はコーヒーを注文し、寺山に「ほら、あの娘たち選べるから」と言った。

女達の前には低いテーブルがあり、その上には女性雑誌とタバコの煙の立ち上る灰皿があった。雑誌に目を落としていた女が長い髪を掻き上げタバコに手を伸ばした。

「彼女たち凄いんだ。昼も夜も働いて、ちょっと休んでここにくるんだってさ。いつ寝ているのかと思うよ」と感心するように山岸は言った。

 黒いノースリーブの女が隣の女に何か耳打ちしながら寺山たちを見た。

「寺山さんどうする?」

「いいよ、自分から選びなよ」

「え、いいの?」と山岸は遠慮と喜びが一緒になったような複雑な笑顔で「俺、あの黒い服の娘にしようと思うんだけど」

「ああ、俺は違うから」

 男がコーヒーカップを二人の前に置いた。山岸はカウンターを指先で叩いて男に耳打ちした。男はイエンイエンともインインとも聞こえる発音で女を呼んだ。

 二人がカウンターの女の後ろの鉄製のドアの向こうに消えた後、寺山は曲に耳を傾けながらぼんやりとコーヒーを口に運んでいた。

女達は仲間で、カウンターの男も仲間だ。古い友人に囲まれているような気持ちだった。寺山は夜を想った。

 物流倉庫の夜は信じがたい大量の荷を仕分けることから始まる。仕分けている途中からも次から次と荷が到着する。最終の荷は午前4時くらいだ。冷蔵倉庫からの冷気が靄のように漂う中、荷の位置を指示する声が飛び交いフォークがひっきりなしにかけずり回る。オレンジ色のライトの下で作業帽をかぶった男達が行き交う。目処が付くのは高速道路の灯が漸く消える頃である。その間主任の寺山に気を許す時間は無い。しかし寺山は毎日毎日確実に終わるこの仕事がそれ故に気に入っていたし、爽快感すら感じていた。その感覚の次に来るのは気怠さと眠りである。寺山の生活は毎日判で押したような生活である。会社から帰り、軽くジョギングし、午前10時には就寝。午後5時起床、6時には電車で一駅の会社に出社する。これを3出1休のサイクルで繰り返す。

 寺山は時計を見た。まだ8時前である。

 店の中にチャイムが響いた。男がカウンターの下に目をやった。多分監視カメラか何かがあるのだろう。しばらくしてドアが開き、太った作業服の男が入って来た。男は衝立の向こうをのぞき込み、タニケイに「メイ」と言った。タニケイは「ここは喫茶店なんだぜ。コーヒーくらい注文しろよ」と眉をひそめた。「だってメニューが無いじゃねーかよ」「コーヒー、紅茶、コーラ。喫茶店の王道だ」「俺はミルクしか飲まねえんだ」と軽口をたたきながら、作業服の男は髪の長い女の尻を撫で、女に叱られながら鉄の扉の向こうに消えた。寺山はその後ろ姿を追うように目をやり、ついでにカウンターの端に座っている女を見た。肩までの髪を薄く染め後ろに流している。胸のあいた黒いスーツに銀の細工をあしらったチョーカー。女はカウンターに肘をつきぼんやりとタバコをくわえていた。なにか物思いにふけっているようだった。

 男が電話に向かって符丁っぽい数字をしゃべりノートに書き込んでいる。ノミ屋の中継所のついでに女を置いたのだろう。この辺は三交代の勤務に就いている人間が多いから需要があるのだろうが早晩消えてなくなる店だと寺山は思った。

 男が電話をおいたのをしおに訊いた。

「あのこは?」

 男は少しだけ肩をすくめカウンターの女のところに行った。小さな声でなにか話しているが聞き取れない。もっとも中国語らしかったから聞き取れても何を話しているか判るはずもない。女はタバコを指に挟んだ手を拒否するように揺らしたが、男がさらに何か言うとカウンターにかがめていた背を伸ばし、軽く振り仰ぐようにして寺山に顔を向けた。あからさまな眼差しだった。女は椅子から降りながら男に短い言葉を告げた。

「変わってるけどね、いいこだよ。別嬪だし」と男が寺山にウインクした。

 女は手にバックを持ちドアの前で体を斜にし待っていた。ドアを開けると女が後ろにすっと寄り添い微かに香水が匂った。扉の向こうは奥行きの無い通路になっていて通路の左手にトイレ、正面にぼんやりとした明かりを映す磨りガラスのドア。女は「初めて?」と、突っ立ったままの寺山の横をすり抜け正面のドアを開けた。その足下にワインレッドの床が広がる。アイボリーの壁を背景に女は少しだけ振り返り、「どうぞ」と微笑んだ。

 ドアの向こうはどうやらマンションのフロアらしく通路に焦げ茶色のドアが並んでいる。女はその中の一つにキーを差し込んだ。部屋はありきたりのワンルームである。ベットが部屋の中央にあり、その上に華やかな布団が敷いてあった。

「お風呂、入りますか?」

「うん」と寺山は返事をし「いくら?」と訊いた。

「一時間1万2千円。90分だと1万5千円」

 寺山は財布から金を取り出し女に渡した。雨戸が閉めてあるのか、間接照明の柔らかな光だけで、部屋の中は暗い。その光の下でも女の手に深く食い込んだ指輪の痕が見えた。バックに金をしまう女の背に寺山が言った。

「中国の人?」

「ええ」と女は振り向き「なにか?」と付け足した。

「中国でも結婚指輪ってするの?」

 女は寺山を見つめたまま指輪の痕を手でなぞり、「ええ」と軽くうなづいた。 寺山と交代でバスルームに消えた女がベットの上でタバコをふかしていた寺山の横に戻って来た。寺山の手を枕に寄り添う女に「なんて呼んだらいい?」と訊くと「リレン」と女は答えた。どういう字を書くんだと訊くと、寺山の手のひらに「麗蓮」と書いた。何度書かれても判らず、二人は笑った。

 よく見ると女の体にはところどころ傷があった。明らかに縄目の跡のようなものもある。その跡を辿る寺山の指先を女が見つめていた。

「訊かないの?」「趣味なのか?」女は応えず、「やってみる?」と微笑んだ。寺山は女を見つめ「どうして日本に」と訊いた。

 女は「ん?」と小首を傾げ、気だるそうに「どうしてだろう……」と寺山を見た。


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