あたたかな縁側、まぶしい異世界
誰だったかしら。
老うにつれて記憶が朧気になるのは、次の生に向けた魂の準備なのだと話していたのは。
この間お隣のお孫さんの名前が思い出せなくて恥ずかしい思いをしたし、徐々にではなく死ぬ直前に一気に忘れさせてほしいものだわ。
ああ、誰が言っていたのだったか思い出せなくてもどかしい。
「リアンナ」
どこからか、若い男性の声がする。
まったく知らない声なのに、自分を呼んでいるような気がするから不思議。
名前だって思えるのは、私の名前と近いせいかしら。
「リアンナ」
はーいって返事をしてあげなくちゃいけない気すらしてきたわ。
でもおかしい、声がいつもより出しにくい。
「だぁーい」
やだわ、これじゃまるで赤ちゃんみたいじゃない。
というか、さっきから光や人が動いているのは分かるのだけど、視界がいつまで経ってもはっきりしない。
まさか私、急病で倒れて寝たきりにでもなってしまったのかしら。
息子たちに迷惑がかけたくないし、寝たきりになるくらいならポックリ逝きたいものだわ。
「あなた、リアンナを起こさないで頂戴」
「可愛くてつい、な」
「それは分かりますけど、睡眠はこの子にとって大事なお仕事なのよ」
「はいはい」
あら。
あらあらあら。
これは、もしかして。
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「あんなおばーちゃん!そんなところで寝たら、風邪ひくよ!」
耳が痛くなるような、大きくて、キンキン響く甲高い声。
それでも愛おしく感じてしまうのは、自分の孫だからかしらね。
台所の方からあの子のお母さんが"大きな声で起こしたらダメでしょ"って窘める声が聞こえたけれど、私は全く気にならないから、そう怒らないであげてほしいわ。
だってそうでもしなければ、きっと私は起きられなかったでしょうから。
「まなちゃん、おはよう」
「おはよう!でも、今は朝じゃないよ!」
「そっか、もうお昼だねぇ」
「そうだよ、お昼!あっちでごはん食べよう!」
お昼ご飯は何、と聞こうとしたら、もう台所へ飛んでいってしまった。
動くたびに二つに結われた髪がぴょんぴょん跳ねて、まるでウサギみたい。
ほんのり甘い香りが漂っているから、きっとお昼はあの子がずっと食べたがっていたホットケーキね。
ホットケーキと言ったら、きっとあの子は大きな声で"違うよ!パンケーキだよ!"と言うのでしょうけど。
今日は日差しが温かいから、できれば縁側で食事をしたい気分だけど、ワガママを言ったらいけないわね。
「あんなおばあちゃん!冷めちゃう!」
「はいはい、今行きます」
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「神殿長、娘は」
「落ち着きなさい、マルク。赤子の頃は魔力がまだまだ不安定。こうして熱を出すのはよくあることです」
頭がぼんやりすると思ったら、私は熱を出しているのね。
何かがまだまだ不安定と言っているけれど、このお腹のあたりをグルグル回っているような何かがそれなのかしら。
熱のせいで水の中にいるように見えるけど、この間よりはどこか目で鼻で口か分かるぐらいにはなったわね。
「リアンナ、レムルの実を舐めて、お熱下げましょうね」
「ラーナ、レムルの実を絞ってきたぞ」
「もうあなた、そんなに絞っても使わないわよ」
「そ、そうか」
このシロップ、とても酸っぱいレモンにお酢を大量に入れて、さらに砂糖で無理やり甘くしたような味がするのだけど。
良薬口に苦しとは言うけど、これはどうなの。
「ふふ、リアンナったらすごい顔しているわ」
「レムルの実はちょっと酸っぱいからな」
いやいや、ちょっとどころではないわ。
でも、少し体が楽になったような気がする。
テレビで前にやっていたプラセボ効果ってやつかもしれないけれど、楽になるに越したことはことはないわね。
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「食べてすぐに寝たら、牛になっちゃうんだよ?」
あら、ほっぺを両手で挟んでみせちゃって、可愛い仕草だこと。
白くて真ん丸で、大福が食べたくなってきちゃうわね。
「今日はお天気がいいから、つい眠たくなっちゃったわ」
「まなは眠たくないよ!いちご大福いっぱい食べたもん!」
「美味しかった?」
「うん!でも、いちごちょっと酸っぱかった!」
結構甘いイチゴだったと思うのだけれど、この子にとっては酸っぱかったのね。
子供の舌は繊細だと言うから、仕方がないことなのかもしれない。
それなのにあの二人ときたら。
あら、あの二人って、誰と誰のことだったかしら。
「あんなおばあちゃんは、フルーツで何が好き?」
「バナナかしら」
「まなも!お母さんにバナナ大福も食べていいか聞いてくる!」
食いしん坊なのは、父親に似たのかしらね。
そういえばさっきまでリビングでテレビを見ていたと思ったけれど、どこへ行ったのかしら。
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昔あの人と観た洋画のヒーローとヒロインみたいな顔だわ。
ヒロインがとある国のスパイで、ヒーローが素性を探っているうちに恋に落ちてしまう話だったかしら。
あんまり馴染みのない顔だけど、まあそのうち慣れるわね。
「あなたの顔、じっと見てるわね」
「君の顔を見ているんだよ、きっと」
聞いているこっちが恥ずかしくなってくる。
見たところとても若いし、育児の不慣れさから見るに、まだまだ熱々の時期かしらね。
ここまで甘ったるい雰囲気はなかったけれど、ちょっと懐かしくて、羨ましくなるわね。
「ふぇぇぇ……」
「あら、まだお乳の時間には早いのに」
「おしめが濡れているのかもしれない。どれ、僕が取りかえてあげよう」
「替えを持ってくるから、お願いしていいかしら」
うんうん、ちゃんと二人で協力しあっていて、大変よろしい。
私の頃は男は家事育児を女に任せて仕事をすべきという風潮で、あの頃はそれでよかったのだと今も思うけれど、協力しあえる環境があるのならそうするべきよね。
さて、そろそろかしら。
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「母さん」
どうして縁側で寝転んでいるのかしらと思ったけど、そういえば誠が私のベッドをここに移動させてくれたのだったわね。
腰をやっちゃうといけないから、そんな重たい物を移動させなくていいって言ったのに、無理しちゃって。
その体力はもっと奥さんや子供を助けることに使いなさい。
「お義母さん」
手がとても温かいと思ったら、みどりさんの手だったのね。
私のせいで仕事が増えて、とても綺麗な手だったのにカサカサにさせちゃって、ごめんね。
時間がかかるのに、いつも食べやすいご飯を作ってくれてありがとうね。
「あんなおばあちゃん、つぎのおうちに行くの?」
あら、茉奈ちゃんは物知りね。
おばあちゃんはそろそろ次のおうちで、赤ちゃんになってくるわ。
どうやら魔法が使えるらしいから、茉奈ちゃんにも見せてあげたかった。
「ようすけおじいちゃん、あっちにいるといいね」
いるかしら。
いたら、そうね、今度はこちらから声をかけてあげようかしら。
陽介さんだって分かるといいのだけれど。
さて、そろそろかしら。
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「そんなところで寝られたら、ウォーターボールの練習ができないわ」
「……ここは君だけの場所ではないと思うけれど」
「まあ、この丘は風が気持ちいいし、眠たくなるのも分からないでもないけれど」
「ていうか、誰?」
「私はリアンナ、あなたは?」
「……トニー」
「そう、トニー、私とお友達になりましょう」
まずは、ね。
読んでくださって、ありがとうございます。