帰る場所をなくした貴族令嬢と辺境伯の、蜜蜂と蜂蜜にまつわる話
「――我が領地に嫁いでもらうには、慣れてもらわないとならないことがある」
この家に嫁ぐ事になって三日。
私の夫となる青年――ニコラス・ヒルデブラントは、私を連れてある場所を訪れていた。
広い草原の中にある林の影。
そこだけ整備されて広場のようになっている場所に、それはあった。
「我がヒルデブラント家の力の基本は、武力でも人脈でもない。彼女たちなんだ」
私の目の前に整然と並んだ箱。
そのどれもに、わんわんと羽音を立てて群がっているものたち。
時に真っ直ぐに、時に弧を描いて虚空を行き来している黄色い粒たち。
なんだろう、もっとよく見たい。
私は思わずその箱に駆け寄っていた。
「あまり近づいてはいけないよ、アニエス」
彼は私の行動にちょっと驚いたように言ったが、私は止まらなかった。
私はその箱まで数歩の距離にしゃがみ込み、じっくりとそれを観察した。
「蜜蜂――」
そう呟いて、私は陽の光の中を行き交う蜂たちを見つめた。
「そう、蜜蜂は我が領土の礎だ。この蜂たちが受粉させて果実は実りを結ぶ。蜂蜜は上等な蜂蜜酒や菓子となって王国中に流通する。この山々には他の地には自生しない蜜源花が多くある。まさしく彼女たちは我がヒルデブラント家の生命線だよ」
ニコラスは誇らしげにそう言った。
彼の説明を背後に訊きながら、私――アニエス・アッカーソンは忙しなく巣箱を行き交う蜂たちを飽くこともなく眺め続けた。
ふと――私の手にくすぐったい感触が触れた。
人差し指の上に乗っていたのは一匹の蜜蜂だった。
私はそれを目の前に持ってきて、しげしげと蜜蜂を観察した。
私の小指の先程の大きさの、黒と黄色の縞々。
胴の辺りはふわふわとした産毛に覆われ、ブラシのような口を出して私の指を舐めている。
さっき食べたジャムの香りでも指に染み付いていたのだろうか。
蜜蜂は私の指の上を行ったり来たりしては、尻を盛んに動かしている。
「可愛い――」
思わず、そんな声が漏れた。
その声に、背後にいたニコラスが笑った。
「あはは、君は面白い人だな。養蜂場を見せて彼女たちを可愛いと言ったのは君が初めてかも知れないな」
えっ? と私がニコラスを振り返ると、ニコラスは安心したように眦を下げた。
「本当は、君をここに連れてくるのはもっと後にしようかと思っていたんだ。何しろ彼女たちは虫だからね。あまり馴染みのない光景だろう。それに、蜂と言ったら刺すものだと決めてかかる人も多い。今までここを見学した人の中にはこの巣箱に近づきさえしない人も多かった」
「そう――なのですか」
私は指の先の蜜蜂を見た。
蜂というからには当然刺されることもあるのだろうとはわかる。
だが、刺されるかも知れない恐怖よりも、私にはこの小さな虫たちの可憐さ、ひたむきに空へと飛び出してゆく一途さへの興味が強かった。
ひとしきり私の指の上を探検した蜜蜂は、やがてこれが花ではないことがわかったのだろう。
ぴくぴくと二度尻を振った蜜蜂は羽を広げ、やがて空へと吸い込まれていった。
「刺すことは刺すが、彼女たちは基本的に温厚だよ。そりゃ気温が低くなったり、天候が悪くて何日も蜜を集めに行けないときは機嫌が悪くなりもする。まぁ、そういうときはここへ近づかないほうがいい」
「機嫌――ですか?」
「そう、機嫌。彼女たちも怒ったりイライラしたりするんだ。人間と同じだよ」
ニコラスはまるで愛しいものを見るように巣箱を見つめ、それから私に溢れるような微笑みを向けた。
「正直、僕は安心した。きっと君ならここに慣れてくれそうな気がしていたんだ、アニエス。これからよろしく」
そう言われて、私の耳の辺りに、血が上る音が聞こえた。
はい、と小さく頷いて、私はそのまま俯いてしまった。
私はゆくゆくはこの人の妻になる――。
その事実が嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言えない複雑な感情が渦巻いて、それは結局「羞恥」という感情になった。
すっ、と、ニコラスの手が私の肩を抱いた。
私は一層小さくなり、蜜蜂たちの羽音を聞きながら縮こまってしまった。
◆
私の実家、アッカーソン家は伯爵家だ。
だが、東方一の有力貴族として栄華を誇ったのも昔の話。
戦乱と飢饉に見舞われた私の祖父の代で家運は大きく傾き、領地からは餓死者や領民の流氓が相次いだ。
私たち伯爵家は総力を上げて領地の立て直しを図ったが、根本的に人口が減ってしまった領地の立て直しは容易ではなかった。
遂には爵位の返上を検討せざるを得ないところまで追い詰められた時、降って湧いたようにやってきた、ヒルデブラント辺境伯家への輿入れの話。
私の両親は縋るような思いでその話を繋げ、19歳の私はヒルデブラント辺境伯家へ嫁ぐことが決まった。
二度と戻ってきてはならない、と、父は怖い顔で言った。
私たちのことは忘れて、と母は俯いて肩を震わせた。
その言葉は私に呪いを掛けた。
みんなの言わんとしていることはわかる。
きっと、このままでは伯爵家には未来がない。
だからお前だけでも逃げ出せ、そう言っていたのだ。
私は反発したかった。
ここは私の家だと大声で叫びたかった。
どんなに貧乏で生活が苦しくても。
どれだけ他の貴族に馬鹿にされても。
ここ以外に帰る場所なんてないと全世界に宣言したかった。
そして私のほんとうの家族はあなたたちだけだと、思い切り抱きしめたかった。
けれど、できなかった。
すっかりと老け込んだ父や母は枯れ木のようで、私が抱きしめたら折れてしまいそうだった。
これ以上、ワガママを言って両親に負担をかけることはしない。
私は無言で用意された馬車に乗り、ヒルデブラント辺境伯へ嫁いでいった。
◆
「――一匹の蜜蜂が、生涯に集める蜜の量が幾らか知っているかい?」
ある日のこと。
このヒルデブラント家が管理する養蜂園に来た時、ニコラスが言った。
「ええと……カップにひとつくらいですか?」
当てずっぽうに言った私に、ニコラスは首を振った。
「正解はティースプーンの4分の1ほどだ」
その言葉に、私は少なからず驚いた。
ティースプーンに4分の1、それは私の想像を遥かに下回っていた。
「少ないだろう? 蜜蜂たちはせっせと花の蜜を集め、それを巣牌に流し込んで羽で水分を気化させる。濃縮するんだ。それを繰り返して蜂蜜は完成する」
網のついた帽子をかぶった、屋敷お抱えの養蜂家が、巣箱を検めている。
その右手に握られている不思議な容器は燻煙器というそうだ。
文字通り、あれで煙を燻し、蜂たちをおとなしくさせる器具だそうだ。
「だが、それを繰り返して巣箱はずっと重くなる。知っているかい? 蜜蜂たちは天候のいい年なら、ひと夏に20kg以上の蜜を貯めるんだよ」
一匙にも満たない蜜しか集められないのに、そんな量の蜜を――。
驚いている私に、ニコラスは笑みを深くした。
――と、養蜂家のおじさんが、巣箱から何か一枚板のようなものを取り出した。
そのまま蜂たちをふるい落とすようにすると、おじさんは白い歯を見せて笑った。
「アニエス、採れたての蜂蜜は食べたことがあるかい?」
私は首を振った。
第一、蜂蜜自体、この国ではそこそこの貴重品である。
昔から生活が苦しかった我が家で食べたことは数度しかなく、味など忘れてしまっていた。
養蜂家のおじさんはナイフを取り出し、持ってきた器にザクザクと巣を切り落とした。
「どうぞ、お嬢様。最高級のアカシアの蜂蜜です」
わぁ、と私は声を上げた。
銀製の器の中に切り分けられた巣は、まるで完熟のりんごのような見事な飴色をしていた。
綺麗な六角形の幾何学模様の巣は白っぽく透明感があり、太陽光に透けている。
見ているだけで、それを舐めた時の鮮烈な甘さが想像できた。
「巣ごと食べるのはこの時期、巣作りの時期だけの特権だ――」
ニコラスがスプーンで巣ごと蜜を掬い、私に差し出した。
いただきますもそこそこに、私はそれを一口で全て口に入れた。
一瞬、味覚がおかしくなったかと思った。
脳天に突き抜ける、純化された蜜の甘み。
でもそれは一瞬後には舌の奥の方に引っ込み、今度は上等な香水のような花蜜の香りが爽やかに広がる。
サクサク、という巣牌の食感は、耳にも舌にも小気味よい。
ほう、と、私は思わずため息をついた。
その様を見て、ニコラスはさも面白いものを見るようにケラケラと笑った。
「よかった、気に入ってくれて安心したよ」
そう言って、ニコラスは器から巣牌のかけらをひとつ、紅茶の器の中に落とした。
「アカシアの蜂蜜は香りも素晴らしい。特に紅茶との相性は抜群だ」
ほら、とカップを差し出された私は、しばらくその液面に視線を落とした。
まだ溶け残っている巣と、蜜が溶け込んだ影響で少しだけ黄色みがかった紅茶の色。
私が口をつけると、鼻にすっと通り抜ける香りが私の心を満たした。
紅茶の甘みと香りが、蜂蜜によって何杯も増幅されたような気がした。
「美味しい――」
私が正直な感想を漏らすと、ニコラスはますます笑みを深くした。
◆
その日の夜、私は両親に手紙を書いた。
ニコラスが誠実で穏やかな人であること。
ヒルデブラント領の自然の美しさや人々の温かさのこと。
蜜蜂たちの可憐さやひたむきさのこと。
初めて食べたアカシア蜜の美味しさや甘さのこと。
ニコラスが私に色々な事を経験させてくれていること。
この家に嫁いできてよかった心から思っているということ――。
途中まで書いて、気がついた。
便箋三枚にもなった手紙の七割ぐらいをニコラスのことについて書いてしまっていた。
慌てて読み返すと、ニコラスがどんな風に笑ったとか、どんなふうな瞳の色をしているとか、そんな情報ばかり。
読み返してみると、これ以上恥ずかしい書き方はできないというほど、描写も言葉遣いも丁寧で濃厚だった。
うーっ、と唸りながら悩んだけれど、私は結局その便箋を捨てずにそのまま差し出してしまうことにした。
とにかく、両親を安心させたかった。
いつかこのヒルデブラント領の美しさを見てほしかった。
その約束の意思を込めて、私は手紙に小さな小瓶をつけた。
巣牌の欠片ごとアカシアの蜂蜜をたっぷりと入れた琥珀色の瓶。
この蜜を味わえば、両親もきっと私を思い出してくれる。
そういう確信があった。
私は祈るような気持ちで手紙を出した。
家族からの返事は来なかった。
◆
「いたっ!」
私は思わず声を上げてしまった。
もはや日課になっている養蜂場の見回りのときだ。
私が飽くことなく蜂たちを見ていた時、私の髪の中に蜂が飛び込んできた。
髪の毛に絡まった蜂は大層驚いた様子で暴れまわった。
それがくすぐったくて、私はついつい蜂を手で払おうとした。
その瞬間、右手の指を刺されてしまった。
「ん? どうした、刺されたかい?」
ニコラスが私の手を取ってまじまじと見た。
右手人差し指の第一関節の辺りが少しだけ赤くなっている。
しげしげとそれを見たニコラスは、ああ、と安堵の声を漏らした。
「よかった、刺されただけだ」
「よかった」という言い方が気になった。
一応、こうして腫れてもいるし、指先は電撃を食らったかのように痺れたままだ。
婚約者ならもう少し私の身体を気にしてほしいのだけれども。
そんな意志が顔に出ていたのか、ニコラスがちょっと焦ったように言った。
「あ、いや――違うんだアニエス。蜜蜂は刺した後、毒の入った袋をそのまま残していくことがあるんだ」
えっ? と私はニコラスを見た。
「刺されたぐらいなら痛みも腫れもじきに消えてしまう。ただ、毒の袋が残ったままだと大変だ。激痛も腫れも長く続く。指で摘んで取り除こうとすると、却って毒液を身体の中に押し込んでしまうんだよ」
なるほど、それで「よかった」か。
頷いた私は、それからはっとあることに気づいた。
「毒の袋を残して、って、どういうことですか?」
蜂の針が尻の先にあることぐらい、私も知っている。
であればその毒の袋はどうやって残していくのだろう。
「あぁ、相手を本気で相手を攻撃しようとした場合、彼女たちは自分の腹を引きちぎるんだ」
こともなげにニコラスは言ったが、私は大層驚いた。
「自分の腹を、ですか?」
「そうさ。毒袋ごと、半身を相手の身体に残していく。毒の袋はそのまま毒を注入し続けるよ」
「それは――死にますわよね、当然」
「ああ、死ぬ。彼女たちは自分の巣を守るためだったら簡単に命を捨てる。献身的、と言ってもまだ足りないよ、本当に彼女たちは自己犠牲的なんだ」
そう言って、ニコラスはポケットからあるものを取り出した。
小さな小瓶に入った軟膏薬を指につけて、ニコラスは私の指に塗った。
「蜜蝋と薬草を混ぜたものだ。刺されたときはこれが一番よく効くんだ」
そう言いながら、ニコラスは私の右手を両手で包み込んだ。
「アニエス、どうか彼女たちを恨まないでやってくれ。彼女たちも生きるのに必死なんだ。君が憎くて刺したわけじゃないんだ」
ほんの少しだけ不安そうな表情でニコラスは言った。
私が蜜蜂たちを恨むなんてあり得ない、私は彼女たちが好きですから。
その表情に少しどぎまぎとしながら、私はそんな意味のことを口走った。
その言葉に、よかった、とニコラスは眦を下げた。
◆
その日も、私は家族宛に手紙を書いた。
今日、初めて蜂に刺されたこと。
まだ少し腫れているが痛みはもうないこと。
全体を守るために呆気なく命を投げ出す蜜蜂たちのこと。
優しく薬を塗ってくれたニコラスのこと。
返事が来ないことはわかっていた。
几帳面で優しい家族のことだ、手紙を読まないわけはない。
だが、私に里心をつけないために、返事は書かないだろう。
それはわかっていた。
でも、私は手紙を書き続けた。
ニコラスが何か新しいことを経験させてくれる度に。
私はこまめに近況を報告し続けた。
◆
いつしか、私は積極的に蜂の世話も手伝うようになっていた。
巣箱を掃除し、蜂の体調を気遣い、採蜜までこなした。
奥方様がやることではないと慌てていたお抱えの養蜂家たちも、最近では積極的に私に新しいことを経験させてくれる。
ニコラスはそんな私を黙って見守ってくれている。
当然、なんどか刺されもした。
一度は顔を刺されて片目がほとんど開かなかったこともある。
だけど私は、蜂たちに関わることをやめなかった。
私は間違いなく蜂たちに魅了されていた。
献身的で、自己犠牲的で、個という概念のない彼女たち。
人間とは何もかも違う生態を持った彼女たち。
そんな彼女たちを少しでも知りたい。
私は毎日毎日養蜂園で彼女たちの世話をし続けた。
私は――多分寂しさを感じていたのだと思う。
輿入れのときの一言のせいで、私の心には家族に捨てられたという苦い後悔が残っていた。
もちろん、この輿入れが私のことを思ってのことであることはわかる。
だけど、故郷を失ってしまったような喪失感も大きかった。
故郷を、家を、必死に守ろうとする蜂たちに、私は共感していた。
ニコラスは、そんな私の寂しさをわかってくれていたと思う。
半ば強迫的に蜂たちに関わっていく私を止めようとはしなかった。
夏が過ぎ、秋が来て、冬が来た。
私は彼女たちの一生をつぶさに見た。
毎日毎日、巣箱を開けては、じっと寒さをやり過ごす彼女たちを見た。
冬の一匹は夏の千匹――そう言われるほど、冬の蜂たちは貴重な存在だ。
この時期、蜂たちは秋までに貯めた蜜を少しずつ消費して生き延びる。
巣箱の下に落ちている蜂の死骸を見る度、私の心はちくりと痛んだ。
どうにか冬を乗り切ってくれ――私は祈るような気持ちで彼女たちを見守り続けた。
◆
結婚式を挙げよう、と、ニコラスは静かに言った。
私たちが養蜂園を眺めていたときだった。
まるで夕飯の心配をするような声と口調だった。
「春めいてきたし、時期もいいよ」
いつまで経ってもそれ以上の言葉が出ないので、私はニコラスを見た。
逸らし気味にされたニコラスの顔は――真っ赤だった。
なんでだろう――と、私はその表情に驚いてしまった。
いつもいつも穏やかで、声を荒げたところすら見たことのないニコラス。
超然としてのほほんとしていて、こういう表情をする人だとは思っていなかった。
第一、私とニコラスはもう婚約中の身で、ここに来たのはほぼ一年前だ。
無論のこと、もう既に私の方にはその覚悟はできている。
今更こんなふうな反応をされるとは思っていなかった。
その時だった。
パシーン、という音が聞こえて、私は空を見上げた。
「どうした、アニエス?」
「今、何か上の方から音が……」
ニコラスが真上を見る。
広い庭に植わった高い木の上。
粒程度にしか見えないが、大量の蜂たちが飛んでいるのがわかった。
そこに、まるで黒い靄のような蜂たちの集団が殺到した。
パシーン、と、蜂同士が激突する音が聞こえた。
「なんてことだ……女王蜂の交尾だ!」
えっ? と私はニコラスを見た。
ニコラスは興奮したように言った。
「ハネムーンフライトといって、あの木の上で女王蜂が雄蜂たちと交尾してるんだ……僕も初めて見たよ!」
これは非常に貴重な光景だとニコラスは言った。
「女王蜂はたった一回の交尾で、生涯に使うオスの精を身体の中に取り入れるんだ。後は死ぬまでその時の精を使いながら働き蜂を産み続けるんだよ」
「たった一度の交尾で、ですか?」
「そう。女王蜂はハネムーンフライトが終わって分蜂……つまり新居へ引っ越しをしたら、二度と飛ぶことはないし、巣の外に出ることもない。一生に一度、空に出て交尾をするんだ」
なんだか、ロマンティックなのか残酷なのかわからない話に感じた。
私は更に質問した。
「交尾したら、雄蜂はどうなるんですか?」
「ああ、死ぬよ。女王蜂と交尾できなくてもやがては死ぬ。残酷だね」
ニコラスは少し悲しそうな顔で言った。
「雄蜂はね、働き蜂と違って育児も採蜜もできないし、敵を攻撃する針さえ持っていない。たった一度、女王蜂と交尾して、未来をつなげるためだけに生まれてくるんだ。だから女王蜂を見つけられない雄蜂はやがて巣から追い出されて野垂れ死ぬ――」
未来をつなげるために生まれてくる存在。
あの時、両親は二度とここに戻ってくるなと言った。
このヒルデブラント家に嫁がされた私は、雄蜂のようなものか。
やがて絶えてゆくアッカーソン家の血を未来に繋げるために飛び立った雄蜂。
それが私なら――私はちゃんと自分の定命の通りに生きられるだろうか。
私は、ニコラスの手を握った。
「アニエス――?」
いや、私は雄蜂にはなれない。
だって、未来を繋げて飛び立った後も死にたいと思えないから。
出来ることならずっとこうしていたいと思うから。
だから私は――正しく雄蜂として失格だ。
でも、私はそれでもいい、今が幸せなのだから。
私は、無言でニコラスの手を握り続けた。
◆
「くそ……ダメだ、西だけでなく東の山地もやられるなんて……!」
ニコラスが絶望の表情で呻いた。
落雷によって発生した山火事は、折からの強風に煽られて勢力を強め、十日かけてヒルデブラント領地一帯を尽く焼き尽くした。
その火は国境付近の山々にも容赦なく燃え広がり――蜜蜂たちの蜜源となっていた豊かな山は焼け野原になった。
ヒルデブラント家の財政の根幹は、養蜂による蜂蜜の収穫と、それを加工してできる蜂蜜酒の売上だった。
だが、冬に落ちた体力も回復し、これからという時に、その蜜源となる山々がまるごと燃えてしまったのだ。
当然、仕込みの時期が迫っている蜂蜜酒の売上は壊滅し、ヒルデブラント家を深刻な財政難が襲うことは自明の理だった。
「ニコラス様、他の花の蜜ではダメなんでしょうか?」
「無理だ、蜂蜜酒に使う蜜はこの時期に咲くマロニエの花蜜しか使えないんだ。去年の備蓄を回したとしても全く足りない! それに、この時期有望な蜜源が全てなくなれば、領内中の蜂たちが餓死してしまう――!」
一体どうすればいい。
焦るニコラスの側で、私も必死になって考えた。
他の蜂蜜が蜂蜜酒には使えないなら、今年の仕込みは不可能だ。
そうなれば丸一年、ヒルデブラント家の収入が消えてしまう。
ならばどこかにマロニエの蜂蜜を買うことはできないか。
いや――無理だろう。山火事は周辺国の山々まで広範囲に燃やし尽くした。
とてもそんな余剰分があるとは思えない。
となれば、ヒルデブラント家は、ヒルデブラント領はどうなる?
地域経済の根幹が破壊され、アッカーソン家が辿ったように民の流氓や餓死が相次ぐだろう。
そうなれば――ヒルデブラント家まで没落してしまう。
マロニエ――マロニエか。
私の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
よく、両親と一緒に遊んだアッカーソン領の山々。
5月半ばのこの時期、私たちはよく、綻び始めたマロニエの花を眺めて遊んでいた。
ある。
私は確信した。
マロニエの花なら――アッカーソン領にたくさんある。
「ニコラス様、今すぐ大量の馬車を用意することはできますか?」
私が言うと、ニコラスが私の顔を見た。
「アニエス、何をする気だい?」
「私の父と母に訊いてみます。今すぐヒルデブラント家の蜂箱をアッカーソン領に移動させましょう。蜂は数キロ以上、巣箱が移動すれば、新たにそこを巣のある場所として記憶し直す――そうでしたわよね?」
ハッ、とニコラスが目を見開いた。
「そうか、その手があったか……! アニエス、是非そうしてくれないか。残念だがあまり猶予がない、すぐに君のご両親と連絡をとってくれ!」
滅多にない切迫した口調で言われて、私はすぐに両親に手紙を書いた。
ヒルデブラント領を襲った山火事のこと。
その山火事で有望な蜜源植物の大半がやられたこと。
どうか被害のないアッカーソン領で巣箱を預かってほしいこと。
私は祈るような気持ちで全てを手紙に認め、早馬を走らせた。
二日後、早馬が返事の手紙を携えて戻ってきた。
慌てて手紙を受け取った私は、そこに書かれた父の字を見て、心の底から安堵した。
『悲惨なる山火事の被害、心よりお悔やみ申し上げる。こちらは支援は惜しまない。できうる限りの用意は整えておく。すぐに蜂たちを移動させる準備をしなさい』
◆
それからは、寝る間もないほど忙しかった。
領地中からかき集められた荷馬車が、各養蜂場を虱潰しに周り、全ての蜂箱を数十キロ離れたアッカーソン家まで移動させたのだ。
蜂たちが餓死しないよう、去年の蜂蜜の備蓄を放出し、それを蜂たちに採餌させながらの大移動。
保温のために蜂箱には厳重に藁が巻かれ、実に片道三日をかけてアッカーソン領地に運び込まれた。
アッカーソン家領に運び込まれた巣箱の数は、数万にも達した。
蜜蜂たちは新天地で勢いよく飛び回った。
好天も味方し、滞ることなく集められた蜂蜜のおかげで、なんとか今年の蜂蜜酒の仕込みができる量が確保できた。
ニコラスの父、ヒルデブラント辺境伯は涙を流して私の両親の手を握った。
あなたがたの誠実な行動により、我が領地は地獄から脱することが出来た。
全てはあなた方のご令嬢の機転と英断のおかげだ、どんなにか感謝してもしきれない――。
そう言って嗚咽を漏らす辺境伯に、両親は顔をくしゃくしゃにして頷いた。
私は両親とわだかまりなく再会することができ、私たちはまた家族に戻ることが出来た。
余談だけど、前代未聞の蜂箱の大移動は思わぬ副次的効果も産んだ。
アッカーソン領にやってきた蜂箱に興味を持った地元の農民たちが、是非その技術を教えてくれ、と言ってきた。
おかげで養蜂の技術はアッカーソン領に凄まじい速さで広まった上、その質の高さに目をつけたヒルデブラント領の加工会社が、アッカーソン領地内で生産された蜂蜜を高値で買い取ってくれる事になったのだ。
流氓していた逃散農民たちも徐々に家に戻り始め、アッカーソン領の財政も少しづつ持ち直し始めていた。
◆
「全部君のおかげだよ、アニエス。僕らを救ってくれてありがとう」
ぶんぶんとアッカーソンの空を飛び回る蜂たちを見上げて、ニコラスが言った。
私は首を振って否定した。
「私のやったことなんて些細なことですわ。全ては蜜蜂たちの頑張りのおかげです。それに、アッカーソン家の再興にも力を貸していただいて……むしろお礼を言うべきは私の方ですわ」
「いや、それは違うよ」
ニコラスは微笑みを浮かべて私を見た。
「あのとき、僕は慌てるばかりで、蜂たちのことなんて考えていなかったと思う。考えるのはヒルデブラント家の未来のことばかりで――あれは本当に蜂たちのことを考えていてくれた君だから思いつけた方法だった。僕は――君に心からお礼を言いたいよ」
真正面から褒める言葉を言われて、私は顔を赤くした。
いえ……と縮こまって俯いた私に、ニコラスがのんびりと言った。
「そう言えば、結婚式はいつ挙げようか」
「えっ?」
「春ももう過ぎたし、六月はもうすぐだ。……六月っていったら、そういう月だろ?」
一体、どんな顔をしてこんな事を言っているのだろう。
私はちょっと興味が湧いて、側に立ったニコラスを見た。
ああ、やっぱり。
予想通り、耳まで真っ赤にして視線を逸らしている。
よっぽど勇気が要る一言だったに違いない。
返事の代わりに、私はニコラスの手を取った。
ぎゅっと、ニコラスが私の手を握り返してきた。
私たちは手と手を取り合ったまま、飽くことなく蜜蜂たちを見上げ続けていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
何だか不思議な話を書いてしまいました。
面白かった!
そう思っていただけましたらブックマーク、
下記のフォームより★★★★★で評価等よろしくお願い致します。
評価していただけると非常に励みになります。
【VS】
もしお時間ありましたら、この連載作品を強力によろしくお願いいたします↓
どうかお願いです。こちらも読んでやってください。
『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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