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第三話

 その日は塔子さんの部屋ではなく、ネカフェで落ち合った。塔子さんと初めて会った時に利用した店だ。駅裏の目立たない通りにあるビルにあり、完全個室があるので便利でよく利用していた。

 店の前で待っていた僕の前に現れた塔子さんは、仕事帰りのためか少し疲れているようだった。彼女の職場は私服勤務のようで、ゆったりとしたニットに膝丈のプリーツスカートにショートブーツという服装がとても似合っていた。

 いつものように受付を済ませて個室に入り、鍵を閉めると同時に塔子さんは僕にしなだれかかってきた。

 「……今日は疲れた」

 僕も逆らわず、彼女の身体を受け止める。華奢な背中は、強く抱きしめると折れてしまいそうだ。

 「仕事、忙しかったんですか?」

 そう尋ねると、彼女は曖昧に笑って頷いた。どうもおかしい。何かあったのだろうか。

 「どうかしましたか?」

 彼女は僕の腕の中でふるふると首を横に振った。……何も話してくれないのか。頼りにされていないのか、心を開いていないのか。寂しさを覚えたけど、恋人でもなんでも無い以上、彼女のプライベートに立ち入りすぎるのはためらわれた。

 初めて会った時、塔子さんは言ったのだ。癒しを求めているのだと。何も言わず、何も聞かず、ただお互い抱き合って癒し合うだけの人を探しているんだと。僕はそれで構わないと、そのとき答えた。別に契約したわけでもないけれど、その最初の会話がルールの核となって、今さらそれを侵せない空気になっていた。

 その代わり、表面的なことは彼女はたくさん話してくれた。商社で会社員をしていること。音楽と映画と読書が好きなこと。飼い猫を溺愛していること。

 そんなことを思い出していて、ふと思い当たって尋ねてみた。

 「そう言えば、AmazonTVは映るようになりましたか」

 「ああ、あれ」

 彼女はいったん僕の腕の中から離れ、隣に座り直して事も無げに答えた。

 「リモコンの電池を入れ替えたら映ったよ。電池切れだったみたい」

 「あ、そうなんだ」

 単純なことだった。しかし電池切れとは、そんなことに思い至らなかった自分が歯がゆい。

 「じゃあ、また映画三昧の毎日を送っているんですね」

 「そうだね……」

 いつもは映画の話になると饒舌な塔子さんが今日は乗ってこない。やっぱりどうもおかしい。

 鈍感な振りをして別の話題を振ろうかとも思ったが、彼女の様子が気になる。今日の昼間、槌屋が「トーコちゃんはお前を気に入っている」と言った。その言葉の後押しもあってか、少しだけ踏み込んでみようと思った。

 「やっぱり今日の塔子さん、元気無い。何かあったんでしょう? ぼ……僕で良かったら、話を聞きますよ」

 言いながら、余計なお世話かもという不安が頭をもたげ、焦った時の癖でメガネの弦をやたらと触ってしまう。彼女はちょっと意外そうに僕を見つめたけれど、やがて目を細めてふっと笑った。その笑顔がまるで少女のようで、一瞬、彼女が年上であることを忘れた。しかし笑顔のまま何も言わない塔子さんに不安を覚えて、慌てて「嫌ならいいです! 何も言わなくて…」と付け足した。

 塔子さんはフリードリンクで注いできたココアを口に運びながら、「健人くんは、優しいんだね」と言った。

 「いや……そんなことないですけど」

 「私にたくさん気を遣ってくれてる」

 「いえ、僕は……何もしてあげられないから。せめて、話聞いて塔子さんが楽になるならって思って。いいですよ、仕事の愚痴でもなんでも」

 「仕事、仕事ね……そうだね。仕事も楽じゃないけどもう働いて長いから、今さら君に言うような愚痴も無いんだけれど。それよりも、私ね」

 彼女はゆっくり言葉を選びながら話し始めた。

 塔子さんが自分に何かを打ち明けようとしてくれている。それに喜びを覚えて、思わず先を促したくなったけれど我慢した。ここで焦って彼女がせっかく開きかけた心を閉ざしてしまっては意味がない。ここで失敗したら、彼女は二度と自分のことを話してくれないだろう。

 だから僕は待った。もし彼女がやっぱり話すのやめたと言っても、落胆を顔に出してはいけないと思った。焦るな、焦るな。

 しかし僕の不安とは裏腹に、彼女は話してくれた。ほんの少しだけだけれど。

 「私、自分がもう嫌なんだ」

 「……なんでです?」

 「おかしいでしょう。四十を過ぎた女が思春期みたいなことを言ってるって」

 「年齢なんて関係ないですよ」

 「ありがとう。でもね、私はやっぱりそう思えなくて。自分の年齢と悩みが比例していないような気がして、情けないの。自分が嫌なの。消えてしまいたいって思う時がある。そういうとき、ついつい健人くんを呼んでしまうの。ごめんね」 

 突然謝られたので驚いた。「いえ、僕は塔子さんに会いたいから…全然構わないです」

 「私、そんな健人くんの優しさを利用しているのかもしれない」

 「……」

 そんなことない、と言おうとした。実際、もし利用されているとしても構わなかった。僕だって塔子さんに会えるのだから今のところウィンウィンだ。しかし僕が答えるより先に、塔子さんがまた口を開いた。

 「消えてしまいたいなんて言ったけど、そんな必要は無いのかもしれないな。だって私、消えてるも同然だもん。透明人間みたいなの。誰も私のことを大事にしてくれないし、利用されるだけで終わる。私がいなくなったって、誰も悲しんでくれたりしないの。だからって、私が健人くんを利用して良い理由にはならないよね。わかってるんだけどやめられない」

 「透明人間?」

 何を言い出すんだろう。彼女の話が見えなかった。しかし僕は思った。塔子さんもきっと、誰かに話したかったのだ。自分のことを知らない、僕みたいな実生活に関係しないどこかの誰か。自分の人生に影響しない誰かに聞いて欲しいことがあったのだ。だから、いきなり一番辛いことが口を突いて出る。それは唐突に聞こえるけれど、彼女の頭の中にはきちんとそう思うに至るプロセスがあったんだろう。そう思ったから、僕は説明を求めなかった。僕はただ、彼女の言葉を受け止めれば良い。

 「健人くん、私、特に美人でもないでしょう?」

 「そんな」驚いて僕は否定した。「綺麗です」

 「気を遣わなくていいよ」

 「いや、ほんとに綺麗です。僕は…綺麗だと思った。そう思わないと何度も会わないし、連絡だって取りません」

 「趣味、変わってるって言われない?」

 「言われませんよ」

 「まあ、多少は若くは見られるかな…でも私は自分のこと綺麗だなんて思ったことはない。自分のことは客観的に見えてるつもり。でもね、好きな人に対してはその客観性も曇っちゃうんだよね。恋は盲目っていくつになっても当てはまるんだね」

 がーん……。これは、ひょっとして、恋愛相談なのだろうか? 僕は文字通り首を折って項垂れた。塔子さんには好きな男がいるのだ。おい槌屋、どう責任を取ってくれる? お前が期待させたせいで、落胆が大きいじゃないか……

 しかし僕はそれを必死で表情に出すまいとして、またメガネの弦を触った。何度押上げたってレンズの位置は変わらない。少し上がって、また落ちてくるだけだ。

 ただ、彼女の様子からしてその恋は上手くいってないのだろう……たぶん。だって、上手くいってたら僕なんかに会う必要は無いじゃないか。

 「好きな人がいるんですね」

 極めて冷静に答えたつもりだ。上手く出来ただろうか? 彼女はゆっくり頷いた。やはりショックだった僕は、まだ誰ともわからない相手に嫉妬しながら隣に座る彼女の手を握った。塔子さんもそっと僕の手を握り返してくれた。

 「二人いる」

 二人?! 驚いた。まさか二人の人を同時に好きになるような、そんな器用な女性には思えなかったのだ。だったら二人も三人も一緒じゃないか。僕もそこに加えてくれよとちょっと思ってしまった。

 「二人ってすごいですね。まさか、二股してるとか??」

 あまりに明け透けな質問になってしまったが、塔子さんは僕の言葉におかしそうに笑った。

 「そうね、二人に言い寄られて悩んでるっていう、贅沢な質問を出来たら良かったんだけど、もう少し事情は複雑なんだ。元々は好きな人は一人だったんだよ。ひとつ年下の四十歳の人でね。でもその人は私の気持ちを知ってるけど、全然応えてくれなくて……いろいろ辛くなっちゃってて。そんな時、私のことを好きだって言ってくれる人がいたの」

 「へえ……そのもうひとりはいくつなんですか」

 「二十八歳」

 「若っ」

 僕の方がよっぽど若いのに、四十歳との年齢差に思わず声が出てしまった。その二人、同じ干支じゃん。そんな僕の様子を塔子さんは不快に思うでもなく、楽しそうに笑っている。……良かった。とりあえず、反応の仕方は間違ってなさそうだ。今のところ。

 「ね。そんな若い人相手なんて、いくら好きって言われてもためらっちゃってさ…」

 「そ、そうですか……」

 じゃあ、さらにそいつより七歳も若い僕なんて到底相手にならないってことか。槌屋、お前の言うこと全然違ってるじゃねーか。絶対にレポートコピーさせてやんねー。理不尽だと思いながらも、心の中で彼に八つ当たりする。

 「でも、好きって言われたってことは、その人とは上手くいってるんですよね」

 僕のその言葉に、彼女は何も言わなかった。その沈黙は、決してイエスというわけではないようだ。彼女は突然、僕の胸に飛び込んでくると、背中に腕を回してきた。彼女のシャンプーの香りが鼻先を掠める。

 「どうしたんですか?」

 「今日は、ここまで……」

 「もう、話してくれないんですか?」

 「うん」

 「そうか」

 ホッとしたような、残念なような複雑な気持ちになりながら、僕は彼女の背中に手を回した。しばらくそうやって抱き合った格好のままで、二人共何も話さなかった。あまりの心地よさに眠りそうになる。

 「上手くいってるわけないじゃん」

 ポツリと、塔子さんがそう言った。よく聞き取れなくて「え?」と聞き返すと、彼女は顔を上げた。僕はどきりとした。塔子さんが泣いていたからだ。

 「上手くなんていくわけない。私は透明人間なんだから」

 こんな時、僕は自分の恋愛経験の少なさが嫌になる。ついでに言うと人生経験も少ない。僕は彼女を慰める言葉を持たなかった。というか、こんなときどうしてあげるのか正解なのかすらもわからなかった。彼女の涙に動揺した僕は、ただただ蝋人形のように固まってしまい、動くことが出来なかった。

 塔子さんはしばらく涙を流していたが、やがて僕から離れて自分でそっとそれを拭った。その仕草を見て、今さら僕が拭ってあげるべきだったと思い至った。正解はいつも後から追いついてくる。そこにたどり着いたときはいつだってもう手遅れなのだ。

 「……ごめんなさい」

 そう言って彼女は笑った。涙で濡れた目がキラキラしていて、とても綺麗だった。

 「……綺麗だ」

 「え?」

 「あ、いや。変なこと言ってごめんなさい」

 思わず口を出た言葉に、自分で驚いた。

 「泣いている塔子さんが綺麗だと思った。ごめんなさい、変な意味はなかったんです」

 塔子さんは一瞬ポカンとしたけれど、すぐに笑って、「ありがとう」と言った。そして「今日はもう帰ろう」とも。

 曖昧に頷いて、上着を着込む。なんだかとても不安になった。塔子さんは、もう僕に会ってくれないんじゃないかって、そんな予感がした。

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