第二話
結局その日は、ソファの上で塔子さんと二時間ほど抱き合ったり軽くキスをしただけで帰ることとなった。彼女が服を脱いでベッドに誘ってくれるかも知れない、という淡い期待は脆くも崩れ、AmazonTVを直せなかった負い目もあって僕も強い態度に出られなかった。僕の興奮が高まってくると、彼女はつと身体を離して「今日はここまでにしよう。ごめんね、ありがとう」と言ったのだった。不満はあったけれど、黙って従って彼女の部屋を去った。だって僕は、彼女とハグをするだけの関係で、恋人でもなんでもないのだ。
翌日、大学の図書館でゼミのレジュメ作成に必要な本を探していた。たくさんの蔵書に書かれているタイトルを眺めているだけで、文字が目を滑る。探しているようで探していない。思考はずっと別のところにあった。
「よっ」と肩を叩かれて振り返ると、同じゼミの槌屋がいた。「ああ」と惚けた声を出して答える。僕は、自分と正反対のキャラのこいつが苦手だ。黒髪にメガネで痩せぎすで、漫画のモブキャラのような自分に対し、彼は明るく染めた髪の毛に程よく逞しい身体つき、コミニュケーション能力にも長けていて、先輩や教授のウケも良かった。だから僕みたいな地味な人間にも平気で声を掛けてくるのだ。自分を嫌う人間がいるなんて夢にも思っていない。無意識の傲慢さ。こういう馴れ馴れしいウェイ系は僕が嫌いだった。それは多分に、嫉妬も混じっていたけれど。
「課題の本探してんの? レジュメめんどくさいよなあ。書いたらコピー回してよ」
「誰が。僕よりもっと頼りになる友達いるだろ、槌屋なら」
「いやいや俺の友達みんなナマケモノだから。コピーさせてくれる人間探してる奴ばっかで自分で書こうとしてる奴皆無だから。仕方ないからせめて課題の本くらいは探そうと思って図書館来たら、健人いんじゃん? お、ここに自分で書く真面目な奴いるじゃんって」
槌屋の言う「真面目」というワードが癇に障る。それはつまり、つまらないとか要領が悪いというのと同義語なんだろう。馬鹿にされている気がして、僕は黙って書架と槌屋の間を抜けるように歩いた。
「あれ?? 健人? 怒った?」
「軽々しく名前で呼ぶなし」
「だってお前健人じゃんよー。他になんて呼んだらいいの? あ、もちろんコピーはタダとは言わんよ。今度コンパやるんだ。お前も来いよ」
「行くかよ」
「なんで? お前彼女いないっしょ? 女子の幹事さ、なかなか可愛いんよ。まあ女子ってのは自分より可愛い子なんて連れてこないもんだけどさ。それでも男子の機嫌を損ねないためにそこそこのレベルは揃えてくるはずだから期待できるかもしらんよ」
「いいって」
「あれええ?」
大げさな声を出して僕の顔を覗き込む。そこには底意地の悪そうなニヤついた笑顔が張り付いていた。
「ひょっとして彼女いるの?」
「……彼女じゃないけど」
「あ、でも彼女に近い人? いいなあ。俺今全然いないよ。二ヶ月くらい」
死ね。心の中で毒づきながら僕は無視して図書館を出た。しかしどういうわけか、槌屋はしつこく追ってくる。
「意外だなあ、健人に彼女がいるなんて」
「だから彼女じゃないって」
「でも女いるんだあ。興味あるなあ。どんな子なの?」
明らかに面白がっている。こんな奴に塔子さんの話なんか出来ない。僕のことをからかわれるだけなら構わないが、彼女のことまで悪しざまに言われるかもしれないし、そうなったら耐えられる自信が無い。
そう考えたところで、僕は自分が思っているより塔子さんを大事に思っているのだと気づいた。どうしてだろう。彼女と出会って三ヶ月、恐らく会った回数は十回にも満たない。それなのにどうして、彼女のことがこんなに気に懸かるのか。
僕の微妙な表情の変化を読み取ったからだろうか。槌屋がにやっとしながら言った。
「恋愛相談なら、乗るけど?」
僕は足を止めた。誰が。誰がこんな奴になんか。そう思ったのに、不思議と彼の誘いを断る言葉が出てこない。
視線を彼に向けると、僕の迷いを感じ取ったように、「こう見えて俺、口硬いし。誰にも言わないし」ホントかよ。でも、最終的に僕は彼の誘いに応じることになった。結局のところ、僕は誰かに話したかったのだ。塔子さんのこと、自分のこと。彼女が僕のことをどう思っているのか。そして僕のこの気持ちも、恋心なのかどうか。
大学の近くのカフェのボックス席で、僕は槌屋に洗いざらい打ち明けた。彼女との出会いから、先日のことに至るまで。しかし誰かに聞いてもらいたいという欲求とは裏腹に、話せることはほとんど無かった。僕は塔子さんのことをあまり知らないし、自分の気持ちもきちんと説明がつかない。彼女と正式に付き合いたいという気持ちがある一方で、塔子さんの「君はヤリたいだけで私のことを好きなわけじゃない」という言葉がほとんど呪文のように効いていて、自分の気持ちにイマイチ自信が持てないのだ。
だからきっと要領を得ない内容だったと思う。話も行ったり来たりで、順序だててきちんと話せたとは思えない。しかし槌屋は意外にも、辛抱強く真面目に聞いてくれた。
アイスコーヒーを音を立てて啜りながら、彼は煙草に火をつけた。僕は露骨に顔をしかめた。せめて一言断れよ。
「ふーん。なかなかやるね、ケンティーも」
いつの間にか訳のわからない愛称を付けられてしまった。やめろよそんなアイドルみたいなあだ名。僕はメガネを指で押し上げながら、「茶化さないでよ」と消えるような声で言った。
「んーん。茶化してないよ。純粋にいいなあって思っただけ」
「何がいいんだよ」
「よくわかんないけどさあ。そのトーコちゃんってさあ、お前のこと気に入ってるのは間違いないと思うよ」
「そうかな?」
「そうだろ。じゃないと実際にハグなんてしないって。キスだって身体だって触らせねーよ。まあアレだな。ケンティーのその人畜無害そうな外見と性格が功を奏してるんだな」
「やっぱり茶化してんじゃないか」
思わずムッとして言い返す。しかし槌屋は紫煙を吐きながら冷静に答えた。
「褒めてんだって。まあ、俺みたいなんにそう言われたら馬鹿にされてると感じても仕方ないのかもだけど。例えばさ、アプリで待ち合わせして実際に彼女の前に現れたのが俺だとするじゃん。そうしたらきっと、トーコちゃん帰ってたと思うよ」
「え、なんで?」
「だって俺チャラそうじゃん。あ、ヤラれちゃう、ハグだけじゃ済まないって危機感抱かれちゃうよ。だから見た目でお前は最初に信頼されたってワケ。ここ重要な。次のテストに出るから」
「面白くない」
「知ってる。ま、冗談は置いておいて。だから彼女の本心はよくわからんが、お前をある程度信用してしかも気に入ってるのは事実。ここまではおけ?」
「おけ」
なんだか講義を受けているような気分になりながら、すっかり冷めたブレンドコーヒーを啜った。
「あと、お前の気持ちは恋だと思うよ、俺は」
「え?」
あっさり自分の気持ちに答えを出されてしまったので、僕は返って戸惑ってしまった。
「だってそうだろ。さっきだって図書館でボンヤリしててさ。心ここにあらずって感じだったじゃん。トーコちゃんのこと考えてたんだろ。それって恋だよやっぱ」
「で、でも、塔子さんは、僕の気持ちはヤリたいだけって…恋じゃないって」
「あ、それはね。彼女の戦術。お前の気持ちが暴走しないように最初に釘を刺してるんだよ」
「どういうことだよ?」
「どんなに彼女が若く見えてもさ、綺麗でもさ、実年齢は二十歳も離れてるわけでしょ。ケンティーが思う以上に、彼女はお前と恋愛関係になるのが現実的じゃないって感じるてると思うぜ。でも若い男が年上の女性に憧れるって映画でも小説でもよくある設定じゃん。そんで最後は自分より若い女に走られて捨てられるみたいなさー。どうせ傷つく結果に終わるんだったら深い関係にならない方が良いって思ってるんだよ」
「そうか…」
僕は内心落ち込んだが、それを隠すようにコーヒーカップを口元に運んだ。
「僕の気持ちが、彼女には負担なんだな」
「とも、限らず」
二本目の煙草に火をつけながら、槌屋は言った。「え、どういうこと?」
「たぶん、トーコちゃんはトーコちゃんでお前のことを本当に好きになってしまわないように気をつけてるんだよ。だからケンティーの気持ちを抑えるようなことを言う。ケンティーが本気になって情熱的に口説いてきたら、それをはねつける自信が無いんだな。あーやだねー。狡いね大人って」
「まさか」
槌屋の意外な考察に驚いて、コーヒーカップを持つ手の力が抜けた。危うくコーヒーをこぼしそうになって、慌てて両手でカップを抱える。
「いや結構的を射てる意見言ってると思うなー我ながら」
「え……そうかな。そうなのかな」
とたんにドキドキしてくる。そうなんだろうか? 塔子さんも僕に多少なりとも気があるんだろうか? 自分の都合の良いように考えたいという欲求から、槌屋の説に傾きたくなった。しかし彼は、僕のそんな期待に水をかけるような意見を言い放った。
「でも、気をつけたほうがいいと思うよ。そのトーコちゃん」
「どうしてだよ」
「いややっぱり、そんな怪しいアプリで出会った若い男にさ、ある程度まで身体をまかせるなんてマトモじゃねーよ。それっぽい女ならともかく、そうじゃないんだろ?」
「まあ、僕も彼女のことをそんなに知ってるわけじゃないけど…平日は会社員やってるって言うのは聞いた。見た目もそんな派手ってわけじゃないし…きちんとしている人に見えるよ」
「コンサバっぽい女がねえ。不惑を過ぎてねえ…しかもそこまで許しておいて入れさせないってのもね。ワケわからんね。まさか処女ってわけでもないだろうし。ケンティーは童貞だろうけど」
「う、うるさ……」
「いや気をつけろってのはさー」
ムキになりそうになる僕をいなすように、わざと間延びした口調で槌屋は続けた。
「お前の話を聞いただけの印象なんだけどさ。なんか、死んじゃいそうなんだよね」
「……え?」
「死にたいじゃないかなって思ったの。そのトーコちゃん」
「…………」
いきなりそんなことを言い出す槌屋を、僕はたぶん間抜けヅラで眺めていたと思う。どうして? どうして塔子さんが死にたがってると思うんだろう。ていうか、僕は彼女のことが何もわからないのに、実際に会ったことも無い槌屋がどうしてそんなにわかるんだ? よくわからない嫉妬と焦燥感と不快感で黙り込んでしまったとき、チリンと僕のスマホが鳴った。LINEの通知音だ。
「それ」
と、土屋が煙草で僕のスマホを指す。
「トーコちゃんじゃね?」
その通り。今日、時間があったら会えないかという塔子さんからのいつものお誘いだった。