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第一話

 『AmazonTVが映らなくなった』

 塔子さんからそう短いLINEがあったのは、バレンタイン前の祝日、まだ午前八時過ぎくらいのことだった。ベッドの中で惰眠を貪りながらうつらうつらしていた僕は、スマホの通知音で目が覚め、そのメッセージを確認したのだった。

 半分夢の中みたいな状態で、僕はなんとか返信した。

 『移らないって、まっくらってことでさか?』

 送信してから、誤字が酷いということに気づいた。寝ぼけて慌てて返したからだ。ちょっと焦ったが、塔子さんにはきちんと通じたらしい。彼女はすぐに『信号がありませんってメッセージが出るだけ』と返してきた。

 僕はちょっと考えてから、

 『塔子さんがいいなら、僕が行って見てみましょうか』

 『ほんと?』

 『はい。何時なら都合が良いですか?』

 『私は今日一日フリーだから、何時でもいいよ。健人くんの都合の良いときで』

 『じゃあ、今から行きます』

 そう返してから、僕は彼女からの返事を待たずにベッドから出て着替えた。

 ちょっとだけウキウキしていた。逢瀬の約束以外で塔子さんからメッセージをもらったのは初めてだ。ちょっとだけ頼りにされている気がした。

 インスタントコーヒーとブラックサンダーという朝食を済ませた僕は、リュックを背負ってアパートを出た。塔子さんの家まで地下鉄で二十分くらい。今日は快晴、暖かい。まだ午前中だから、今日はたくさん一緒にいられるかもしれない。彼女との逢瀬はいつも一、二時間という短いものだった。塔子さん、今日はフリーだって言ってたから。ひょっとしたら夕方くらいまで共に過ごせるかも知れない。そんな淡い期待を胸に、スマホで「Amazon tv stick 信号がありません」というキーワードをググりながら歩く。彼女には「ちゃちゃっと直してあげますよ」みたいな体でLINEしてしまったが、僕は機械に弱い。彼女との仲を今以上に深めるためには、この問題をきちんと解決してあげることが必須条件だろう。とはいえ、塔子さんだってこれくらいのことはすでに検索して試しているのかもしれないが。


 僕は二十一歳。大学三年生だ。塔子さんは四十一歳だから、ちょうど彼女が成人式を迎えたときに僕が生まれたことになる。

 どうしてこんな年の離れた女性と会うことになったのか。

 それは悪名高き出会い系アプリの恩恵である。彼女もおらず、童貞で、暇でしょうがなかった僕は無料の出会い系アプリで話し相手を探すのが日課となっていた。別にヤレなくても、会って話して、暇つぶしになれば良い。もちろんヤレればもうけものくらいの気持ちでアプリを覗いていた。

 無料のしょうもないアプリだったので、若い子が多かったし、プロフィールに書かれている年齢が本当かどうかも怪しかった。だいたい、三十代以上の女性はゴテゴテに加工した顔写真(もしくは拾い物画像かも)と、多少サバを読んだ年齢を載せているものだ。こっちもそれを承知で話しかけるのだからお互い様だった。

 でも塔子さんは、バカ正直に四十一歳と実年齢を載せていた。写真も、きちんと自分の写真を使っているようだった。もちろん、口元を隠して全体はわからないようにしていたが、それでも危うい人だなあと思って詳細なプロフィールを覗いてみた。顔写真を拡大してみると、目元しか写っていないけれど切れ長で綺麗な目をしている。それに、四十一歳にはとても見えない。綺麗な人だなと思った。プロフィールには、「エロいことはなしで、ネカフェで一時間くらいハグするだけの関係の人が欲しい」とあった。

 おお、これはイケるんじゃね? と思ったのが僕の第一印象だ。嘘か本当か知らないが、大学の友達が「四十代以上の女はエロい」と言っていた。生理が上がる前の女性というのは、生存本能が働いて子孫を残そうと性欲が高まるというのだ。どこのエロ本情報だよと思ったが、そういう都市伝説に頼りたくなるくらい、僕は女性に飢えていた。早く童貞を捨てたかったし、それにイメージとして年上女性は優しく余裕があるような気がしたのだ。

 エロいことなしでハグだけというのも興味を引いた。いきなり「ヤリましょう!!」みたいなノリだったら、僕でも「お、おう…」という感じで腰が引けてしまい、話しかけるのは怖くなるが、これくらいのソフトな関係ならノリやすいと思ったのだ。

 ハグだけでも女性に触れられるなら嬉しいし、そこからそれ以上に持ち込めたらもっと良い。

 そこで僕は塔子さんにアプリ内のチャット機能を使って話しかけ、やり取りをし、会うことになったのだった。それが三ヶ月くらい前のことである。

 

 以前一度だけ、塔子さんの家には行ったことがある。だから場所は覚えていた。学生の安アパートとは違い、綺麗な高層マンションに塔子さんは住んでいる。彼女は「安いし狭いし、たいしたとこじゃないよ」と言っていたが、それでも大人の女性が住むに相応しい住居だなという印象を抱いた覚えがある。

 入口でインターフォンを押してエントランスのオートロックを開けてもらい、彼女の部屋の前に立つ。

 扉から顔を覗かせた塔子さんは、薄く化粧をしてジーンズに胸元の空いたセーターを着ていた。これくらいのメイクの方が幼くてさらに若く見える。彼女は僕を認めると目を細めて笑い、「わざわざ来てもらってごめんね」と言った。

 「全然。どうせ暇ですから」

 「何度も再起動したり、コードの抜き差ししてるんだけど変わらなくて」

 マジか。内心焦った。僕もスマホでググった結果、再起動か電源コードの抜き差しくらいしか対処法を得られなかったのだ。やはりすでに試されていた。もちろん、そうじゃなければ他人を頼ろうとしないだろうが…。

 塔子さんは映画がとても好きと言うのは、今までの会話の中から知っていた。毎日ネットフリックスやアマゾンプライムで映画を見ているのだそうだ。AmazonTVが映らないというのは、彼女にとって死活問題に違いない。なんとか役に立ちたい。そして見直されたいという気持ちがあった。

 「僕も試してみていいですか」

 「うん……」

 彼女は頷いたが、その目は「無駄だと思うけど」と詳細に語っていた。自分がやってダメなことを、僕がやったから直るということはないだろう。だからって、僕も簡単にお手上げですとは言いたくなかった。

 が、結論から言うとやはりダメだった。何度も再起動したり、コードを抜いたり差したりする僕を、塔子さんはソファから気の毒そうに眺めていた。もう二十回はコードを抜いたかな…というときに、

 「健人くんありがとう。もういいよ。ひょっとしたらもうリモコンが壊れているのかもしれないし。Amazonのサポートに電話してみるから」

 そう彼女から言われて、僕はホッとしたような情けないような気持ちになった。役に立てなかった不甲斐なさと、彼女に失望されたかもしれないという不安があった。

 「変なこと頼んでごめんね。コーヒーでも飲もう?」

 はい…と小さく返事をして、僕はソファに座った。同時に、彼女の飼い猫がヒラリと僕の膝の上に乗ってきた。人懐っこい猫で、小さくゴロゴロと喉を鳴らしている。僕はその柔らかい背中の毛をそっと撫でた。

 キッチンからコーヒーの入ったマグカップを二つ持ってきて、塔子さんは僕の隣に座った。その瞬間、僕はもうたまらなくなって、彼女の細い腰を抱き寄せた。

 塔子さんは少し笑って、「コーヒーくらい飲んで落ち着いたら?」と耳元で囁いた。その息が耳朶にかかっただけで、下半身に血液が集中するのがわかったけれど、それを気取られないように彼女の後頭部を引き寄せる。シャンプーの良い香りがした。塔子さんの匂いだ。彼女も僕の背中に軽く腕を回した。膝の上の猫が窮屈そうだ。でもどこうとはせず、僕は猫のために膝の位置を固定したまま塔子さんを抱き寄せるという、非常に体に負担のかかる姿勢を強いられてしまった。そのまま「会いたかった」って言えれば良かったのだけれど、シャイで女性経験も乏しい僕は甘い言葉を囁くことに慣れていなかった。二十歳も年上の彼女からしたら、僕なんて全然子供だろうし、格好つけてもそれを見透かされてしまいそうで、恥ずかしくてなかなか自分の気持ちを素直に出すことが出来なかったのだ。でも塔子さんが先に「健人くんが来てくれて嬉しかったよ」と言ってくれたので、それを呼び水に僕もやっと口を開くことが出来た。

 「僕もです。僕も、頼ってくれて嬉しかったです。……役に立てなかったけど」

 彼女は僕の肩に首を預けながら、「いいの。健人くんを呼びたいだけの口実だったから」と言った。マジで…。嬉しくて飛び上がりそうだった。でももちろん本当に飛び上がることはせず、代わりに彼女を抱きしめる腕に力を込める。

 僕は塔子さんが好きだった。恋をしていたと言っても良い。

 でも塔子さんはそうじゃない。僕のことなんて好きじゃない。それくらいは、ひよっこの僕にだってきちんとわかっていた。そして塔子さんは、僕の気持ちを見透かした上でいつもこう言っていた。

 「君は私のことが好きなわけじゃないよ」

 「なんで? なんでそう思うんです?」

 「ヤリたいって気持ちを恋心と勘違いしてるだけ。だって君みたいな若い男の子が、こんなおばさんに本気になるわけないでしょう?」

 大人の彼女にそう言われると、「そうなのかな」と納得してしまいそうになる。

 確かに僕は塔子さんとセックスしたい。純粋にセックスという行為に興味があるのは否定しない。でも、だからって誰でも良いというわけじゃないのだ。最初は確かに、出会ってからセックスまでショートカット出来そうだなという下心で彼女と会った。早く童貞を捨てたかったし、それなら相手は素人が良かった。風俗に行くお金もなかったし、最初がプロってちょっと格好悪い、気がした。でも本当に会ってみたら、セックス以上に塔子さんに興味が沸いた。綺麗な人だったけれど、派手なわけじゃない。若く見えるけれど、二十代に見えるというほどでもない。どこにでもいそうな大人の女性。きちんとした彼氏がいてもおかしくない彼女が、どうしてあんなクソみたいなアプリでハグするだけの相手を探しているんだろう。その見た目と行為のギャップに、僕はどうしようもない興味が沸いて、彼女をもっと知りたくなったのだ。

 でも彼女は必要以上に自分のことを語らなかった。僕のことを純粋に「ハグするだけの相手」としてしか接してくれなかった。少しでも深入りするような質問をすると、微笑んでそっとキスしてきた。童貞の僕はキスされるだけでドギマギしてしまい、それ以上は何も考えられなくなってしまう。それで質問はうやむやになってしまい、上手くはぐらかされるのだ。文字通り口を塞がられるって奴だ。

 でも何度か会ううちに、僕もそれで良いような気がしていた。本当はもっと彼女のことを知りたいし深い仲になりたいけれど、それが彼女を傷つけることになるのなら踏み込まない方が良い気がしてきた。それに、塔子さんを今以上に好きになってしまうのも怖かった。僕が本気だとわかった瞬間、彼女はきっと僕との関係を断つだろうと思ったからだ。塔子さんとはハグだけじゃなく、キスもするし、胸も触らせてくれるし、何なら裸で抱き合ったこともある。でも、絶対に挿入だけはさせてくれなかった。めちゃくちゃ残酷だ。僕がどれだけ切なくやるせない気持ちになっているか、彼女にはわかっているのだろうか。最初は腹もたったけれど、泣きそうな目で微笑む彼女を見ると、僕は……いつも何も言えなくなってしまうのだった。

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