とある伯爵令嬢の予想外
「婚約の…撤回でございますか…?」
父の書斎に呼ばれてきてみれば、そこには母と嫡男である兄がいた。
何だか物々しい雰囲気が漂っている。
そこで父から告げられたのが、婚約の撤回だった。
「聡明なルーナですから、全て話してしまった方がいいと思いますよ。」
歳の離れた末の妹をとても可愛がっている兄からは怒気が吹き出しているようだ。
促されて父が口を開いた。
母は今にも倒れそうな顔色だ。
「実は…お前の婚約のことだが…フリードリヒ殿には恋人がいて、この度その恋人に子どもができたことがわかったそうだ。」
フリードリヒに恋人がいると言われても全く驚かなかった。あちこちで女性と仲睦まじい姿を見ていたのだから当たり前だ。
しかし、恋人を妊娠させるとは呆れてしまう。その恋人と結婚するということは、お相手は下級貴族や庶民ではないということか。
「その恋人というのが…その…」
理論的に話すお父様にしては珍しく歯切れが悪い。
「その恋人は、お前の友人のファースト伯爵家のマリア嬢だそうだ。」
父に代わって兄から衝撃の事実を告げられた。
「え…?」
確かに耳に音が入ってきているのに、理解するのに時間がかかった。
「マ、リア、って…」
驚きすぎて言葉が出ない。
「そう。お前の親友たちの1人だ。あちらは領地持ちの伯爵家で、妾にするわけにはいかないので、あちらと改めて婚約しなおし、結婚するそうだ。」
何も言わない母は涙ぐんでいる。兄も抑えきれない怒気が目に見えるようだ。
「我が家を馬鹿にするにも程がある!こんな可愛いルーナを差し置いて浮気するなど!!」
兄が激昂しているが、何も頭に入らず、ぼんやりとしたままルナリエラは退出して自室に戻った。
フリードリヒ様が…マリアと…??
ルナリエラは2週間ほど前に会ったばかりの、いつも気弱なマリアを思い浮かべた。
確かにルナリエラはフリードリヒの好みではなかっただろう。つり目気味の目も賢しげに話すのも気に入らないと言われていた。しかし、ルナリエラはそれでも結婚する以上、誠実に付き合っていこうと思っていた。結婚すれば子どもも産まなければならない。せめて穏やかな家庭を作りたかった。婚約が決まってから5年以上、そうやって彼からの心ない言葉にも耐えてきたつもりだった。
マリアは確かに儚げで華奢で、大人しく男性に従うことができる女性だ。
可愛げもなく、流行り物の話題にもついていけない自分より。
「撤回…?心から友達だと…思っていたのに。」
フリードリヒに婚約を解消されたことなのか、その恋人がマリアだったことなのかわからないショックを、ルナリエラはうまく逃せないまま、その夜は眠ることができなかった。
それから3ヶ月ほど、ルナリエラはほとんど屋敷から出なかった。夜会にも学校にも行かず、ぼんやりとしている時間ができた。
いままでのルナリエラからするとありえないことだ。
家族は大層心配していて、彼女の心が癒えるまでと何も言わないでいてくれている。しかしあまり長く夜会から離れるわけにも行かず、今夜は久しぶりに夜会に出ることになっていた。
ルナリエラが会場に入った瞬間、多くの視線がルナリエラに向けられた。それはとてもではないが友好的ではなかった。ルナリエラが兄にエスコートされ、主催者に挨拶に向かうだけでも、そこかしこで囁く声が聞こえる。
「ほら、あの方よ…」
「あらあら…くすくす…」
「勉学に励まれてると言っても女性だし、あの器量では…」
時に扇で口元を隠し、時に嘲笑を浮かべルナリエラを見やる貴族達。
何とか淑女の仮面を被りつつ主催者への挨拶を終え、心配した兄と共に早々に壁際に移動した。
「大丈夫か、ルーナ…顔色が…」
「ええ、久しぶりの夜会なので少し人の波に中てられてしまいましたわ。」
「そうじゃないだろう!ルーナは何一つ…」
兄がルナリエラのために怒ってくれているのはわかるが、今はルナリエラは格好の噂の標的だ。みなルナリエラの様子を伺っている。
「お兄様、少し喉が渇いてしまいました。わたしはここで少し休みたいので、飲み物を持ってきていただけますか?」
兄を遮り、扇子を広げる。アメリアとエルローザがこちらに近づいてくるのが見えたので、兄も黙って離れてくれた。
「ルナリエラ!」
「アメリア、エルローザ、お久しぶり」
「貴方そんな…」
アメリアが何か言いかけたところで、周囲のざわめきが大きくなる。
3人が入場口をみると、そこにはフリードリヒと彼にエスコートされたマリアが入ってきた。
「フリードリヒ様よ。新しい婚約者様をお連れになって…」
「障害を乗り越えて幸せになる2人、何て素敵なの」
「まるで物語のような話ね」
主に女性達からの声が聞こえる。
ふと、マリアがわずかに視線を流し、ルナリエラ達の方をみた。ルナリエラを見た瞬間、マリアの唇が意地悪く弧を描いた。その表情はまさに嘲りだった。
「ルナリエラ、外に出て話しましょう!」
アメリアがそういうと、エルローザと共にルナリエラの手を引いてバルコニーにでた。兄も視線をこちらに向けていたので、移動したのはわかっている。おそらくあとで合流するだろう。
バルコニーにでると、ちょうど腰掛けが空いており、ルナリエラを真ん中にして3人で座った。
「なによあれ!なによ!!」
アメリアがぎゅ、とルナリエラの手を握る。
「アメリア、エルローザ。わたしあれ以来夜会に出ていないものだから、夜会での話を聞かせてもらえないかしら?」
ルナリエラの思いがけない言葉に、アメリアとエルローザは互いに顔を見合わせた。
「それは…貴方にとってきもちのいいものじゃないわよ…?」
「いいの。なにを言われてるかわからないほうが怖いし、なんだか雰囲気がおかしい気がしたから…」
アメリアとエルローザは顔を見合わせると、言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。
「あのね…今社交界ではフリードリヒ様とマリアの純愛物語が出来上がっているの。障害を乗り越え、幸せになる2人の話がね。」
「その障害というのが…」
「わたしなのね…」
「有名な観劇場で、貴方達の婚約撤回の少し前から明らかにフリードリヒ様とマリアをモデルにしたような、純愛の物語が上演され始めていたの。それがとにかく今人気の脚本家や役者を使っていて、チケットが取れないくらいの大人気なの。それで、女性達の間で障害を乗り越える恋物語がものすごく流行っているところに今回の話な訳。」
「わたしも見に行ったんだけどねぇ。うまーく綺麗なところばかり切り取られた、綺麗な演目だったのよぉ〜。愛のない結婚を強いられた男女が真実の愛に目覚め結ばれるって」
なるほど。素地があった上にタイミングよく婚約撤回があったから、物語と同じようにわたしが障害だと思っている人が多いわけか、とルナリエラは冷静に考えていた。
「すまない…侯爵家が事前に金を注ぎ込んでいたようだ…嫡男の醜聞を塗り替えて、ルーナに責任を転嫁するように…気がついた時にはもう…」
タイミングよく兄が飲み物を持ってあらわれ、ローテーブルに置くと、バルコニーにもたれかかった。
眉根にきつくシワをよせている。最近兄にこんな顔ばかりさせている気がして、ルナリエラは申し訳なかった。
その後も3人が色々な言葉でルナリエラを慰めてくれたが、ルナリエラの心が晴れることはなかった。




