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薄暗い坑道を進むにつれ、空気はさらに重く淀んでいった。湿った土と悪臭が混ざり合い、呼吸のたびに肺の奥にまとわりつく。岩壁の隙間からは地下水が滲み、ぬかるんだ泥が薄く広がっている。足を進めるたび、靴底が湿った感触を伝えてきた。
偵察のため、複数のドローンを先行させていた。手のひらほどの機体は坑道の天井付近を静かに飛び、光学センサーと熱感知装置で周囲の状況を記録していく。しかし、地下の坑道は想像以上に複雑だった。
旧文明期に掘削された通路と崩落した構造物が重なり、通路は複雑に分岐している。瓦礫に塞がれたトンネル、半ば崩れた横穴、垂直に落ち込む断層。迷路のような構造が行く手を阻む。
それに、混沌の浸食による干渉が強まっているのか、通信は断続的に乱れていた。ドローンから送られる映像は周期的に歪み、ノイズが走る。位置情報もわずかにずれ、地図上の表示が安定しない。電波が完全に遮断されているわけではないが、坑道の奥に進むほど信号の質は悪化していった。
それでも、前方で何が起きているのかは明らかだった。やがて、坑道の奥から騒がしい戦闘音がハッキリと聞こえるようになる。金属を叩くような鈍い衝撃音、何かを引きずる湿った摩擦音、そして鼻を刺す悪臭。糞尿と血液が混ざったような臭いが、空気の流れに乗って漂ってくる。
〈混沌の子供たち〉が近くにいるのだろう。ミスズが片手を静かに上げる。それだけで、ヤトの戦士たちは一斉に動き出した。
彼らの動きはほとんど音を伴わない。各々が自然に間隔を取り、壁際や岩場の陰に滑り込む。戦士たちの身体能力は人間を大きく上回っていた。動作にも無駄がなく、狭い足場でも姿勢を崩さない。暗闇の中でも視界を失うことなく、敵の気配を正確に捉えている。
やがて前方の坑道が広がり、視界が開けた。天井から吊るされた照明の薄明かりのなか、小規模な群れが確認できた。〈混沌の子供たち〉で間違いない。数十体はいるだろうか。坑道に敷かれたレールを破壊しようとして、粗末な槍で地面を掘り返そうとしていた。
半透明の皮膚が照明の光を受けて鈍く光り、内側の組織がぼんやりと透けて見える。裂けた口が開閉するたび、粘液が糸のように滴る。
群れの一部がこちらの存在に気づいた。大きな頭を持ち上げ、口を大きく開く。その様子を見ながら、ミスズは短く合図を送った。ヤトの戦士たちは同時に散開し、坑道の左右に広がって怪物の群れを包囲するように配置につく。
その動きは訓練された兵士のそれに似ているが、どこか違っていた。より直感的で、より慎重で素早い。あるいは、獣の狩りに似ていたのかもしれない。
所定の位置についた瞬間、示し合わせたように射撃が始まった。レーザーライフルの閃光が暗闇を切り裂く。指向性のエネルギーが連続して放たれ、怪物の身体を正確に貫いていく。そのたびに半透明の肉体が崩れ落ち、焼けた組織が収縮し、粘液が床に飛び散った。
群れは一瞬で混乱した。数体が突進してくるが、ヤトの戦士たちは位置を変えながら射撃を続ける。怪物が接近する前に確実に撃ち倒していき、戦闘は瞬く間に決着した。
地面には粘液と肉片が飛び散り、坑道の空気はさらに重くなっていた。そのさらに奥では、〈ラプトル〉の部隊が戦闘を継続している。赤い熱線が暗闇を横切り、高出力のレーザーが醜い怪物の身体を正確に焼き切っていく。そのたびに、小さな怪物の影が踊るように壁面で揺れた。
戦闘のあいだ〈ラプトル〉はほとんど動かない。ただ射撃姿勢を維持し、近づく脅威を淡々と排除していく。ヤトの戦士たちが側面から合流すると、両者は自然に連携を始めた。機械は正面の射線を維持し、戦士たちは岩場の陰や高所から敵を狙う。互いの動きを邪魔することはなく、むしろそれぞれの特性を補い合う形になっていた。
異種族と機械。性質の異なる戦力が同じ方向を向いて動く光景は、混沌の闇に対抗する唯一の秩序のように見えたが、この小さな怪物はあくまで前触れに過ぎない。
〈混沌の子供たち〉は、侵食の初期段階に姿を見せる生物だ。より大きな存在が侵入してくるための陽動であり、火付け役でしかない。それは、これまでの戦場でも何度も確認されていることだった。
ふいに坑道の奥から低い振動が伝わってきた。地面の砂利が微かに揺れ、天井から細かな石片が落ちてくる。戦闘のさいに感じていた振動よりも、明らかに重い衝撃だ。地盤の奥深くから押し上げられてくるような揺れでもあった。
地底の奥深くで、何かがゆっくりと動いているような感覚だ。ミスズと視線を合わせると、どうやら彼女も同じことを感じ取っているようだった。残念ながら、今はどうすることもできないので前進することにした。
コケアリの砦は坑道の先にある。そしてその手前には、おそらく砦を包囲しようとしている混沌の本隊が控えている。坑道の闇は深く、静かだったが、目に見えない脅威がゆっくりと近づいているのがハッキリと感じられた。
一刻を争うような状況なので、今は死骸の処理はできないが、問題が片付いたらコケアリが処理してくれるだろう。彼女たちは死骸を処理して再利用する術をもっているので、死体すらも役立ててくれる。
しばらく進むと、前方が行き止まりになっているのが見えてきた。その奥には、〈女王の魔術師〉として知られていたコケアリが管理する遺物がある。
その未知の構造物に混沌の脅威を近づけないため、主要な坑道はすでに封鎖されていた。重機で崩された岩塊と鉄の補強材が幾層にも積み上げられ、簡単には突破できない壁になっている。そのため、我々は別の連絡路を使う必要があった。
機械人形と〈働きアリ〉たちによって整備されたその通路は、資源搬出用の坑道ほど広くない。岩盤を削って無理やり作られたような狭い通路で、天井も低く、場所によっては岩盤がそのまま露出している。古い補強材がところどころに埋め込まれているが、完全な人工構造とは言えず、自然洞窟と採掘通路が混ざり合った不安定な空間だった。
ここで襲撃を受ければ、部隊は分断される。射線も限定され、退路も限られる。ヤトの戦士たちもそのことを理解していた。足音はさらに小さくなり、より警戒しながら進む。彼らの視線は常に前後と岩場の影を行き来し、暗闇のわずかな変化も見逃さなかった。
ユーティリティポーチからカグヤの偵察ドローンを取り出すと、機体表面を撫でるようにして起動させる。手のひらに収まるほどの小さな球体は、静かな振動とともに浮上し、連絡路の奥へと音もなく滑るように飛んでいく。
周囲を走査しながら高速で移動し、取得した情報は〈戦術データ・リンク〉を通じて即座に共有され、戦士たちの視界に拡張現実として重ねて表示される。狭い通路の形状、分岐の位置、動体反応。すべての情報が精査され、視覚情報として浮かび上がった。幸い、敵影は確認されなかった。
ミスズは連絡路の状況を確認すると、すぐさま部隊に指示を出して移動速度を上げた。ヤトの戦士たちは即座に応じ、ほとんど小走りのような速度で移動していく。それでも動きは依然として静かだった。靴底が岩盤を踏む感触だけが、微かな振動となって通路に伝わっていく。
やがて先行していたドローンが連絡路の出口に到達した。狭い通路を抜けた瞬間、視界が一気に開ける。視界の隅に表示されていた映像を拡大表示して、空間全体を確認する。
そこには巨大な地下洞穴が広がっていて、複数の坑道がこの地点で合流していることが分かる。地下の岩盤が大きく崩れ落ち、自然の空洞が形成されたのだろう。しかし、その規模は異様だった。
岩壁のあちこちには無数の亀裂が走り、その内部には青く発光する鉱石が埋まっている。鉱脈が露出しているのか、未知の鉱石は淡い光を放ち、洞穴全体を照らしていた。その光は不規則に揺らぎ、水面の反射のように岩壁に流れていく。
広大な空間は淡い青に染まり、現実離れした光景を作り出していたが、その美しさは戦場の光景によって完全に打ち消されていた。空間の中央には巨大な砦が見える。コケアリたちが築いた石組みの防衛拠点だ。
その外観は中世の軍事要塞というより、古代文明の巨石遺跡に近い。巨大な石材が複雑な角度で積み上げられ、隙間はほとんど存在しない。精密に削り出された石が互いに噛み合い、剃刀の刃すら差し込めないほどの密度で組み上げられていた。
壁を形成する石材は黒い大理石のような光沢を帯びていた。青い鉱石の光を反射し、砦の表面に揺らめく光の模様を描き出している。
その砦を取り囲むように、無数の影が蠢いていた。〈混沌の子供たち〉だ。その数は百を優に超えている。乳白色の半透明の皮膚は粘液に濡れ、青い光を受けて鈍く輝いていた。群れは波のように砦へ押し寄せ、石壁に取り付き、裂けた口を開きながら這い上がろうとしている。
砦の周囲では、コケアリの戦士たちが防戦していた。そこでは、巨大な黒蟻に跨る戦士の姿も確認できた。その黒蟻のなかには仰ぎ見るほどの体長を持つ個体もいて、外骨格は黒曜石のような光沢を帯びていた。
騎乗するコケアリの戦士が長槍を振るい、黒蟻は前脚で小さな怪物を押し潰す。鋭い大顎が開き、つぎの瞬間には怪物の身体を噛み砕いていた。半透明の肉体が破裂するように裂け、四肢が宙に舞う。
それでも群れの動きは止まらない。倒れた怪物の上を踏み越え、つぎの個体が押し寄せてくる。砦の防壁では、コケアリたちが石弩にも似た射出装置を使い、金属製の矢を撃ち込んでいた。
その矢は群れの中央に突き刺さると、つぎの瞬間には蒼い炎を撒き散らしながら爆ぜ、引き千切れた怪物の手足が吹き飛ぶ。
戦闘はすでに長時間続いているのだろう。砦の周囲には怪物の死骸が積み重なり、地面は粘液と血液で滑りやすくなっていた。
ミスズとナミはカグヤから受信した情報を確認し、状況を把握すると、ヤトの戦士たちに次々と命令を出していく。彼らは〈ラプトル〉を連れて即座に散開し、戦闘態勢に移行した。各自が射撃位置を確保し、砦に押し寄せる群れの側面を狙う。
ハクも前脚を広げ、低く身構える。八つの眼が赤く明滅し、混沌の勢力との戦いに備えていた。混沌の群れと砦の戦闘はすでに臨界点に近づいている。我々がここで介入しなければ、砦の防衛線は押し潰されるかもしれない。
砦の奥に見える坑道。その最深部に送り込んだ偵察ドローンから映像が届いたのは、まさにその時だった。拡張現実のスクリーンに表示されたのは、闇の中をうねるように進む〈混沌の子供たち〉の群れだ。数えきれないほどの怪物が砦を目指し、一直線に迫ってくる。
拠点のセンサーが捉えていた異常な反応が、この軍勢によるものなのかは分からない。しかし、ひとつだけ確かなことがある。これから始まる戦いは、想定していたよりも遥かに苛烈で、そして長く続くということだ。







