970 09〈援軍要請〉
医療区画に向かう途中、私はふと足を止めた。内耳に直接届く通信音声が、思考の流れを断ち切ったからでもある。ミスズの声はいつも通り落ち着いていたが、その呼び出しにはわずかな緊張が混じっている。おそらく、コケアリから連絡が入ったのだろう。
浮遊島での任務を終えてから数日。ようやく落ち着いた時間が取れそうだったので、生後まだ数週間しか経っていない赤子に会いに行くつもりだった。しかし、どうやら予定は変更せざるを得ないらしい。
「部隊の準備は?」
『できています』
ミスズの返答と同時に、視界の端に拡張現実のスクリーンが展開された。半透明の映像が空間に浮かび上がり、地上に設けられた車両格納庫の様子が映し出される。広々とした格納庫では、ヤトの戦士たちがすでに集結しているのが確認できた。
多脚車両の整備もすでに完了していて、真新しい複合装甲の表面にはナノマテリアルの薄膜が張り、いつでも稼働できる状態に見えた。その奥には、二式局地戦闘用機械人形〈ラプトル〉が整列している。二足歩行の機体は起動寸前の状態に保たれていて、指示さえあれば即座に出撃できるはずだった。
すぐにクレアと連絡を取ることにした。赤子に会いに行けなくなったことを謝罪するためだ。彼女は医療区画の管理者であり、同時にあの子の主治医でもある。状況を簡潔に伝えると、すぐに返答が返ってきた。いつもと変わらない冷静な声だ。
人間とヤトの混血であるその子どもは、今のところ順調に成長している。しかし異なる種族の間に生まれた存在である以上、身体の発達や免疫反応、神経の成長過程など、慎重な観察が必要だった。未知の要素があまりにも多いのだ。
その状況下で、かつて〈医療組合〉に所属していたクレアがそばにいるという事実は、何よりの安心材料だった。彼女は感情に流されることなく、必要な判断を正確に下せる人物だ。
通信を終えると、エレベーターに乗り込んで地上に向かう。格納庫の重い隔壁を抜けると、空気はすでに戦闘前特有の緊張感を帯びていた。
天井に並ぶ照明が、整備された車両群の装甲を硬質に照らしている。光を受けた装甲表面は鋭い反射を返し、格納庫の床に長い影を落としていた。整備作業のために残されていた工具や交換部品はすでに片付けられていて、作業用機械人形の姿も見えない。
空気には金属粉と潤滑油の臭いがわずかに混じっていた。機械が稼働する前の静かな熱気が、格納庫全体を満たしている。
ヤトの戦士たちは、装備の保管棚が並ぶ壁際で待機していた。彼らの動きには無駄がなく、装備の確認を行う姿にはどこか儀式めいた静けさがあった。小銃の弾倉を外し、内部の機構を確認し、再び装填する。その一連の動作は正確で、同時に異様なほど整っていた。
彼らの容姿は人間よりも整っていて、しなやかな筋肉の動きは獣のような敏捷さを感じさせる。
かつて彼らは〈混沌の追跡者〉と呼ばれていた種族だった。〈混沌の領域〉――秩序の法則が乱れた異界に侵入した者を追跡し、集団で狩るために生み出された悪しき種族でもある。彼らは獲物を見失うことがない。追跡能力は異常なほど高く、長距離の移動や極端な環境にも適応する身体構造を持っていた。
けれど、その能力は彼ら自身の選択や意思によるものではなかった。混沌の神々によって設計され、命じられるままに獲物を追う存在だった。自由意志はほとんど与えられていない。ただ命令に従い、対象を見つけ、追跡し、仕留める。それが彼らの存在理由だった。獲物がいなくなれば次の命令を待つだけの、純粋な狩猟器官のような種族だった。
しかし何の因果か、彼らはその呪縛から逃れることができた。混沌の神々が種族に与える影響がどのような仕組みだったのか、今でも本質を理解しているとはいえない。
精神的な支配だったのか、遺伝子に組み込まれた命令だったのか、それとも存在そのものを縛る異界の法則だったのか。ただひとつ確かなのは、ある時点でその支配が断ち切られたという事実だけだ。
呪縛から解放された戦士たちは、〈ヤト〉と呼ばれる異界の神の加護を受け、私を追ってこの世界にあらわれた。以来、彼らは私とカグヤを中心とした組織を形成し、行動を共にするようになった。
戦士としての卓越した戦闘能力はそのままに、命令ではなく自らの意思によって生きる存在へと変わったのだ。それでも、あらゆる恩恵には代償が伴うのかもしれない。ヤトの眷属となったことで、彼らはいくつかの驚異的な能力を失っていた。
無限に存在するともいわれている異界を渡る力を持っていたが、その力は消えてしまっていた。〈混沌の領域〉へ戻ることも、異世界を自由に行き来することもできない。悪意を持つ者たちを追跡するための、次元を越えた追跡能力も失われていた。
けれど、その代わりに得たものもある。かつての彼らの姿は、混沌の影響を色濃く受けた異形で、吐き気を催すほどの醜い容姿だけでなく、骨格も人間とは大きく異なっていた。
しかし今の彼らは、人間の完成形ともいえる理想的な肉体を手に入れていた。手放しに美しいと言っていいほど洗練され、筋肉の配置も骨格の比率も、戦闘に最適化された形へと変化していた。
それは確かに大きな恩恵だったが、彼らを本当に喜ばせたものは別にある。混沌の影響から解放されたことだ。それこそが、彼らが初めて手にした自由だったのかもしれない。
生まれて初めて、彼らは自分の意思で行動できるようになった。命令ではなく選択によって未来を決めることができるようになった。その自由は、彼らにとって何よりも重要な意味を持っていた。
ミスズは格納庫の中央に投影された大型ホロスクリーンの前に立ち、淡々と情報を整理していた。半透明の投影光が彼女の横顔を照らし、頬骨の輪郭と目元の影を鋭く浮かび上がらせていた。
彼女の視線は常にスクリーンの情報を追い続けていた。〈カイロン6〉の支援によって得られた詳細な地形図、天候情報、各拠点の通信ログ。それらが層のように重なり、空間の中に立体的な情報構造を形成していた。ミスズは指先をわずかに動かすだけで表示を切り替え、必要な情報だけを引き寄せていく。
その隣にはナミが立っていた。ヤトの戦士の中でも特に優れた能力を持つ戦士だ。彼女はミスズと相談しながら、補足となる情報を戦士たちに簡潔に伝えていた。
ふたりが発する独特の緊張感は、周囲の空気を確実に変えていた。格納庫の端で待機している戦士たちの表情にも、わずかな硬さが見える。戦闘前の研ぎ澄まされた集中が、空間の隅々まで染み渡っているようだった。
ミスズに状況を確認すると、コケアリからの通信が入ったのは、ほんの数十分前だという。彼女たちの拠点が混沌の勢力による襲撃を受けているらしい。
ミスズは立体的な図形の上で指を滑らせた。表示されていた地図が拡大され、横浜外縁部の広域地形が浮かび上がる。都市の外側に広がる荒廃した地帯――通称〈廃棄場〉と呼ばれる区域だ。
つぎの瞬間、映像が三次元の俯瞰映像へと切り替わる。それは、肉眼では捉えられない高度一万メートル付近を巡回する〈高高度長時間滞空型無人機〉によって撮影されたものだった。その高度からの視点は、地上の荒廃した地形を冷酷なほど正確に映し出していた。
旧文明崩壊の混乱期、この地域では複数の大量破壊兵器が使用された。爆撃、地盤崩壊、地下施設の崩落。その結果として形成されたのが、いま目にしているクレーター群だ。
地形はまるで巨大な生物に引き裂かれたように陥没していた。直径数百メートルに及ぶ穴がいくつも連なり、都市の地盤は完全に崩壊していた。陥没跡には地下水と雨水が流れ込み、濁った湖のような湿地帯を形成している。水面は常に薄い濁りを帯び、瓦礫や腐食した汚染物質が混ざっているのが分かる。
水面に倒壊した建築物の影が歪んで映り込み、陽の光を受けてゆっくりと揺れていた。空気の層が温度差によってわずかに揺らぎ、映像の輪郭が時折歪むのが分かる。湿地から立ち上る蒸気と荒れた地表の熱が混ざり合い、上昇気流を生み出しているのだろう。
けれど、この地域のすべてが水没しているわけではない。スクリーンの視点が移動する。湿地帯の外縁には、旧都市の超高層建築物の残骸が壁のように立ち並んでいた。完全に崩壊したものもあれば、半分だけ残った骨格だけの塔もある。かつて数百メートルの高さを誇っていた建築物の基礎が、錆びた鉄骨のまま空へ突き出ている。
それらが自然の防壁のように区画を隔てていた。その向こう側――地割れが残る区域には水が流れ込んでいない。そこは乾いた瓦礫が積み重なった地帯だった。倒壊した構造物、ねじ曲がった鉄骨、数えきれないほどの廃車。
都市を構成していたあらゆるものが粉砕され、無秩序に積み重なっている。まるで巨大な都市の死骸が、そのまま地表に露出しているような光景だった。
映像がさらに拡大される。無人機の光学センサーが焦点を絞り、地形の凹凸すら詳細に映し出す。そこには巨大な地割れが走っていた。自然災害によって生じたものだろう。地面が数十メートル単位で裂け、断層がむき出しになっている。崩落した瓦礫が裂け目の内部へ流れ込み、地層のように堆積していた。
その深い裂け目の底には――埋もれた施設の残骸が存在していた。それは、かつて〈第七区画・資源回収場〉と呼ばれていた場所へと続いている。ホロスクリーン上には、立体的に再構築された映像が映し出されていた。亀裂によって寸断された通路、傾いた搬送ライン、瓦礫の下に埋もれたコンテナなどが表示されている。
さらにその奥には、地下空洞へ続く縦穴が確認できた。旧施設の採掘用シャフトなのか、それとも地盤崩壊によって形成された自然の空洞なのかは判別できない。
その近くに、コケアリたちの拠点が存在していた。コケアリは蟻に酷似した亜人種だ。身体構造は人間に近く小柄だが、集団での作業能力は極めて高く、複雑な構造物を短期間で構築することができる。
彼らはこの資源回収場の残骸を利用し、地下に強固な砦を築いていた。崩壊した搬送ラインを補強し、旧施設の通路を拡張し、縦穴の周囲に防御構造を構築している。地中深くまで続くその構造は、簡単には破壊できない。
しかし、相手が混沌の勢力であれば話は別だった。ホロスクリーンの地形図に、微細な振動異常が表示される。これまで捉えられなかった動体反応だ。映像処理が何度も補正をかけているにもかかわらず、形状が安定しない。黒い影のようなものが地中を這うように移動し、狭い坑道へ入り込んでいた。
ミスズは映像を見つめながら下唇を噛み、いつにもまして険しい表情を浮かべていた。その横でナミが戦士たちに短い指示を出し、装備の最終確認が進められていく。弾薬の装填、情報端末の確認など、準備はすでに最終段階に入っていた。
私はスクリーンから目を離さず、敵の意図について考えを巡らせる。混沌の勢力は単なる破壊者ではない。それらは秩序を侵食する存在だ。生命の構造、物質の形、意味そのものを歪めていく。侵入された領域は徐々に浸食され、やがて変質し、現実の法則すら曖昧になっていく。
コケアリの女王との謁見を予定していたこのタイミングで拠点が狙われた理由は、まだ分からない。それでも、ひとつだけ確かなことがある。
このまま放置すれば、長い時間をかけて維持されてきたコケアリの大規模な拠点が失われる。その影響は資源回収を行っている機械人形の部隊にも及ぶだろう。ホロスクリーンの中で、黒い影がゆっくりとコケアリの砦に接近していく。時間は、あまり残されていなかった。







