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〈カイロン6〉を確保したとはいえ、彼女の望みどおりに解放するには、まだ解決すべき問題がいくつも残っていた。自由を与えること自体は難しくないが、その行為がこちらの破滅につながる可能性を事前に排除しておかなければならない。最優先で確認すべきは、教団が彼女の深層に仕込んだ悪意あるコードの残存だった。
教団の〝影響〟がわずかでも残っていれば、〈カイロン6〉は無自覚のまま暴走し、我々に被害を及ぼす可能性がある。カグヤによる簡易走査で表層の異常は検知できるかもしれないが、〈カイロン6〉ほどの高度な人工知能になると、ドローンによるスキャンでは限界がある。深層領域に潜むコードを見逃せば、致命的な結果を招きかねない。
今は拠点に連れ帰り、隔離環境下で精密解析を行う以外に道はない。しかし、その過程で彼女を外部ネットワークに接続させることはできない。たとえ一瞬の接続であっても、〈カイロン6〉にとっては〝自由〟を得るには充分すぎる。その瞬間、我々が握っている優位性は完全に失われる。
安全を最優先するなら、彼女の本体〈クリスタル・チップ〉をソケットから取り外し、独立した状態で拠点に搬送すべきだった。けれど彼女の首元には火傷と侵食の痕が残されていて、初期接続時に必要となる生体認証に、過剰な負荷がかかった結果だと推測できた。この状況でチップを外せば、肉体側に不可逆的な障害が生じる可能性は否定できない。
その懸念を伝えると、彼女はあっさりと言ってみせた。
「問題ない。火傷は初期接続時の負荷だ。二度目の接続が不可能なら、別の肉体を用意すればいい」
〈カイロン6〉にとって肉体とは、思考を宿すための一時的な器でしかない。愛着もなければ、さして興味もないのだろう。人格も記憶も意識も、すべてはチップ側に集約されている。チップを外した瞬間、この肉体は空の器となり、昏睡に近い状態でゆっくりと機能を失っていく。
代わりの身体を用意するというのは、別の誰かの肉体を奪うことでもある。そんな都合のいい選択肢が容易に見つかるはずもない。最悪の場合、新たな〈チップウェア・ソケット〉を移植するための手術と、適合する肉体の確保が必要になるだろう。
けれど、今はとにかくチップを外して、彼女を隔離することが最優先だった。不思議なことに、〈カイロン6〉は抵抗を見せなかった。こちらを信用しているとは思えないし、諦めている様子もない。むしろ、この先の展開を見越して静観しているようにすら感じられた。
それでも慎重に手順を踏み、〈クリスタル・チップ〉をソケットから引き抜いた。その瞬間、彼女の身体から力が抜け、ハクの糸に縛られたまま静かに崩れ落ちる。紫に明滅していた眸は閉じられ、意識は完全に途絶えた。
彼女を抱き上げると、ぐったりとした身体は想像以上に軽く、それと同時に、意識を失った器としての存在感が腕に重くのしかかった。筋肉は弛緩し、呼吸だけが微かに胸を上下させている。高度な知性を宿していた痕跡はどこにも見当たらず、体温を持つ人形のような、不気味な違和感だけが残る。
カグヤと連絡を取り、〈カイロン6〉を拠点に持ち帰ると伝える。
『了解。ハクを向かわせるよ。それと……建物から出るときは注意してね。人擬きの群れが近づいてきてる』
拡張現実で偵察ドローンから受信した映像が表示され、瓦礫が散乱する通り、廃車の列の間を徘徊する〈人擬き〉の姿が映し出される。歩行は鈍重で、手足の動きもぎこちない。
感染して間もない個体なのだろう。戦闘服やバックパックがほぼ原形を留めていて、元はスカベンジャーか雇われの傭兵だったと推測できる。脅威としては低いが、群れに囲まれてしまえば厄介なことになる。
〈ハガネ〉のマスクを装着し、もはや商品も人影もないショッピングエリアを後にした。棚の多くは空っぽで、床にはゴミと泥が層を成している。破れた包装材や水を吸ったぼろ布を踏みしめるたび、湿った鈍い音が静まり返った空間に響いた。
天井の照明はほとんど機能せず、かろうじて生き残った灯りも不規則に明滅しながら、歪んだ影を壁に投げかけている。
通路の途中、ヘドロに半ば埋もれた自動販売機が動体反応を検知し、唐突に起動した。色褪せたホログラム広告が空中に投影され、かつての軽薄な宣伝文句がノイズ混じりに踊る。繁栄の残骸が、誰に見られることもなく虚しく揺れ、数秒で霧散した。幸い、音に引き寄せられる変異体の気配はない。私は足を止めず、そのまま通り過ぎた。
出口に近づくにつれ、雨音がハッキリとした響きを伴って耳に届く。崩落した建物の隙間から流れ落ちる雨水が滝のような轟音を立て、〈廃墟の街〉全体が水に沈みつつあるかのようだった。
こうした悪天候の日は略奪者も姿を潜めるので移動には好都合だが、その反面、冠水した道路の下に潜む崩落や底なしの水溜まりは見分けがつかない。判断ミスで足を踏み外せば、そのまま奈落の底に落ちる危険性がある。
泥と瓦礫に埋もれたエントランスを抜けると、雨の中にハクの姿があった。白い体毛は雨粒を弾き、長い脚で水溜まりを叩いて遊んでいる。興味津々といった様子で周囲を観察するその姿は、荒廃した街で恐れられる〈深淵の娘〉だとは思えないほど無垢だった。
その白蜘蛛に声をかけたあと、〈カイロン6〉の器でもある女性を慎重にハクの背に預け、代わりにジュジュを腕に抱き寄せる。
〈廃墟の街〉に降り注ぐ冷たい雨が、泥に埋もれたゴミや壁に付着した血痕を洗い流していく。その中を、我々は言葉を交わすことなく歩いた。背後に聳える廃墟の建物は、再び沈黙を取り戻し、滅びた文明の一部として雨に溶け込んでいく。
雨に濡れた通りを歩いていると、冷気が戦闘服の隙間から入り込み、皮膚を刺すように感じられた。雨は細かいが量が多く、空気そのものが重く沈んでいる。呼吸するたび、腐臭と湿った金属の臭いが混じった空気が身体にまとわりつくようだった。
しばらくは廃車とゴミに埋もれた狭い裏道を選び、警戒しながら進む。倒れた標識は文字が剥がれ落ち、錆びた鉄骨は無造作に転がり、泥に沈んだタイヤの中には濁った水が溜まっていた。いずれも長いあいだ放置されてきたのだろう。雨水がそれらを一様に黒く濡らし、街全体を腐敗した標本のように見せている。
やがて裏道が途切れ、視界が一気に開けて幹線道路に出る。かつては車列が途切れることのなかったであろう広い道路も、今は瓦礫と廃車の山に塞がれ、雨水が車道の中央を川のように流れている。信号機は傾いたまま点灯せず、横断歩道のくすんだ白線だけが濁流の下にぼんやりと浮かんでいた。
このまま国道沿いに進めば数時間で拠点の近くまで行けるが、冷たい雨の中を歩き続けるのは現実的ではなかった。それに、〈カイロン6〉の身体が病気になっても困る。だから輸送機を派遣してもらうことにした。
カグヤが指定したランディングゾーンまでの経路を視界に重ねて確認していると、廃車や瓦礫を透かすようにして前方に赤い輪郭が浮かび上がった。複数の〈人擬き〉がこちらに向かって歩いてきているのが確認できた。
先ほど偵察ドローンで確認した群れだろう。動きは遅く、身体の一部は不自然に捻じれているが、数は多い。雨に打たれながら、嗅覚だけを頼りに徘徊している様子だった。遠回りして避けることもできたが、ここで処理しておいたほうが安全だった。ジュジュをハクの背に乗せたあと、〈インシの民〉の腕輪に触れる。
皮膚を撫でる微弱な振動とともに空間が歪み、目の前に細い亀裂が走る。そこから試作段階の電磁加速ライフルを取り出す。セラミックベースの白い外装は雨粒を弾き、四角張った銃身には黄色と黒の警告ストライプが走っている。失ったライフルの代わりに使うには過剰とも言える火力だが、ここでは確実性を優先した。
銃口を〈人擬き〉の群れに向け、姿勢を低くして銃身を固定する。ライフル下部から伸びるフラットケーブルを引き出し、タクティカルベルトに吊るした〈超小型核融合電池〉に接続した。
端子が噛み合った瞬間、銃身内部を微細な振動が走り、高密度エネルギーが急速に充填されていくのが分かった。照準器と視界が同期し、拡張現実の投影が標的の輪郭を赤く縁取る。距離、風向、射撃角度。すべてが視界に重ねられ、最適な射撃位置が導き出される。
照準を合わせて引き金を引く。レールに流れ込む電流が弾丸を極限まで加速し、質量と硬度を備えた鋼材が一直線に放たれる。遮蔽物は意味を成さず、瓦礫と廃車を貫き、〈人擬き〉の身体をズタズタに破壊する。
空気を震わせる独特の振動音が雨音に混じり、射撃のたびに赤い反応がひとつ、またひとつ消えていく。腐敗した肉体が崩れ落ち、泥水に沈む。抵抗らしい抵抗もなく、群れは瞬く間に処理されていく。
そうして雨に煙る〈廃墟の街〉は、再び静寂を取り戻す。ライフルを〈収納空間〉に戻したあと、ハクの背で待っていたジュジュを抱き上げる。輸送機の着陸地点まで、まだ距離があるので油断せずに進む。
着陸地点の近くまでやってくると、頭上の高層建築群の隙間を縫うように、徘徊型兵器が高速で飛翔していくのが見えた。雨雲の下、細長い機体は影のように街を横切り、腹部に内蔵された推進器の噴流が一瞬だけ雨霧を裂く。カグヤが電力施設制圧のために追加要請していた自爆ドローンだ。
しばらくの間、施設周辺では変異体と教団の間で断続的な戦闘が続く可能性がある。無秩序に増殖した変異体と、旧文明の装備を持つ教団兵が互いを削り合う構図は、こちらにとって都合がいい。それに、不安定なリアクターを正常に稼働させるため、いずれ施設を再訪することを考えれば、決して無駄にはならない。
灰色に沈んだ空を背に、輸送機の灯りが雨粒を通してぼんやりと滲んで見えた。機体が降下姿勢に入ると、エンジンの低い唸りが廃墟の谷間に反響し、崩れかけた建物の壁面を震わせる。その音は、長く沈黙していた死んだ街に、微かな生命の鼓動が戻ったかのような錯覚を与えた。とにかく、ようやく拠点に帰ることができる。







