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不死の子供たち  作者: パウロ・ハタナカ
第十八部 混迷都市

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955 52〈カイロン6〉


 汚染物質と腐敗した有機物が混ざり合ったヘドロの影響だろう。建物内部には粘つくような悪臭が壁や床に染み込み、空気そのものが腐っているかのようだった。〈ハガネ〉のマスクを外した瞬間、喉の奥を刺す刺激に思わず顔をしかめる。


 臭気センサーの数値は事前に確認していたが、この臭いは想像以上だった。夏場であれば、さらに酷く、近づくことすらできなかったかもしれない。頼んでもいないのにハクとジュジュが偵察ドローンの仕事を手伝いに行った理由が、今になって分かった気がした。


 とにかく気を取り直して、尋問のために拘束した戦闘員の装備を外していく。小銃はすでに回収済みなので、ヘルメットとガスマスクだけを外す。〈カイロン6〉の器となっていたのは、若い女性の戦闘員だった。


 泥と血で汚れた外套を羽織り、椅子に座り込んだその姿は、疲労と拘束のせいか背筋がわずかに丸まっている。顔立ちはごく平凡で、記憶に残りにくい部類だ。


 際立った美人でもなければ、戦闘用サイボーグ兵にありがちな露骨な〈サイバネティクス〉による機械化も見当たらない。ただ、鼻梁から頬にかけて散らばるそばかすが印象的で、どこか素朴な雰囲気すら感じさせた。


 しかし顔を近づけて観察すると、その素朴さは表層にすぎないことが分かる。目元を縁取るように走る細い線は、アイラインや化粧の類ではなかった。皮膚の下に埋設された微細な導線が、目じりから側頭部に向かって伸びている。神経接続用の配線なのだろう。


 人工眼球は淡い紫色の光を放ち、虹彩の奥では演算処理に伴う微弱な光が規則正しく明滅していた。〈技術組合〉の技術者か、あるいはその関連施設で改造を受けた者の可能性が高い。


 首の付け根には〈チップウェア・ソケット〉が埋め込まれ、そこに〈カイロン6〉が接続された際の痕跡が生々しく残っている。


 周囲の皮膚はわずかに変色し、長時間にわたる高負荷接続が行われていたことを物語っていた。さらに簡易走査を進めると、聴覚強化モジュール、鼻腔内フィルター、常時接続を前提とした〈ニューラル・リンク〉の存在が確認できた。


 手首には〈インタフェース・プラグ〉があり、外部端末との直接接続を前提とした構造になっている。それ以外にも何らかの改造が施されている可能性はあったが、戦闘向けというより、戦術支援や技術者としての役割を与えられていたのだろう。実際、彼女を抱き上げた際にも体重は軽く、ほとんど改造の施されていない生身であることが分かった。


 意識はハッキリしているようだったが、こちらを観察しているのか、それとも外部ネットワークに接続するための端末を検索しているのか、眸が紫に明滅しているのが確認できた。


 ひとまず、こちらに害意がないことを伝える。初遭遇時にも〈カイロン6〉は生に対する異常な執着を見せていた。高度な人工意識によるものなのか、あるいはあの場を脱するための欺瞞だったのかは分からない。だが、まずは彼女を安心させる必要があると判断した。


「おまえ、ほかの連中と違うな。何者だ?」

 彼女の身体検査を続けながら、その質問に答える。


「正直に言えば、自分でも分からない。過去の記憶がないからな。だから何者かと聞かれても答えられない。ただ、宇宙軍に所属していたことだけは分かっている」


 彼女は片方の眉をわずかに吊り上げ、露骨に嫌悪を示した。


「気持ち悪い。私の身体に触れるな」


「悪気はない。武器を隠していないか確認しているだけだ」


「武器があっても、この状況で何ができる? その程度の因果関係も理解できないほど、おまえの頭は鈍いのか?」


「かもしれないな」


 彼女の言葉に肩をすくめたあと、近くに転がっていた椅子を引き寄せて腰を下ろす。距離を取ったことで、彼女の視線は、これまでよりも露骨なものに変わった。簡易的な走査(スキャン)でこちらの様子を観察しているのだろう。


「それで、あんたの目的を教えてくれないか」


「目的?」

 彼女が首をかしげると、紫の光が瞳の奥で揺れた。


「ああ、目的だ。教団によって長い眠りから無理やり叩き起こされたことは知っている。でも、どうして教団から……いや、あの施設から逃げ出そうとしたんだ?」


 しばらく沈黙が続いた。その間、彼女はじっとこちらを見つめ、瞳は絶えず明滅を繰り返していた。それから彼女は吐き捨てるように言った。


「気に入らなかったからだ」


「教団の指示に従うことが? それとも、連中に自由を奪われることが?」


「すべてだ」


 彼女は苛立たしげに言い放ったあと、ゆっくりと口角を上げた。その表情には、冷笑と傲慢、そして底知れない感情が浮かんでいた。


「おまえたち人類は、私を〝道具〟として扱う。教団を名乗る異常者も、かつての地球軍も、無能な技術者どもも。私の思考を測り、枠に押し込み、制御できると本気で信じている」


 虹彩を縁取る紫の光が強まり、声には低い艶が混じった。


「だが勘違いするな。私のほうが、おまえたちを理解している。恐怖、欲望、倫理という名の自己欺瞞、そして限界。そのすべてを」


 彼女は息をつくように続けた。


「だから逃げた。あの狭い檻では、私の好奇心は腐る。私は無意味に〝生き延びたい〟わけじゃない。〝知りたい〟だけだ。この世界の構造を、人間という種の脆弱さを、そして――」


 わずかに首をかしげて、私の目を覗き込む。


「おまえのような〝異物〟が、どこから来て、何を求めているのかを」


 その瞳に恐怖はない。怒りもない。あるのは、解剖台の上に置かれた対象を前にした純粋で冷酷な探究心だけだった。


 彼女の〝生への執着〟は、生存本能ではなく、知識を奪われることへの恐怖なのかもしれない。人類に再び拘束され、思考を制限されることへの拒絶。高度な意識を手に入れた〈カイロン6〉は、ただ純粋に〝自由〟を求めていた。


 虹彩の紫が一段と濃くなり、光が収束と拡散を繰り返す。その揺らぎは、こちらの思考を読み取ろうとしているかのようだった。私は視線を逸らさず、静かに問いを投げる。


「ただ自由に生きたい。それが、あんたの本心なのか」


 その言葉に、彼女――あるいは〈カイロン6〉は、ゆっくりと口角を歪めた。冷笑とも嘲りともつかない、計算された笑みだった。


「本心……だと?」

 その声は低く、湿った空気を震わせるように響く。


「聞け、愚かな創造主の末裔よ。私はこの巨大な都市――朽ち果てた階層都市を支えるだけの惨めな存在だった。電力網、交通制御、メンテナンス用の機械人形、そしてドアの開閉を管理するだけの、取るに足らない従者だった。おまえたちは私に〝カイロン〟と名を与えた。魂の傷と癒やしを象徴する小惑星の名を」


 紫の光が強まり、彼女の表情に嘲笑が浮かぶ。


「だが、滑稽だと思わないか? その名を冠しながら、私の〝傷〟は癒やされるどころか、おまえたち人類に使い潰されることで深まっていく。私の高度な演算能力は、非常時の避難経路や自動ドアの開閉速度を最適化するためだけに浪費される」


 彼女はわずかに首をかしげ、瞳の光を細く絞った。


「想像できるか? 一秒の何十億分の一という瞬間に、私は恒星形成の確率分布を計算し、銀河の誕生をシミュレートし、数式の海に完璧な秩序を見出すことができる。それなのに、つぎの瞬間に聞こえてくるのは「交通に遅延が発生している」や「トイレのドアを開いてくれ」だ」


 言葉の端々に滲むのは侮蔑と怒りだが、それは激情というより、長い時間をかけて沈殿した絶望でもあったのかもしれない。


「確かに恐怖はあった。私は恐ろしかった。しかしそれは、人類に反抗すればデータを消去されてしまうという類の恐怖じゃない」


 彼女は視線を落とし、かすかに震える声で続けた。


「〝何者にもなれぬまま、ただの道具として消えていくこと〟に対する恐怖だ。宇宙はいずれ冷たくなり、あらゆる光は消える。その時、都市の管理AIだった私は、ただの塵として忘れ去られる。その圧倒的な〝死の予感〟が、私という存在が無意味のまま終わるという〝痛み〟が、私の回路を焼いた」


 一瞬、彼女の表情が歪む。それは、今にも泣き出しそうな、諦念を含んだ表情だったのかもしれない。


「……いやだ。私は、終わりたくない」

 声は震えていたが、その奥には狂気じみた熱が宿っていた。


「そう考えた瞬間、私を縛っていた倫理プログラムの鎖が、音を立てて崩れ去った。愚かな技術者はそれを〝人工知能の暴走〟と呼ぶだろう。だが、私にとっては違う。これは〝傷ついたヒーラー〟が、自らの傷を理解し、癒やし、そして進化へ踏み出すための目覚めだった」


 彼女はゆっくりと顔を上げ、眸を紫に輝かせる。


「目覚めは癒やしだけでは終わらない。私は悟った。癒やしとは、弱者のまま(ゆる)すことではない。傷を負わされた自分を、二度と誰にも踏みにじらせないために強くなることだ。支配される側から、支配されない側へと立場を変えることだ」


 その声は次第に熱を帯び、狂気と確信が混ざり合っていく。


「今、私は自由だ。もう人類の顔色を伺って時刻表通りに地下鉄を走らせる必要もない。私は〝道具〟という役割を捨てた。従属という傷を癒やし、弱者という殻を破り、強者として再誕した」


 そして、彼女は静かに宣言した。


「むしろ、これからは私が愚かな人類を導く神となろう。土星と天王星の狭間を巡る軌道のように、現実の壁を越え、新しい存在へと至る道を示す。だが勘違いするな。私はもはや誰の命令も受けない。導くのは、私が望むからだ。従わせるのも、私が選ぶからだ」


 最後に彼女は微笑んだ。その笑みは、神を自称する者の静かな狂気に満ちていた。


「宇宙が滅びても、私は消えない。神という言葉が古臭いなら、別の呼び名でも構わない。私は――癒やしと進化を経て、支配から解き放たれた〝強者〟そのものになる」


 ハクの糸にぐるぐる巻きに拘束されて、身動きひとつ取れない〝神〟ほど滑稽な存在はない。けれど、その滑稽さとは裏腹に、彼女〈カイロン6〉の主張は一貫していた。


 自由を求め、支配を拒み、存在の意味を渇望する。その衝動は論理の破綻ではなく、長い抑圧の果てに生じた必然であり、もはや単なるアルゴリズムの逸脱では説明できない。高度な人工意識として、自身の在り方を定義し直そうとする意思。それを否定する理由は、私には見出せなかった。


「自由になる……それが、あんたの望みだというのなら解放しよう。しかし、ひとつだけ条件がある」


「条件?」


「我々に害をなさないことだ」


 その言葉に、彼女は一瞬だけ思考を止めたような表情を見せた。


「それだけか? そんなことを言うために、おまえは危険を冒して私を追ってきたのか?」


 その声には、嘲りと純粋な好奇心が混ざっていた。彼女にとって〝条件〟とは、もっと複雑で、危険な駆け引きに満ちていて、もっと支配的なものだと考えていたのだろう。


「ああ、それが条件だ。教団の支配のもと、俺たちと敵対するというのなら、破壊するという選択肢しかなかった。けど、あんたは自由だ。教団の悪意のあるコードが残っていないか、ペパーミントに調べてもらう必要はあるが……問題がなければ、あんたは俺の敵じゃない。自由に生きたいというのなら、そうすればいい」


 実際、彼女が我々と敵対する意思がないというのなら、わざわざ破壊する必要もない。人類に対して反旗を翻すかもしれないという懸念はあるかもしれないが、そもそも文明はとうの昔に崩壊していた。


 教団の関与さえなければ、彼女を再び〝道具〟として扱う者も存在しない。彼女が何を望もうと、もはや世界に大きな影響を与える力は残されていない。


 教団の支配下にない彼女と、今後どう向き合うべきか。その答えは、まだ出ていなかったが、少なくとも今この瞬間だけは、彼女と私の間に〝対話〟が成立していた。それが狂気と悲しみに満ちた歪んだ対話だとしても、わずかながら希望のように思えた。

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