938 35〈揮発性物質〉
テロの首謀者でもある男性の端末に〈接触接続〉を行い、教団が発掘した人工知能〈カイロン6〉の所在を探る。
しかし端末の暗号鍵は使用者の生体反応と紐づけられていて、すでに虫の息の状態では、正規の手順での接続はほぼ不可能だった。強制アクセスに切り替えて仮想メモリを一時的に展開させるものの、肝心の情報――人工知能〈カイロン6〉の所在に直結するデータは、予想どおり存在しない。
通信履歴は徹底的に消去され、アクセスログも意図的に破棄されていた。削除というより、上書きによる抹消だ。教団内部の情報統制は想像以上に厳格で、末端構成員はもちろん、作戦を指揮していた彼でさえ全体像を知らされていなかった。幹部であっても、共有されるのは必要最低限の情報に限られていた。
そこでカグヤは視点を切り替え、端末に残されていた雑多なデータに着目する。大量の物資の移動、特定区画への集中的な補給、兵員の偏った配置――それらを追えば、〈カイロン6〉がどこへ運ばれたのか推測できると考えた。
すぐに複数のリストが表示される。大量の冷却材、旧式ながら高度な演算ユニットに対応した予備電源、耐放射線仕様の遮蔽コンテナ――それらが特定の時期に〈販売所〉の倉庫から運び出された痕跡が確認できた。
『急いだほうがいいかも』
内耳に聞こえたカグヤの声には、わずかな焦りが滲んでいた。
通信遮断装置のおかげで外部からの探知は不可能なはずだったが、どうやら万能ではないらしい。この装置は、もともと〈五十二区の鳥籠〉との紛争で使用された妨害装置を改良し、小型化したものだった。
長時間の使用には耐えられず、妨害できる通信機器も限られている。完全な遮断ではなく、一時的な妨害工作に過ぎなかった。現に、軍の秘匿回線を使用するカグヤとは問題なく連絡を取ることができていた。
「俺たちがこの場所にいることは、すでに教団に知られている……?」
『そういうこと』
短い警告音が内耳に響いて、拡張現実のウィンドウが強制的に展開される。そこに映し出されたフロアマップには、教団兵を示す赤い点が次々と浮かび上がり、こちらに接近する様子が確認できた。巡回ではなく、明確な作戦行動だ。
通路の要所や昇降機、非常階段――すべてが押さえられ、逃走経路は完全に潰されていた。この部屋から生きて出すつもりはないのだろう。
その間にもカグヤは、男性の端末から入手したデータを精査し続けていた。すると、物資の流通がひとつの地点へと収束していることが判明した。〈居住区画〉でも〈備蓄倉庫〉でもない。もっと深い場所――教団が掌握した地下施設の最下層。そこが、〈カイロン6〉が発見された場所だった。
〈カイロン6〉がまだそこにあるのか、それともすでに別の場所へ移送されたのかは分からない。けれど、調べてみる価値は充分にあった。
教団兵との戦闘に備え、ライフルの残弾数を確認する。予備の弾倉には余裕があるが、〈ハガネ〉の補給に回したいので、ここから先は一発の無駄も許されない。呼吸を整えていると、カグヤの声が内耳に届いた。
『私に考えがある。手伝ってくれる?』
「もちろん」
彼女の意図はすぐに理解できた。〈アスィミラ〉が放つ微細な揮発性物質――神経伝達に干渉し、動きと判断力を鈍化させる未知の化合物。それを空調設備経由で拡散させるつもりだ。これなら、教団兵の数的優位は意味を失う。
視線の先に地図が展開され、ハクたちの現在位置が示される。どうやら〈居住区画〉付近にあるメンテナンスシャフトまで移動したようだ。別のウィンドウが浮かび上がり、偵察ドローンからの映像が表示される。
そこには、人の背丈をはるかに超える巨大な換気装置が映し出されていた。幾重にも重なったファンブレード、剥き出しの補強リブ、徹底的に装飾を排した無骨な構造は、旧文明期に好まれたブルータリズムを思わせる。あまりにも異様な光景だったが、広大な地下施設を管理するために必要な設備だったのだろう。
どうやら、その換気装置を利用して〈アスィミラ〉の揮発性物質を〈居住区画〉へ散布するつもりらしい。
しかし問題がある――小さな苗の状態の〈アスィミラ〉と意思疎通ができるかどうかだ。本体とはかろうじて意思を交わせたが、未成熟な苗がこちらの意図を理解する保証はない。
「ジュジュに頼んでもらうのはどうだ?」
『ジュジュも言葉が話せない昆虫種族だよね』
「ああ。でも、俺たちの言葉は理解している。ハク、ジュジュに説明してくれるように頼んでくれないか」
ドローンの映像が切り替わると、どこかで拾ってきたらしい鏡面パネルを覗き込むようにして、自分の姿を興味深そうに観察しているハクの姿が映った。
『……ん、ちょっとまってて』
ハクはそのパネルを無造作に放り捨てると、偵察ドローンの脇で栄養食を摂取していたジュジュに近づき、身振りを交えて説明を始めた。
ドローンのカメラ越しに、ジュジュが触角を揺らしながらハクの説明を聞いている様子が映る。〈アスィミラ〉の苗は、ジュジュの昆虫種族特有のフェロモンに反応する可能性がある――それはカグヤの推測にすぎなかったが、確かめる価値はあった。
『アスィミラとの交渉がうまくいったら、〈居住区画〉を一時的にガスで満たすことになるから、レイも部屋から出ないでね』
「了解」
ライフルの点検を終え、〈ハガネ〉の状態を確認しながら、迫り来る教団兵への対処方法を想定する。遮断フィールドはすでに沈黙し、敵は包囲を完了しつつある。正面衝突になれば、無駄な時間と弾薬を消耗する戦いになる。〈アスィミラ〉の揮発性物質による精神干渉が突破口になる。
動かなくなった男性の生死を確かめるため、頭部に銃弾を撃ち込む。人造人間のように復活しないか観察していると、内耳にカグヤの声が聞こえた。
『うまくいったよ。ジュジュが説得してくれた。今から散布の準備を始める』
カグヤの声には、微かな安堵が混じっていた。数分後、〈居住区画〉の空気そのものが戦況を変える武器になる。
男性の端末を経由して〈居住区画〉の監視カメラに接続しようとしたが、その操作は不要だった。彼はすでに権限設定を書き換えていて、この区画に存在するすべてのカメラ――居室内部に至るまで掌握していた。
監視網の構造やプログラムの組み方を見る限り、〈技術組合〉に所属していたという推測は間違っていなかったようだ。
彼が残した映像履歴を確認すると、監視対象には非戦闘員の女性信者も含まれていて、彼が頻繁に部屋を覗き見していたことが分かる。目的は警備でも管理でもないのだろう。
プライベート空間を覗き見ることで自尊心や欲求を満たそうとした痕跡が、無機質なデータとして残されていた。類稀な技術を持ちながら、倫理観よりも欲望を優先してしまう人間だったようだ。
でも、だからこそ教団の思想に傾倒したのかもしれない。選民意識と支配欲は、信仰と容易に結びつく。自らを特別な存在だと思い込み、他者を支配することで優越感を得ていたのだろう。しかし、その行動は最悪の結果をもたらすことになった。
となりで冷たくなっていた男性を一瞥したあと、廊下に陣取っていた教団兵の様子を確認する。
変化はすぐにあらわれた。教団兵たちの動きが目に見えて乱れ始める。数名は射撃姿勢のまま硬直し、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。照準はぶれ、身体だけが動いているのに、意識だけがどこかに置き去りにされたようだった。
その異常は、感染症のように部隊全体へと伝播していく。過度な身体改造を施された〈レギオン〉のサイボーグ兵と異なり、彼らの多くは生身であり、神経系への直接的な干渉に対しての耐性も代替経路も持たなかった。
〈アスィミラ〉が散布した未知の揮発性物質は、空調設備を介して〈居住区画〉全域へ拡散し、想定以上の効果を発揮していた。
戦闘状態にある兵士ほど、その影響は顕著だ。本来なら戦闘で優位をもたらすはずの攻撃性や警戒心が、統制を失った形で増幅されている。状況認識能力は破綻し、となりに立つ味方を〝差し迫った脅威〟として誤認する。銃口が向けられ、引き金が引かれるまでに躊躇いは見られない。至近距離での同士討ちが断続的に発生していた。
別のウィンドウを開き、ラウンジにいる非戦闘員の映像へ切り替える。そこには錯乱の兆候はなく、むしろ時間が停止したかのような静けさがあった。視線は定まらないが、呼吸は安定している。瞳孔反応も正常範囲内だ。同じ揮発性物質を吸入しているにもかかわらず、反応は正反対だった。
映像を切り替えながら、いくつかの仮説を組み立てる。戦意を持つ者は、扁桃体や前頭前野を中心とした攻撃性、警戒心を司る神経回路がすでに高い活動状態にある。そこに〈アスィミラ〉の揮発性物質が作用し、神経伝達物質の均衡を破壊する。結果、怒りや恐怖といった原始的感情が過剰に増幅され、理性による抑制が完全に崩壊する。
一方、非戦闘員は緊張や敵意をほとんど抱いていない。そのため、この物質は神経活動を抑制する方向に作用し、意識を鈍麻させるだけで済んでいるのかもしれない。興奮も恐怖もない場所では、精神は〝眠り〟に近い状態へ移行する。
つまり、この揮発性物質は単純な幻覚剤でも神経毒でもない。吸入者の精神状態――その時点での情動の偏りを読み取り、それを選択的に増幅、あるいは減衰させる性質を持っているのかもしれない。
異星植物〈アスィミラ〉の生態は、未だ解明されていなかったが、この特性が偶然とは思えない。捕食者を混乱させ、無害な存在には無関心を装う。これは防御機構というより、環境と相互作用する高度なコミュニケーションだとも考えられる。意識そのものに干渉し、集団行動を制御するための進化的戦略――そう考える方が自然だった。
実際、それは浮遊島で〈アスィミラ〉を中心に形成された生態系でも観察された現象だった。
廊下では混乱がさらに拡大していて、部隊としての機能はすでに失われつつあった。けれど、この混乱が続く保証はない。揮発性物質の効果が薄れる前に、動く必要があった。







