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居住区画の入り口には生体認証用の装置が設置されていたが、壁面パネルの内部に組み込まれているのか、まるで装置そのものが存在しないかのように見えた。周囲には複数のセキュリティゲートが等間隔で並び、ゲートの縁をなぞる青いホログラムラインが、呼吸するかのような周期で明滅している。
どうやら立ち止まる必要はないらしい。ゲートを通過するだけで、網膜の毛細血管パターン、皮膚表面の微細な体温変化、筋肉の収縮から算出される歩行特性までが同時に読み取られる。群衆が押し寄せても、システムは瞬時に対象を切り替え、侵入者がいれば内部で警告フラグを立てる仕組みになっている。
ゲートに設置されていた端末に〈接触接続〉を行うと、直前に通過した人間のIDと行動ログが流れ込んできた。これで、教団関係者のリストが入手できた。
ゲートを抜けて廊下に入ると、フロアマップのホログラムが立ち上がる。娯楽室や食堂、大浴場に医療区画――地図は淡く揺らぎ、階層ごとの施設が光の線で結ばれていく。
その廊下を抜けて、居住区画のホールに足を踏み入れる。そこは地下施設とは思えない規模の吹き抜け構造になっていて、円筒状の内壁に沿って十数階分の居住フロアが積層されていた。
各階には数百の居室が規則正しく並び、無機質な壁面パネルが照明を鈍く反射していた。その配置は効率的であり、同時に生物的な雑味を一切排した構造になっていた。空っぽな蜂の巣にも似ていて、そこから聞こえてくる生活音は存在しない。
ホール中央にはソファーやテーブル、自動販売機が設置され、休息や交流のための空間として設計されていた。しかし、そこに漂う空気は重い。閉鎖環境での長期滞在が、人間から感情の起伏を削ぎ落としていったのだろう。
信者と思われる男女が数人、ソファーに腰を下ろしていた。互いに視線を交わすこともなければ、会話もしない。ただ時間が過ぎ去るのを待つように、虚ろな眼差しで前方を見つめている。
地上とは比べものにもならない環境で生活しているにもかかわらず、その表情には安堵も希望も見いだせなかった。どうやら、教団の教義は彼らを幸せにすることはないようだ。
この空間で唯一、能動的に動いていたのは、ホール中央に設置された大型ホログラム投影装置だった。地上の風景、旧文明期以前の娯楽番組、加工された自然映像が次々と空中に浮かび上がる。
ホールを離れると、空気の質がわずかに変化したのを感じ取った。換気システムが調整されているのだろう。照明は暖色寄りに制御され、壁面パネルの表層には微細な光拡散層が走り、空間全体を柔らかく包み込んでいた。無機質な地下施設であることを忘れさせるための、計算し尽くされた演出だった。
廊下を進むと、小規模なラウンジスペースが見えてきた。ソファーと傷ひとつない人工木材のテーブルが整然と並んでいる。その間を、女性を思わせる優美なスタイルを持つ〈マンドロイド〉が、飲料パックや合成食品のトレイを手に音もなく行き交っていた。
関節部に使用された生体模倣用の器官が優れているのか、機械人形特有の動きの違和感は見られなかった。しかし、どこか人間味を欠いている。人間特有の迷いや癖がないからなのかもしれない。
荒廃した地上とは異なり、ここでは衣食住が完全に保障されている。それにもかかわらず、ラウンジに集う信者たちの表情に安堵や満足の色はない。ソファーに沈み込んだまま、視線を手元の容器に落とし、会話らしい会話も聞こえない。
食事を受け取っても感謝の言葉はなく、〈マンドロイド〉の存在を物として扱うというより、そもそも意識の外に追いやっているように見えた。
ラウンジの中心では、外界の自然を再現したホログラムが投影されていた。深い森の樹冠がゆっくりと揺れ、物理計算された風の揺らぎが葉の一枚一枚に反映されていた。
木漏れ日は地上のデータを基に忠実に再現され、小鳥の影が枝から枝へと移動する軌跡すら、現実の生態ログに基づいて生成されていた。技術的には完璧に近い再現度で、視界の端に入ると本物の光景と錯覚しそうになるほどだった。
しかし、誰もその映像に視線を向けようとしない。彼らにとって、それは見慣れた光景なのだろう。あるいは、手にできないものを無意識のうちに避けているようにも見えた。
ラウンジを横目に通り過ぎ、上階へと続く階段へ向かう。足を踏み出すたび、段差の縁に埋め込まれた誘導ライトが微弱な光を返し、進行方向を静かに示した。静まり返った空間に、微かな足音だけが規則正しく響いた。
階段を上りながら、視界の端に拡張現実のインターフェースが立ち上がる。半透明のウィンドウが空中に展開し、入場ゲートで取得したIDデータが階層別に整理されて表示された。教団関係者、一般信者、補助要員。色分けされたリストの中から、標的の名前を探す。
位置情報が即座に反映され、居住区画の内部構造が立体的に再構成された。そこで違和感に気づく。通常、教団関係者には専用の個室が割り当てられているはずだった。けれど標的はひとつの部屋に留まっていない。複数の居住ユニットを渡り歩くように、滞在履歴が点在していた。
さらに詳細を確認する。各部屋の登録情報、居住者のID、滞在期間。ウィンドウが次々と重なり、共通点が浮かび上がる。登録されていたのは、いずれも若い女性信者の名前だった。階層も所属もばらばらだが、いずれも立場の弱い者たちだ。
なるほど。まともな組織だとは思っていなかったが、ここでも弱者が食い物にされているらしい。この居住区画は、表向きこそ信者の保護と安寧を謳っているものの、その内側では明確な搾取構造が機能している。思想で縛り、環境で逃げ場を奪い、弱者を私的に消費してきた。
つめたい感情に囚われそうになるが、すぐに気持ちを切り替える。視界には、カグヤが精査してくれた警備データが常時重ね合わされ、巡回中の兵士たちの位置と進行方向が半透明の立体表示として浮かび続けていた。
兵士たちは赤い輪郭線で縁取られ、階段や壁といった障害物を透過して表示されるため、彼らの動きが手に取るように分かった。変装していたが、危険を冒す必要はない。
ふたり組の兵士がホール側の通路を横切る。彼らの歩幅、視線の向き、死角情報――すべてが解析され、最短かつ最も目立たない経路が青い補助線として示された。それらの情報を確認しながら、巡回している兵士たちを避けていく。
そうして、誰にも視認されることなく標的の部屋の前に到達した。扉の表面は一般居住区画と変わらない無機質なパネルだが、内部には強化されたアクセス制御と複数の監視プログラムが走っているのが分かる。
警備の動きを確認したあと、そっとパネルに触れる。〈接触接続〉により、偽装されたIDが認証プロトコルに滑り込み、管理AIの検証ルーチンを静かに迂回しながら扉を解錠する。直後、扉が開放されて目の前に短い廊下があらわれる。左右にいくつかの部屋が並んでいるが、自爆テロの首謀者は一番奥の部屋にいるようだ。背後で扉が再び閉じ、完全に施錠されたことを確認してから奥に進む。
音を立てずに近づくと、端末の光に満たされた部屋が見えてくる。複数のホログラムウィンドウが宙に浮かび、教団の物資配分表、信者の個人データ、各兵士の情報を示す断片的なリストが重なり合っている。標的は端末に向かい、AIエージェントに指示を送りながら、淡々とリストを構築していた。
こちらの存在を察知したのだろう。彼は立ち上がると同時にデスクのハンドガンに手を伸ばしたが、すでに手遅れだった。私はライフルの銃口を向けて、その動きを封じる。
それから手元の装置を操作し、通信を妨害する装置を起動した。あらゆる通信を遮断する半球状のフィールドが局所的に形成され、部屋中の端末が一斉に沈黙する。ホログラムはノイズを走らせながら歪み、次々と消失し、そのまま沈黙した。
標的の頭部に生体チップが埋め込まれているのかは分からないが、これで神経接続経由の通信も遮断されるので、外部への連絡手段は完全に断たれた。この部屋で何が起きても、情報が漏れることはない。
特徴的な眼帯をした男性は、驚愕と困惑が入り混じった表情でこちらを見つめていた。私はその視線を受け止めつつ、部屋の様子を確認する。
標的を座らせたが、緊張しているのか呼吸が荒い。外界との通信は完全に遮断され、ここには彼と私しかいない。その事実を、彼自身もハッキリと自覚しているのだろう。
私は彼の正面に立ち、わずかに距離を取ったまま視線を合わせたあと、観察に適したソフトを立ち上げる。拡張現実のウィンドウには、彼の心拍数や瞳孔の拡張率が数値として表示された。尋問用に特化したソフトではないが、嘘や動揺の兆候を読むには充分だった。
「あんたが自爆テロの首謀者だということは、もう分かっている」
淡々と告げると、男性の瞳がわずかに揺れた。
否定の言葉は出ない。肯定もしない。ただ、唇の端が微細に震え、心拍数が一段跳ね上がる。その沈黙こそが、何より雄弁だった。
「教えてくれないか」
声の調子を変えずに質問を続けた。
「なぜ拠点を攻撃した。〈レギオン〉の目的は何だ」
壮年の男性は唇を固く結び、視線を床に落とした。恐怖を感じている様子はない。むしろ、教団に対する忠誠心――あるいは、それを裏切った先に待つ痛みへの恐怖が、彼を黙らせているようだった。数秒の沈黙の間も、彼の生体データは小刻みに揺れ続けている。
「教団は、この地下施設で何を発掘した?」
そう質問したときだった。男性の表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。驚きとも焦りともつかない微妙な反応。瞳孔が拡張し、呼吸が一拍遅れる。
「……何か知っているんだな」
男性はすぐに表情を引き締め、再び沈黙の殻に閉じこもった。







