913 10〈旧市街〉
ハクとジュジュを伴って入場ゲートを通過すると、検問所で待機していた傭兵たちの間に小さな騒ぎが起こった。そのざわめきは瞬く間に広がり、空気がわずかに張り詰めていく。〈深淵の娘〉を初めて目にした者たちは、言葉を失い、身体を硬直させていた。
行商人の護衛でもある屈強な傭兵たちの視線は、ハクに釘付けになりながらも、恐怖に突き動かされるようにして逸らされていく。その場に漂っていたのは、形容しがたい死の気配だった。生物的な本能が、彼女の存在を〝ある種の災厄〟として認識していた。そして、その認識は間違っていなかった。
一方で、すでにハクのことを知っている者たちは、それぞれ手にした端末で、なんとか動画の撮影を試みていた。しかし拠点の管理システムは即座に反応し、撮影の妨害を開始する。画面にはノイズが走り、映像は差し替えられ、記録は残らない。それは、もはや日常の一部として定着した光景だったのかもしれない。
ハクは、そうした傭兵たちの反応に何の関心も示さなかった。ジュジュを背に乗せ、お気に入りのアニメソングを口ずさみながら通り過ぎていく。その旋律は、周囲の緊張とは無関係に、彼女自身の静かで平穏な世界のありようを物語っていた。
その検問所から少し離れた場所には、流民たちのための配給所が設けられていた。そこでは、見知った女性たちが働いているのが見えた。彼女たちは、かつて略奪者の拠点に囚われ、商品として取引される予定の者たちでもあった。
数名の警備隊に護衛されながらも食料を配給する姿は、あの日の衰弱や混乱とは対照的だった。
略奪者の拠点から救出された後、帰る場所のある者たちは、すでに各集落や〈鳥籠〉へと送り届けられていた。一方、行き場のない者たちは、この拠点で生活を始めていた。
彼女たちが配給していた食料や毛布などの生活用品も、あの略奪者の拠点から奪取していた物資だ。未開封の食料品や状態の良い物資は再配給され、無駄なく活用されていた。
相変わらず、流民の中には薬物中毒と見られる者たちも混じっていた。彼らが再び略奪者との取引に手を染める可能性は否定できなかったが、我々にできることは限られている。救いを求める者に手を差し伸べることはできても、それを拒む者にしてやれることはない。
簡易宿泊所や配給所の簡単な見回りを終えたあと、ハクとジュジュを連れて旧市街へと向かうことにした。巡回中のドローンが、そこで救難信号らしきものを捉えていた。〈ジャンクタウン〉へ向かう前に、それを確認しておく必要があった。
空中回廊のときのように、今回も無駄骨に終わる可能性はあったが、それでも見過ごすわけにはいかなかった。廃墟の奥深くで誰かが助けを求めているのなら――力ある者として、それに応える責任があった。
ペパーミントがこの場にいれば、それは義務ではなく、宇宙軍による刷り込みであり、洗脳の結果だと言うかもしれない。けれど、この世界で助けを求める人々の声を拾える者は限られている。だから、これは個人的な選択の問題なのだと思う。
〈アスィミラ〉の鉢植えを大切そうに抱えるジュジュの姿を横目に、周囲への警戒を怠らずに進む。甘い香りを放つ葉が微かに収縮し、環境の変化を探っているのが分かった。また形態を変化させようとしているのかもしれない。
巡回警備中のドローンから受信していた情報が更新され、視界の端に表示された拡張現実の地図に、複数の反応が浮かび上がる。商人の隊商が近づいているようだった。
多脚車両を含む列に接近すれば、護衛の傭兵たちとの接触は避けられない。無用な混雑と誤解を防ぐため、街道を外れ、瓦礫の積もる細い路地へと進路を変えた。
薄暗い路地に入ると、そのまま〈旧文明期以前〉の建物が多く残る地区に出る。空気はわずかに湿り、廃墟特有の鉄錆と腐葉土の臭いが混じり合うように漂っていた。屋根を失った建物の骨組みが長く影を落とし、その下には雑草に覆われた廃車の残骸が埋もれていた。
それらの車体はすでに原型をとどめておらず、錆びた外装に深い爪痕のような破損が刻まれていた。変異体に襲われたのだろうか――今となっては分からない。ただ、この地では〝あらゆるものが終わりを迎えている〟という事実だけが、確たる事実として残されていた。
自然の侵食はすでに都市を呑み込みつつあり、ひび割れた道路からは木々の根が伸び、建物の壁面にはびっしりと苔が張り付いていた。都市の遺構は、もはや人のために存在しているのではなく、ただ自然へと還る過程を黙々とたどる巨大な生物の死骸のようにも見えた。
狭い路地には、崩れかけた建物が点在していた。その一角には、かつてスカベンジャーたちが探索の拠点としていた痕跡が残されていた。破れたテント、空の缶詰、散乱するゴミ。外壁には弾痕が刻まれ、そこだけ痣のように黒ずんでいた。
さらに視線を移すと、雑草に呑まれた白骨が横たわっているのが見えた。服の布地がわずかに残り、すぐ近くには錆びついたライフルが置き去りにされていた。
略奪者との間で戦闘があったのかもしれないが――ここで誰が、何と争い、どのように死んだのかは、もはや問題ではなかった。この街では、生死の境界線すら風景の一部にすぎなかった。
そのまま進むと、ドローンが示していた救難信号の発信地点が視界に入ってきた。道路の中央が大きく陥没し、アスファルトは斜めに割れ、下層の地下通路が露わになっていた。
穴の周囲では、数機のドローンがゆっくりと旋回し、淡い光を放ちながら地形のスキャンを続けていた。地盤は脆く、ひび割れた舗装がわずかに沈み込むたび、内部の空洞がその存在を主張するように軋んだ。
崩れやすくなっていたので、足元に注意するようハクに声をかける。
『だいじょうぶ』
ハクは短く答えた。
いつもの調子で、危険を危険とも思っていない無邪気さが感じられた。その直後、地面が突然、嫌な軋みを立てながら崩れ落ちた。ハクは抵抗らしい抵抗も見せることなく、地下の空洞へと吸い込まれていった。
砂塵が舞い上がるなか、慌てて穴の縁へ駆け寄る。視界が暗がりに沈むなか、ハクの白い体毛がかろうじて日の光を反射し、その存在感を際立たせていた。幸いなことに、数メートル下に落下しただけで、怪我はしていないようだった。
落下の際の浮遊感が楽しかったのか、ハクはケラケラと笑っていたが、彼女の背にしがみついていたジュジュは違った。口吻をカチカチと鳴らしながら、ハクを非難するように、その背を叩いていた。小さな手で白い体毛をベシベシと打つたびに、ハクの笑い声がさらに聞こえてきた。
「やれやれ……」
救難信号の位置を確認したあと、瓦礫の縁に立つ。
そして崩れた地面を見下ろしながら、そっと飛び降りた。崩壊した穴の底には瓦礫が積もっていたので、着地は容易だった。しかし周囲の構造は不安定で、捜索に時間をかけることはできそうになかった。崩落の兆候は、壁のひび割れや天井の沈み込みにあらわれていた。
慎重に足場を選びながらハクとジュジュのもとへ向かうと、壁に寄り掛かるようにして息絶えた女性の遺体を見つけた。衣服は砂塵にまみれていたが、まだ新しく、廃墟を探索していたスカベンジャーだと推測できた。彼女も崩落に巻き込まれたのかもしれない。
彼女のそばにしゃがみ込み、遺体の状態を確認する。頭髪は血に汚れ、乾いた血痕が額にこびりついていた。足は不自然な角度に折れ曲がり、骨折しているのが一目で分かった。落下の際に身体のあちこちを強く打ち付けたのだろう。
彼女の周囲には、わずかな食料と破損した情報端末が残されていた。最悪の状況の中で、彼女は生き延びようとしたが、最期の時まで助けは来てくれなかったのだろう。
しかし、救難信号は彼女のものではなかった。壊れた情報端末は何の信号も発信していなかった。彼女の遺体の処置について思案していると、背後からジュジュの声が聞こえた。興奮と焦りが混じった声だった。
振り返ると、小さなジュジュが割れた鉢植えの前に立ち尽くしているのが見えた。〈アスィミラ〉の苗は土をかぶるように床に広がり、葉をわずかに動かしていた。異常な生命力を持つ生物なので、土がなくても問題ないとは思うが、それでも対処は必要だった。すぐに捜索を終わらせるべきだろう。
「カグヤ。戦艦の整備で忙しいと思うけど、こっちの捜索を手伝ってくれないか?」
彼女の返事を待つ間、腰のユーティリティポーチから手のひらに収まる小さなドローンを取り出す。その球形のドローンは音もなく起動すると、静かに浮かび上がり、周囲の空間をスキャンし始めた。
『見つけたよ。ついてきて』
カグヤの偵察ドローンのあとを追うようにして、無機質な通路を進んでいく。空気は冷たく、肌にまとわりつくように湿っていた。
通路を慎重に進むにつれて、前方の空気がわずかに淀んでいくのが分かった。そして、天井の崩落によって道が完全に塞がれているのが見えてきた。瓦礫は幾重にも積層し、鉄骨が突き出す危険な壁になっていた。
その瓦礫の奥で、微かな動きがあった。隙間から上半身を覗かせていたのは、人間の形を辛うじて保っている〝人擬き〟だった。
頭髪はほとんど抜け落ち、露出した頭蓋骨には乾いた血痕がこびり付き、皮膚は腐敗の過程で硬く捩れていた。眼窩は空洞で、光を映すこともない。この区域を探索していた傭兵の成れの果てだろうか――感染に蝕まれ、自我も記憶も失い、単なる死骸として横たわっていたはずの存在だった。
瓦礫に挟まれて動けないまま朽ち果てていた化け物は、崩落による振動で刺激を受け、わずかな生理反応だけで活性化したのだろう。瓦礫に半ば埋もれたその身体は、微かな痙攣を続けていた。救難信号を発したのも、彼自身の意思ではなく――所持していた端末が動きに反応して信号を発したのかもしれない。
それは、もはや救うべき対象ではなかった。ハンドガンを抜き、ゾンビめいた化け物の頭部に照準を合わせる。引き金を引くと、乾いた衝撃が腕に伝わり、凹んだ頭蓋の表面に微かな光の反射が走った。砕けた骨が瓦礫の上に散乱し、残された身体は力を失い、砂塵を巻き上げながら沈黙へと戻る。
残念ながら、今回の捜索も無駄に終わった。ハクたちのそばへ引き返すと、奇妙な光景が目に入った。そこには、壁に寄り掛かって息絶えていたはずの女性が、骨折した足で無理に身体を支えるようにしてぎこちなく立っていた。
また奇妙な幻覚を見ているのだろうか。思わず頬をつねりそうになる衝動を抑えながら、ゆっくりと彼女に近づいた。距離を詰めるにつれ、胸に湧いた違和感が形を帯び、確信へと変わっていった。
女性の頭髪の隙間から、淡い燐光を放つ細い茎が覗いていた。それは人擬きのグロテスクな変異ではなく、見慣れた植物として形を保っていた。
〈アスィミラ〉の茎だ。それは、思いつく限りで最も非現実的な推測だったが、口にせずにはいられなかった。
「……もしかして、〈アスィミラ〉なのか?」
女性の口は動かず、代わりにハクが短く答えた。
『ん、まちがいない』
その声は無邪気な確信に満ちていた。







