081 混沌 re
私とハクは、陰鬱でどんよりとした色彩の樹木と植物が生い茂る深い森の中に立っていた。若紫色の雑草の間を飛ぶトンボにも似た大きな昆虫の姿を眺めていると、樹木の間から日の光が差し込んでくる。その暖かい日差しを感じていると、雷鳴が轟いて、木々の間から稲妻の輝きが見えた。そして気がつくと糠雨が顔にかかっていた。
私はハクと共に巨木の側で雨宿りをするが、数分後には晴れ間がのぞき、その次の瞬間には月光が森の樹木を白く染めた。
「不思議な場所だな、ハク」と、私は白蜘蛛のフサフサの体毛を撫でながら言う。
『ふしぎ』と、ハクは可愛らしい声で答えた。
〈混沌の領域〉に侵入したのは私とハクだけだった。予測不可能で不安定な領域で全滅してしまわないように、ミスズたちには工場に残ってもらうことにした。もちろん、ミスズは反対して、私とハクに同行しようとしたが、彼女がついて来ることは認められなかった。
戦闘用機械人形を遠隔操作していたウミとペパーミントも同様だった。地球との通信が遮断される〈混沌の領域〉に侵入する以上、機械人形の支援を受けることはできなかった。
そしてそれはカグヤも同じだった。カグヤの支援を受けられない状態で探索するのは初めてのことだったので、正直なところ不安しかなかった。網膜に表示されていたインターフェースは不安定で、ほとんどまともに機能していなかったことも不安に拍車をかけることになっていた。
どうやら、この狂った世界で私が頼れるのはハクだけだった。
「行こう、ハク」
『ん』
私とハクは周囲の動きに警戒しながら、深い森のなかを歩いた。騒がしい蝉の鳴き声を聞いていたかと思うと、音はピタリと聞こえなくなり、代わりに身震いするような冷たい風が吹くようになった。
となりの樹木に枝を巻き付けられて、まるで絞め殺されるようにして枯れていた歪な大樹の根元には、大量の金貨が散らばっているのが見えた。私は屈むと、そのうちのひとつを手に取った。金貨は丁寧に磨かれていて、宝石のような輝きを放っていた。
『これは、すごい』と、ハクは金貨の輝きに魅了される。
その金貨の表面には、塔のようにも見える構造物が刻まれていた。金貨をひっくり返すと、見たことのない文字で何かが書かれていた。親指でその金貨を地面に弾こうとして、思い直してベルトポケットに入れると、我々はその場をあとにした。
大量に放置された金貨を電子貨幣に変える方法があるのなら、役に立ったかもしれないが、文明の崩壊した現在の世界では、金貨にそれほどの価値はなかった。それに所持していても嵩張るだけだったので、残りは放置することにした。
ハクは残念そうにしていたけれど、触肢と糸を使って、大量の金貨を体毛にペタペタと貼り付けていたのを私は見逃さなかった。
森を抜けると、白い砂浜がどこまでも広がる海辺に出た。空を見上げると、すさまじい速度で動く厚い雲の流れが見えた。それらの雲は死人を思わせる灰色から、陰鬱な薄墨色に渦巻きながら刻々と色と形を変化させ、まるで狂った道化師のように踊り続けていた。
濃藍色の海は、まるで病人のように気怠げで、波は力なく喘いで砂浜に打ち寄せていた。砂浜にうちあげられた紅紫色の海藻には、不快で奇妙な灰色の甲虫が群がっていた。
ふと視線を感じて森に振り返った。すると木々の間から、ぎらつく一対の眼がこちらに向けられていることに気がついた。一度気がついてしまうとおかしなもので、今まで見えていなかったモノが見えるようになった。そのとき私が認識したのは、大量の視線だった。
複雑に絡み合う樹木の枝の間から、大量の眼が私とハクに向けられていた。
『ころせ! ころせ!』と、それは喚き立てた。
素早くライフルを構えると、得体の知れない獣からの襲撃に備えた。
樹木にぶつかるような鈍い音と枝がこすれる音、そして無数の獣が駆けてくる足音が続いて、大量の獣が森から次々と出てくる。真っ赤な口腔に黄ばんだ牙、そして若葉色の毛皮が見えた。それは豹の頭部を持ったサルに似た悍ましい生物だった。唸り声の間に聞こえる人の言葉が、獣の不気味さと恐ろしさを際立たせていた。
「来るぞ、ハク!」
砂場に片膝をつくと、アサルトライフルによる射撃を開始した。獣はそれほど大きくはなかった。〈混沌の子供〉のように小柄で背も低かったが、動きは素早かった。セミオートに切り替えた射撃で獣を正確に狙い撃っていたが、カグヤのサポートなしでは、私の射撃の腕は高が知れていた。
群れの中から飛び出してきた獣の唸り声がすぐ側で聞こえたかと思うと、一体の獣が私に目がけて跳びかかってきた。次の瞬間、鋭い痛みと共に獣の鋭い牙と爪が、首筋と腰に食い込むのがわかった。
獣の嫌な臭いで息が一瞬詰まる。獣は体格に不釣り合いな怪力で私の身体を締め上げ、両腕の自由が利かなくなると私はひどく焦った。身体を捻り、なんとか腰のナイフを引き抜くと、獣の背中に何度も刃を突き刺した。それでも首筋に食い込んだ獣の牙は、じりじりと首に食い込んできていて、窒息して意識が飛びそうになる。
獣に組みつかれた状態で砂浜に倒れ込んで、その拍子にナイフを取り落としてしまうと、恐ろしい絶望を感じた。が、すぐに獣から解放されることになった。不意に身体が自由になり、首筋に牙を食い込ませていた獣の顎の力が弱まると、大量の血液を撒き散らしながら獣の首が飛んでいくのが見えた。
『レイ、へいき?』
我々に襲いかかろうと機会を窺っていた獣から私の姿を隠すように、ハクは前面に立つと、脚を大きく広げて周囲の獣を威嚇する。
「ありがとう、ハク」
私はそう言うと首筋の血液を拭う。
腰に食い込んだ獣の爪はボディアーマーで何とか防いでいたが、無防備な首筋に噛みつかれてしまい、ひどい傷を負ってしまった。周囲に素早く視線を走らせると、砂浜に落としていたライフルを拾い上げて射撃を再開した。
ライフルの残弾がなくなると、弾倉の装填が間に合わず、ライフルのストックをつかって獣を殴り殺していく。獣の返り血に染まりながらも私とハクは戦い続けた。
砂浜は獣の血液と臓物の臭いでむせかえるようだったが、それも一時のことだった。嵐がやって来たかと思うと、巨大な波がやって来てすべてを攫っていく。獣の死骸が波に呑み込まれるのを横目に見ながら、私とハクは森に向かって駆け、ツル植物が絡みついた樹木に掴まって嵐をしのいだ。
冷たい雨に濡れた身体を小刻みに震わせていると、蝉の鳴き声が聞こえるようになった。危険な生物が近くにいないことを確かめると、首筋の傷を消毒液で綺麗に洗い、濡れたバックパックからコンバットガーゼを取りだして傷口に押し当てた。それから包帯を適当に巻くと、やっと一息つくことができた。
「さっきは助かったよ、ハク」
太い枝に逆さにぶら下がっていたハクは空中でくるりと回転しながら着地すると、私の側にやってきて、触肢で私の肩をトントンと軽く叩いた。
『レイ、たすける』
「頼もしいよ」と、私は思わず笑顔になる。
しばらく海を眺めながら休んでいると、ズキズキと痛んでいた首筋の痛みが徐々に引いていくのが分かった。体内のナノマシンは正常に機能しているようだった。私はホッと息をついた。インターフェースがダメになっているから不安だったが、これで簡単に死ぬような事態にはならないだろうと安心することができた。
もちろん即死するような攻撃を受けたらどうしようもないので、注意を怠るような真似はできない。
月明りもなく、押し寄せる波音だけが聞こえる真っ暗な海を眺めていると、ハクの緊張した声が聞こえる。
『うみ、よくない』
「そうだな。すぐにここを離れよう」
森に入ってしばらくすると、日が昇り、どこからか名も知らない鳥の囀りが聞こえるようになった。
なにかを踏み潰すグチャリとした音に、私は足元に視線を落とした。
枯れ葉だと思っていたものはイモムシにも似た生物の大群で、どうやら私は知らずのうちにその生物の大群の中心に立っていたようだ。後方に素早く飛び退くと、樹木に絡みついていたツル植物を利用して、太い枝の上まで移動する。
額に流れていた汗がぽたりとフェイスシールドに落ちた。ガスマスクのシールドを展開して汗を拭った。いつの間にか森は、亜熱帯のジャングルを思わせる蒸し暑さに支配されていた。
「地面は危険だな」と、私は極彩色のイモムシが蠢く姿を見ながら言う。
複雑に絡み合う樹木の枝を伝って移動していると、兵器工場の地下で戦闘になったクマに似た巨大な獣と遭遇した。高い樹木の上にいたからなのか、獣は我々の存在に気がついていなかった。
ハクにピタリと身体をつけて、息を潜めて獣が通り過ぎるのを待っていると、黄金色の小さな羽虫が何千とあらわれて、クマに群がるのが見えた。それは獣の眼や鼻、そして口から侵入して体内から獣を捕食し始めた。
『いたい! くるしい、あぁ、いたい!』と、獣はもがき苦しむ。
巨大な獣はどす黒い血液を吐き出しながらドサリと倒れ、のたうち回りながら死んでいった。
『たすけて、どこ、みえない! たすけて、くるしい……』
真っ黒な毛皮と、太い骨を残しながら徐々に獣は羽虫の大群に喰われていった。その光景は、まるで動画を倍速再生しながら見ているような、ひどく奇妙な光景だった。
ハクは私を抱きかかえると、長い脚をそろりと動かしてその場を離れた。
どれほどの時間をかけて移動したのかも分からなくなっていた。
深い森を抜けて、濃霧でおぼろげな平原にたどり着くと、ハクは糸で小さな巣を作った。
まるでカイコの繭のような寝床が完成すると、ハクはベシベシと巣を叩いた。
『レイ、ねる』
〈混沌の領域〉にやって来てから、もう長い間眠っていなかったことを思い出した。
「そうだな……ハクはどうするんだ?」
『いっしょ、ねる』
「そっか」
フカフカの糸でつくられた巣に入ると、ハクはそっと私を抱きしめた。
「狭くないか、ハク?」
『へいき、レイ?』
「どうした?」
『あめ』
私は草原に降る雨音に耳を澄ませた。
「たぶん……雨が降るときには、激しく降らなくちゃいけないんだ」
『うん?』
「なんでもないよ」
私はそう言うと、瞼をゆっくり閉じた。
波間に遠雷の輝きが見えたような気がした。
それは激しく瞬き、やがて月明りに変わった。
■
「レイ、起きて」
瞼を開くと、見慣れないスキンスーツと強化外骨格を身につけたミスズが立っているのが見えた。
「ミスズ?」と、私は朧気な意識で言葉を口にした。
「どうして〈混沌の領域〉にいるんだ?」
彼女は何も言わず、海に向かって走っていく。
草原にいたはずだったが、どうやら眠っている間に世界はまた姿を変えたようだ。
私はハクの脚をそっと退かして、巣の外に出た。
「見て、レイ。本物の海を見たのは初めて。レイはこの海に何を願うの?」
花が咲いたような笑顔を見て、私は彼女がミスズではないことに気がついた。たしかに似ている。姉妹と言っても信じられるくらいに彼女はミスズに似ていた。目元や口元は生き写しのようにそっくりだった。
けれど濃紅色の瞳だけは、ミスズのそれと異なっていた。
「あんたは誰なんだ?」と、私はハンドガンを抜きながら言う。
「うん?」と、女性は首を傾げた。「何を言ってるの、レイ。私だよ」
「だから誰なんだ」
なぜか私はひどく苛立っていた。
「どうして私に銃を向けるの?」
女性の言葉を無視して、彼女にハンドガンの銃口を向ける。
「それでミスズに化けているつもりなのか?」
「ミスズ?」
女性は困ったような表情を見せると下唇を噛んだ。
「変だよ、レイ。どうしてそんなことを言うの?」
「あんたの言うように何もかもおかしい。でもそれは今に始まったことじゃない」
すると女性の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女の泣き顔を見た途端、理由も分からず、ただただ胸が締め付けられるような悲しい気持ちになった。
今にも泣き出してしまいそうになりながら、私は必死にその衝動に耐える。
わからなかったのだ。
この衝動は、そしてこの悲しみはなんなのだろうと、感情の冷静な部分で考えた。
「変だよ、レイ」と、ミスズに似た女性は言う。「だってミスズは――」
■
突然後方に引っ張られるようにして、私は仰向けに倒れた。
『レイ、あぶない』
ハクの声が聞こえると私は上体を起こした。ハクの糸が腰に巻き付いていたことに気がついたのは、そのときだった。
女性に視線を向けたが、彼女の姿は消えてなくなっていた。それにそもそも私が倒れていた場所は砂浜ではなく、どこかの山の頂だった。どうやら私は崖から落ちそうになっていたところを、ハクに救われたらしい。
「すまない、ハク。助かったよ」
私は立ち上がると、ハクの巣に向かって歩き出した。
眠るとき、我々は草原にいたはずだったが、今では雲海を望む山の頂に移動していた。
『ゆめ、みてた?』
ハクが私に訊ねる。
「わからない」と、私は頭を振った。「夢を見ていたような気がする。けど、もう思い出せないんだ」
冷たい風が吹くと、ハクは身を寄せてフカフカの体毛で風から守ってくれる。
私はゴツゴツとした灰色の巨石が転がる光景を眺めて、それからハクに訊いた。
「気がついたときには、ここに移動していたのか?」
『ん。おきる、ここ、きた』
ハクの巣にちらりと視線を向けると、たしかにそれは平原でハクが作ったモノに見えた。眠っている間に転移でもしたのか、あるいは周囲の世界が創りかえられたのか、それは分からない。我々は常識が通用しない〈混沌の領域〉にいるのだ。だから気にしないことにした。そもそも目的の石像の居場所さえわかっていなかった。帰り道なんて絶望的だった。
先ほど見た夢について考えようとしたが、私はすぐに諦めた。きっとこの狂った世界が見せた幻なのだろう。崖の縁に座って、山々の稜線を眺めながら、バックパックから〈国民栄養食〉を取り出して、水筒の水で口を潤した。
食料が尽きる心配はまだしていなかったが、水はどこかで確保しなければいけないだろう。私はハクに腕を差し出して、少しばかりの血液を与えると、しばらくハクの巣の中で大人しく休むことにした。
ハクは探索に行きたがっていたが、この世界で別れてしまったら、ハクと二度と合流できない気がして、それは諦めてもらった。ハクは素直に私の言うことを聞くと、大人しく巣の中で休んでくれた。
■
我々は何処かの砂漠地帯を歩いていた。女性の夢を見てから、どれほどの時間が過ぎたのかも分からない。何週間、あるいは何ヶ月か、とにかく時間の感覚は曖昧になっていた。乾燥して切れてしまった唇に、水筒の飲み口をつけると、最後の水を一息に飲み干す。
「大丈夫か、ハク?」
『……ん』と、心なしか元気のないハクが答えた。
ハクの真っ白でフワフワとした体毛は、今では茶色に薄汚れていてゴワゴワとしていた。脚の先は殺してきた多くの獣の体液で汚れていた。そして恐らく私も同じ状態なのだろう。自分自身の臭いは分からないが、きっと酷いはずだ。破れた手袋の先から見える土で汚れた爪先を見て溜息をついた。
「次に水辺を見つけたら、少し休もう」
『ん、やすむ』
いつも間に立ち込めていた霧が薄れるにつれて、濃い影に満ちた不思議な風景があらわれた。赤茶色の荒野に巨大な影が落ちる。それは海を悠々と泳ぐクジラのような生物の影だったが、そこにあるはずの生物の姿はなかった。ただ影だけが、荒涼とした大地に出現した。
それらの影は、奇妙な形をしていて大きさも種類もさまざまだった。不思議な影を生みだしていたのは、青白い光を放つ巨大な太陽だった。その太陽に手をかざしていると、触手を持つ生物が私とハクの上を通り過ぎて、大地に巨大な影を落とした。
しかし藍白色の空に視線を向けても、影を落とす生物の姿はどこにも見当たらなかった。それなのに荒涼とした大地には、絶えず生物の影が映りこんでいた。まるで海底を歩いているような感覚がした。そこで泳いでいるはずの生物は透明で姿が見えなかったが。
『レイ』とハクが言う。『ひかり、みえる』
ハクの脚が指す方向に視線を向けると、砂丘の向こう側に、空に向かって伸びる光の柱が見えた。
「行こう、ハク。でも敵に警戒しながら、ゆっくりだ」
『ん、ゆっくり』
砂に足を取られながら砂丘の斜面を登ると、光の柱の根元が見えてくる。青白い光の中心には石像が立っていた。最後にその石像を見たのが、もういつだったのかさえ思い出せないが、たしかに坑道の奥で見た石像だった。
「見つけた」喜びと興奮で声が震えていた。
石像を破壊したからといって、帰り道が簡単に見つかるとは考えていなかった。それでも今までの長い旅が、無駄ではなかったことが純粋に嬉しかった。







