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SF短編集

メダリスト 異常な進化を遂げた新人類と捕食される旧人類の倫理的徒競走の挙句

作者: 稲代永幾

 ふくはぎに組み込まれた超電磁圧縮ピストンが駆動、ダチョウの遺伝子が発現した一指の爪先が爆速で地面を蹴りつけ、チーターの背骨を模した複合金属が衝撃をバネに更なる加速を与える。薬物で強化された腹筋が伸びきった脚を急激に引き戻し、次の一歩が出る、と同時に軽量化された腕部が上半身のバランスを取り低姿勢を保つ。肉体が風に乗る、肉体が風を切る、肉体が風と成る。


 迅く、迅く走れ。誰よりも速く、速さを身に纏い。己の肉体と科学の限りを尽くして。


風がこの身を切り裂いても。


 ★


 大地に人が満ち満ちて、遂には人類は衰退し始めたかのように見えた。暗雲に塞がれた時期は長く続き、人口は横這いとなり地上の全ての国で少子高齢化が進んだ。


 しかし、それはほんの百年の話だった。衰退期に見えたそれは次の人口爆発への準備期間だったのだ。


 後世の研究ではこの時期における人口減少の主たる原因は冒険の不足にあったと結論付けられている。すなわち、未知の土地と資源の不足だ。

 だが、人類はその時期を経て新たな未知への道筋を二つ見つけた。それはそれぞれ海底に至る道と宇宙に至る道だった。そして、その二つの道は人類に2パターンの進化の兆しを与えた。無論、自然淘汰による進化ではなかった。人類は自らではなく環境を変えることを選んだ結果自然進化の道を閉ざしたのだ。だから、次の進化は人為じんい的、科学的な進化だった。


 海底に降りた人類の三分の一はそこに耐圧性のドームを形成した。光の届かない海中に電気の光を射し込ませ、海水を分解して酸素を作り海底の街を作り上げた。


 次いで宇宙に上がった人類の三分の一は月の上に基地を作りコロニーの建設を始めた。宇宙空間での作業のために無数の工作機械が発明されて、機械化文明は高度化をたどる一方であった。


 対する海底の人類も科学の歩みを止めなかった。海の底で強大な水圧に晒されれば人体は一たまりもないが、現に水底には数多の生物、深海魚が優雅ではなくとも堅実に生きていた。海底人類はこれら深海生物に着目して人間が海底でドームという鳥かごを離れて生きることはできないか、という研究を始めた。これが、新たな生物学や遺伝子工学の礎となる研究の始まりだった。


 同じ頃宇宙人類も危難に直面していた。宇宙空間では酸素の絶対量が少なく、小惑星からの供給を見越してもエネルギーの効率化が急がれていた。そしてその中で最も非効率的な資源が人体であった。こうして生身のダウンサイジングが推奨され、代わりに機械化部品が人体を構成するようになった。


 多くの宇宙人類が機械化されたのとほぼ同時期に深海人類は海洋生物の遺伝子を選択的に取り入れる技術を実用化の段階に移行させた。深海人類は人体にえらと水掻きを付け加え、眼球を深海に適した高感度の物に取り替え、そして肺をワックスで満たすことで何一つの制限もない生身による深海遊泳を実現させたのだ。


 こうして人類の中からヒトとは言えない形をした新人類が現れた頃に悲劇は訪れた。それは何の予兆もない崩壊の調しらべだった。数千年に一度の太陽風とそれに呼応した地殻変動が地球圏を襲ったのだ。


 深海と地上、地球と宇宙を繋いでいたそれぞれ深海エレベーターと宇宙エレベーターは崩壊し、科学水準は大きな後退を強いられた。特に問題となったのは太陽風の残響と地磁気異常による電波の乱れであった。それは実に50年もの長きに渡り続いて、深海人類、宇宙人類、地上人類の三種の人類は互いに連絡の取れない孤独な時間を過ごすことになった。悲惨だったのは新人類達だった。ドームは崩れ落ちて鰓を着けていなかったほとんどの人類は死滅し、コロニーは崩れ落ちて呼吸器系を機械化していなかった大部分の人類は窒息していた。地獄の50年だった。ただ、乱反射する電波の狭間はざまを抜けて時おり届く「生き延びている」という報せだけを僅かな励みとして、自分達も生き残ろう、苦しい時代はすぐに終わる、と信じて生き抜いたのである。


 結果。50年後に再び邂逅を果たした三種人類は互いに生殖が不可能なほどに遠く離れてしまっていた。


 すなわち、もはや宇宙人類と深海人類は人類とは呼べない存在になっていたのだ。その離隔はホモサピエンスとホモネアンデルターレンシスよりも遥かに遠く、人種間の関係は瞬く間に拒絶と恐怖に彩られた。


 恐慌に向かう人類たちを更にせき立てたのはとある恐ろしい事実だった。

 宇宙人類と深海人類のDNA配列は度重なる改変と編集によって生物としての原形を失いつつあった。それは新人類にとってアイデンティティーの喪失を意味して、新人類の恐怖を煽ると同時に旧人類をも恐怖に追い込むものであった。

 なぜなら、新人類の生物的存続に必要とされたのは旧人類のDNAだったからである。あまりに人間からかけ離れた新人類が人類と言えるレベルの原形を保った子を為すにはもはや外部から人類のDNAを取り入れるしかなかったのだ。つまり、新人類には旧人類を捕食するインセンティブがあったのだ。


 戦争が始まった。後に継承戦争と呼ばれた戦争だ。

 旧人類は最も災害の被害が少なかった為に当初は優勢のように思えたが、個々の身体能力の差から次第に新人類に押され始めた。


 戦禍が大きく広がる前に戦争は幕を閉じた。


 旧人類は新人類に負けこそしたものの、新人類は旧人類を必要としていたことには変わりがなかったため絶滅は免れた。しかし、旧人類は総人口のうちの0.0001%を新人類にDNA提供することが終戦の際の平和条約により定められた。


 ★


 それから90年の月日が過ぎた。DNA提供は未だ続けられている。


 僕の幼馴染のアンナは抽選という運命の悪戯いたずらによって、今年のDNA提供者に選ばれてしまった。

 このままではアンナが新人類の物になってしまうが、まだ助かる方法が一つあった。


 それは、今年のHSS(Homo-sapiens Sonic Sprint)で旧人類の代表が優勝することである。


 HSSは倫理的解放をされた5kmの短距離走で、遺伝子改造、機械化改造、薬物強化等のありとあらゆる方法が推奨された人種間代理戦争だ。選手は三人類の中から3人ずつ選出され、優勝した陣営にはDNA提供の対象となった人間の生殺与奪の権利が与えられる。つまり、旧人類が勝てば一年間DNA提供を免れることができる、これが継承戦争に敗北した旧人類が新人類から勝ち得た唯一の倫理的譲歩だった。


 しかし、50年のHSSの歴史の中で旧人類が優勝した記録は一つもない。だからこそ認められた譲歩だった。


 ★


「アンナァァァァ」


 赤い髪をした女の子が統治機構に捕まえられ、トラックに収用される。僕は彼女に手を伸ばすが、この手は彼女に届かない。過去そうであったように、例え夢の中であっても。


 ――――いつもここで目が覚めるからだ。


「またうなされていたな。今度はアンナァァって叫んでたぜ。お前の女かい?」

「まだ僕のじゃない女さ」


 僕はソファーに寝転んだままのジョシュアにそう言った。


「ひひ、ガキの癖にませてやがんなぁ。早く準備しろよ」

「はいはい。いいよね、ジョシュアは。寝なくていいってのは、どんな気分だい?」

「覚えてねぇな、寝るってのがどんな気分だったのか。今となっては興味があるぜ」


 立ち上がったジョシュアが部屋から消えると、僕はベッドから起き上がり窓を開けた。服、インスタントヌードルの残飯、ナットやボルトが散乱した部屋に太陽の光と朝の冷えた空気が侵入した。窓から見える風景は代わり映えはしないが好きだ。赤や黄色のカラフルな洗濯物が道の上で吊り下げられ、その間から煩雑な無数の看板が宙に浮いている。

 子供の頃から見てきたスラムの風景に近くて落ち着く。


 僕は立ち上がりゴミを蹴飛ばしながらリビングに向かった。

 僕とジョシュアの住まいはリビング一つに寝室が二つの小さな借り宿だ。


 ジョシュアはだらしなく脚を食卓の上に放り出してテレビを観ていた。僕は彼を尻目にミニキッチンに立ち、冷蔵庫から栄養剤を混ぜ合わせた調整スライム肉を取り出してハンバーグ状に焼いて、その上からステロイド系の薬品を加えたプロテインソースを掛けた代物を作った。僕は決して料理などとは呼ばないそれをジョシュアの前にドンと置いて、自分の前には昨日の晩に買っておいた菓子パンを置いた。


「いただきます」

「おう、あんがとなぁ」


 ジョシュアは特製ハンバーグをいつものように人差し指と中指で突き刺すと顎が外れたかのように口を開き、一口で食べてしまった。


「ごっそーさん。相変わらず、カイトは料理が上手いよな」

「はは、そんな食い方で味なんか分からないでしょ」


 まあ、味わいなんかしたら不味くて食えないだろうけど。


「さあ、行こうか」


 今日が勝負の朝だった。


 ★


 第51回Homo-sapiens Sonic Sprintと書かれた横断幕をくぐり抜けて僕たちは専用の選手控え室に向かった。

 すると、部屋の前に一人の優男が立っていた。


「やあ、ジョシュア君」

「あーん?おやおや!わざわざ会いに来てくれたのかい、アーリオ君よぉ」

「なぁに、旧人類の同朋としてこれから恥を掻くことになるだろう君たちに激励をしにきてあげたのさ。世を儚んで死んだりするんじゃねぇよ、ってな」

「よく言うぜ。俺たち(旧人類)は勝てた試しがないだろうが」

「ふん、それはこの僕が出場していないからさ。僕が初めての旧人類からの優勝者になるのさ。だから、いくら頑張ったところで君は二番目だよ」

「……ったく。ああ、期待してるぜ。共に頑張ろう」


 アーリオはウィンクを見せると、颯爽さっそうと自室に帰っていった。


「なあ。あいつ、いい奴だよな」自然と緊張の抜けたジョシュアは隣の僕に言った。

 新人類を打ち倒すだけの力が俺たちにはあると、アーリオは言いに来たのだ。


「ふふ、見た目に反してね」


 ★


 選手控え室が個別に用意されている所以は、選手ごとにメンテナンスの為の膨大な設備が必要となるからだ。

 控え室の正面の壁を開くと、3mもある巨大な歯車が姿を現した。その円周から小さな機械の腕がおびただしいほどに伸びてきて、壁の前に立つジョシュアの体に手を伸ばし後ろから支えた。


 全身を機械の腕に任せてジョシュアは力を抜いた。彼の体躯は2m近い身長から受ける印象と異なり、僅か45kgと13歳でしかないカイトと同じほどの重さしかない。骨格をカーボンとチタンの複合素材に入れ換え、各種筋肉も馬鹿げた筋力を弾き出すバイオ素材に改造し、皮膚すらも感染を防ぐ最低限にまで削ぎ落としているからだ。


 試合直前までの間にジョシュアの肉体は現在の45kgの重量から更に生命維持に必要な機能まで取り外して35kgまで体重を落としていく。それをするのがこのメンテナンス設備とカイトの仕事だった。


 研ぎ澄まされた刃。一振りで折れてしまいそうな程に儚いのにあらゆるものを両断する強さを併せ持つ達人の切っ先。それがこれからジョシュアが変貌する物だった。


 5kmの踏破と同時に全機能を喪い選手控え室まで運び込まれてメンテナンス設備で蘇生される、まさに一瞬を速く走るためだけの命になっていく。その単純化していく感覚にこそジョシュアは魅了されていた。


 そんな命を任せるに等しい肉体の組み換えと蘇生を任した先が13歳のガキとはな。ジョシュアは自嘲した。


「なあ、まだ聞いてなかったけどよ、どうして俺を選んだ?俺はスプリンターの中じゃ落ちこぼれだっただろ」


 設備を操作するカイトのまだ幼いと言っていい横顔を盗み見た。


「……まずはね、スプリンターの経歴を調べてもらったんだ。探偵に頼んでとりあえず全員分。僕、結構稼いでたから」

「サイボーグエンジニアだろ?」

「そうだね。けど、どちらかというと解体が専門でね」

「なんだ?解体って」

「生きたまま解体するんだよ。時間をかけてね」

「そいつはひでぇな。俺のような光の当たる場所を歩いてきた男にゃ心が痛くならぁ」


 カイトがクックッ、と抑えた笑いをあげた。


「嘘をつかないでよ。ジョシュアもスラムの出だろ。まずはそこに当てはまる人を探したんだもの。僕と同じような人間。生き汚い人間さ」

「スラムの出と言っても結構いただろ」

「多くはないけど何人かはいたね。そしてその中からジョシュアを選んだ。パッと見て分かったから」

「何を?」

「一番無様な人間を」

「……なんでだ?」

「共感したからかもね。さあ、もうすぐ声帯も取り外すよ。今回の遺言を聞こうじゃないか」


 場合によっては蘇生が上手くいかない場合もある。遺言を残すのはスプリンターにとっては習慣に近かった。


「ま、いつも通りだ。俺の肉体は余すとこなく売っ払っていい。取り分もお前にやる。俺が得た権利も全部お前にやる。できりゃあアンナちゃんにも分けてやるんだな」

「了解」

「お前こそ何か俺に言っておきたいこととかねぇのかよ?俺は寂しいぞこの野郎」

「そうだね」


 いつもは即座に「ない」と答えるのに、ふとカイトが微笑んだ。


「お、なんかあんのか?」

「どうして僕を選んでくれたの?普通、無名のエンジニア。それも子供になんかメンテナンスを任せないよ」


 ジョシュアの「どうして俺を選んだ」という問いのもう一つの答えの形だった。


「お前が自分で言ったんじゃねぇか。俺は走りにしがみついてる。確かにそうだ。俺は俺の全部を投げ出しても走りたかったが、チームのエンジニアじゃ本当に俺に合ったメンテナンスはできなかった。一流選手には専属のエンジニアがいて、そいつらと肩を並べるにはお前のような専属でメンテナンスしてくれるって奴が必要だったんだよ。つまり、あれだ。俺は選んだって言うより選択肢がなかっただけだ」

「なんだよ、折角僕は選んだって言ってるのに悲しいこと言わないでよ」

「ひひ、これでも感謝してるぜ。その専属エンジニアがあり得ねぇくらいに辣腕らつわんだったんだからな」

「……どういたしまして。じゃあ後は頼んだよ」


 壁面から伸びた機械の腕がジョシュアの首から声帯を切り離した。


 ★


 そこから二人は無言でメンテナンスを続けた。


 人の解体という陰惨な作業ばかりをしてきたカイトは専属エンジニアの誰よりも生死の境目を見て、感覚的にそれが分かる。


 子供に解体をさせる、というのはそもそもは一種の拷問であり娯楽だった。

 マフィアに飼われていたカイトは運び込まれた重傷者を治すように言われる。勿論、子供に医療行為が分かるわけがない。治そうとして傷口を開く、乱雑に縫う、大きな血管を傷付けるなどして十分痛め付けてから死なせてしまう。その医療行為とは言えないむしろ解体に近い行いを見てマフィアは笑う。そういった循環だった。


 しかし、ほとんど毎日運び込まれる人体を切り刻んでぎしているうちに、時々治してしまうようになった。それをマフィアは怒るでもなく面白がった。ギャンブルが成立するようになるからだった。


 それからもカイトは人を切り刻み続けた。教本のたぐいは一つも与えられなかったが、どこまで彼は成長出来るのか興味を持ったマフィアによって医療器具は潤沢に運び込まれていた。


 そして、段々とカイトの技術は向上した。太股から血管を取ってトリミングしグラフトにするなど、最新の医療器具のお陰で2000年代の医療水準にまで達てしていた。この時、彼の手術成功率はちょうど20%の辺りでギャンブルは大いに盛り上がった。


 だが、更に数年が過ぎると賭けが成立しなくなった。致命傷でない限り必ず治してしまうようになったのだ。マフィアの中では金を生まなくなったカイトを処分するという話も出たが、逆に彼を専属の医者とする案が出た。脳の機械化により学習効率を向上させ、僅か半年でカイトは天才的な外科医となった。


 その頃にアンナがDNA提供者に選ばれた。


 ★


 メンテナンスを終えジョシュアは担架に固定されたまま運び出された。


 長い廊下を抜けて、明るい出口に向かう。巨大な波のようなざわめきが向こう側から聞こえた。全長5kmのコースを擁する専用の競技場には100万人を収用でき、客席にはカメラのような一眼の頭をした者や、鷹のようなくちばしを持った者もいて、人類が人間の形をしていた頃から如何いかに世界が混迷を極めたかを表しているようだった。


 スタート地点に選手が並んでいく。並んでいく、というよりは並べられていくといった方が正しいだろうか。ジョシュアは旧人類の二番だったので、深海人類の三人が並んだ後に更にアーリオが並びその後の五番目に並べられた。ジョシュアの乗る担架はスタート地点に置かれると自動的に斜めになった。


 ようやくジョシュアの目に100万人分200万個の眼球が入る。だが、それらの事実は観衆のざわめきと共に思考から排除され、目の前に広がる一本の道だけが残った。前頭葉の一部を切除したこととアドレナリン類似物質の薬物投与による強制的な集中状態の恩恵だった。


 縦にされた担架のロックが外された。花びらの様にふわりと地面に落ち、ダチョウの遺伝子を組み込んで発現させた一指の爪先が地面に食い込む。同時に呼吸器が外れて、僅かに残された自立呼吸が始まった。


 選手間での会話は一つも無かった。特に旧人類においてはその傾向が一段と強く、宇宙人類が視線で電気通信をしているのに対し、ジョシュアがアーリオと目を合わせることもなかった。


 宇宙人類陣営は全員いつもながらの全身機械の出で立ちだ。体長は規定通りの2.5mぴったしで重量は三人とも120kg近くある。余りの重さに動けないとも思えるが、その重量の殆どは混合火薬でありスタートと同時に燃焼して言葉通りのロケットスタートを実現する。更に火薬は一歩ごとに爆発し、重量が減るのと相まって終盤に至るまでひたすら加速していき、ゴール直前では音速の壁を押しきるようにして勝利するのだ。これにより宇宙人類陣営は直近のHSSを6回連続で優勝している。


 対して深海人類陣営はバラバラで二足歩行が二人、四足歩行が一人だった。二足歩行の片方はダチョウを模した体つきをしていることが見て取れ、足の形はどことなくジョシュアのものと似ている。対してもう片方の二足歩行は全身を鱗が包み、腕には翼が生え、足先は鹿の蹄のように尖った物が一つついているだけの不自然な姿だった。


 最後の四足歩行の深海人類は7つ前の大会における優勝者だった男だ。背骨自体を一本から三本に増やし、それを交差するように重ね合わせてバネの強度を増し、ボルゾイの様な異様に長い手足と強烈にくびれた腰が1ストライドで20m以上の距離を稼ぐ。

 二足歩行が可能なことがHSSのルールの一つであるが、走行時の体勢についてはルールがないことを突いた特殊な形態の走り方だった。


 下馬評では、一、二、三位が宇宙人類で、四、五、六位は若い方から七つ前の大会の優勝者、ダチョウの深海人類、正体不明の深海人類だった。そこに旧人類勢の順位は入っていない。誰にも興味を持たれていない。


 それにも関わらず、ジョシュアはクラウチングスタートの姿勢を取った。脳まで削ぎ落として知覚まで鈍っている中でただ一つ残ったのが誰よりも速く走ることだけだったから。


 今、スターターピストルの音が響く。


 ★


 スターターピストルの音が響くと全く同時に9人は飛び出した。いずれも引き金を引くスターターの筋肉の動きを見て反射的に飛び出したものである。


 ジョシュアはクラウチングスタートの姿勢から簡素化した腕で足を抑え、力を解き放った。強烈な急加速に全身が軋む。肉体に掛かる力は10Gを超え、バラバラになりそうな風圧と慣性力が削ぎ落としたボディに重くのし掛かる。


 最も激しい加速をしたのは四足歩行の深海人類だった。僅か0.9秒で三重背骨を何度も伸縮させ19回のストライドを見せて最高速度に達し、残りの八人を大きく突き放す。その速度はマッハ0.9に達し後ろ足の回りでは空気の歪みが時折音速を超えてソニックブームを発生させる。パーン、という爆発音が何度も発生しているのがその証左だった。そして、このソニックブームこそが彼の加速を止める要素だった。ソニックブームは衝撃波を生じさせ、それは肉体を消耗させる。故に過ぎた速度は選手自身を崩壊させる。


 だが、彼の独擅場どくせんじょうも僅かに5秒間、1.5kmを超えた所までだった。

 他の選手が段々と追い上げを見せてきた。まず、彼に並んだのは宇宙人類の三人だった。爆発する三人の脹ら脛の中でシリンダーが上下し、一歩ごとに加速が増していく。彼らの予定通り、2km時点では音速に到達すると目される加速度で走り、すでに彼らの前方ではソニックブームが発生していた。しかし、鋼鉄の彼らの肉体は衝撃波に耐える。


 次に、追い付いたのは驚くべきことに正体不明の深海人類だった。極めて低い姿勢を保ち、そして、彼にはソニックブームが発生していなかった。両腕の表裏が「逆さ」に生えた翼が高速で振動して体表の風を受け流す。深海人類陣営で開発された亜音速帯でのソニックブームを防ぐ秘密の策だ。


 そして、最後に追い付いたのはジョシュアだった。


 ★


 自分が走る為だけに純化していく衝動と快感だけが自分を成立させているのだと思う。だからこそ、どこまでが自分なのか、自分とは何なのかという問いには答えなければならないだろう。


 では、この肉体のことを自分と呼んでいるのだろうか?光のような速さで走る俺の視界にリズムよく自分の手が入り込む。この手、今自分の手と呼んだことからこれは自分の一部なのだろう。だが、この手は切り離せる。切り離した。自分がまた一段と走ることに純化されたことを感じる。


 だから、あれは自分では無かったのかもしれない。


 腕を失くしたのでバランスが微妙に変わり俺は更に重心を低く前傾姿勢を保つ。地面に食い込んだ爪がほぼ水平に肉体を押し出す。地面に倒れる心配は一つもなく、むしろ空気抵抗で体が浮いてしまわないように必死で前傾を保たなければならない。飛翔してしまえばこれ以上の加速ができなくなるし、そもそも走っていないということでルール上の禁止行為に当たり失格になってしまう。だから、ダウンフォースを得る為に今俺の髪の毛は長く伸びて少し逆立っている。


 カイトは完璧な仕事をしてくれていた。髪の毛の一本一本まで細工してあり、俺の加速とダウンフォースの生じる程度は完璧に噛み合っている。この髪の毛はきっと自分の一部だ。しかし、ソニックブームには弱く、音の壁を目前にして剥離していった。


 立派に機能を果たし消えていったあれをもはや自分ではなくなったと考えるべきだろうか。

 頭皮に充填していた新たな髪の毛が剥離した物に代わって生える。そう、この髪の毛は生え変わる。交換が可能なものだ。これを自分の一部ではないというのならば、俺の肉体全てはこの削られまくった脳味噌を除けば全て交換可能なのだから、脳味噌だけが自分ということになる。


 だけど、それはダメだ。俺は脳だけでは走れない。走れない物を自分とは言えないからだ。


 視界の片隅に機械野郎が映る。骨格を軽量化し過ぎたらしく、運悪く重なったソニックブームに耐えきれずすねが折れて転けやがった。加速に伴う全ての障壁に耐える強度、重量が無ければ走れないのに、こいつは強度を削りすぎた。それじゃあどのみちこの先のS字トラックに潰されるだろう。


 HSSは序盤と終盤は直線だが、中盤の2kmから3.5kmは大きく蛇行している。これは走る、という行為は地面に足が着いている為に本質的に方向転換が容易であるということを反映したものであった。


 蛇行に差し掛かる。重心を僅かに左に傾けると右の一指に今までと比較にならない負荷が掛かる。脹ら脛に組み込んだ超電磁圧縮ピストンが問答無用で打ち出され指が地面を強烈に弾く。


 俺の足は何度もそれを繰り返し、加速していく。地面に足を着く度に、空気の壁が近付いて来るのを感じる。また、一段と自分が純化していく。


 突然に、俺は自分を加速に導く全てを自分と感じた。

 俺の削られた脳も交換可能な足も、地面さえも自分の一部だった。急に世界が広がり、俺はもっと加速できることを知った。


 隣のレーンの宇宙人類が今度は蛇行しきれずに速度が微かに減じた。しかし、それはHSSでは命取りだ。残ったのは、前回の優勝者と正体不明の深海人類だった。


 そして、その二人も俺の一部と感じていた。


 ★


 前回優勝者の宇宙人類は他の二人よりも少し前方投影面積が大きい。よって、空気抵抗も大きくなるが、その分体重を重くして空気抵抗を押し切っている。それだけでは遅くなってしまうが、アレは更に空気を体内に吸引し、圧縮して姿勢制御と加速に転用して逆に速さを増しているから厄介だ。


 ジョシュアを挟んで反対側には初めて見る深海人類がいた。


 奇妙な風体で、足の形状自体は鳥類に近い。だが、表皮は鱗に覆われている。あれは……サメの鱗だろうか?サメの鱗は抵抗を緩和し進行方向へ進むのを補助する性質がある。その上、腰の付近は黒い甲殻に覆われているようだ。だとすれば、ダニの構造に近いものまで取り入れている可能性があった。ダニの殻には歯車状のギザギザがあり、片足を動かせば連動してもう片方の足も動くようになっている。深海人類の完璧に同調した両足の動きは足が交互に進むように構造化されていることを伺わせる。


 そして、最も不可思議なのはあの翼だ。表裏が逆の羽根が生えた腕を後ろに伸ばして走っている。よく見れば彼の周りにだけソニックブームが発生しておらず、細かい振動で風の流れを正しているのだろう。


 この二人に対して、ジョシュアには何も特別なシステムは組み込んでいない。彼が持っているのは地面を蹴る足だけで、その他には何もない。それにも関わらずジョシュアは彼らと対等に競い合い、3.5km地点を超えて更に加速している。


 彼の動きはすでに僕が用意したスペックを遥かに超えていた。それを実現しているものが僕には分かる。心というやつだ。


 ★


 心を僕に教えてくれたのはアンナだった。


 日々他人の人体にメスを入れて患者が死んでも生きても痛がっても泣き叫んでも、次を切ろうとしか思わなかった僕に彼女はビンタして抱き締めて突き刺して頭を撫でてくれた。彼女が泣くと僕の胸は痛くなり、彼女が怒ると僕の足は竦むようになった。


 次第に僕は彼女が自分の前からいなくなることを恐怖するようになり、僕が切り刻む人達にも僕とアンナのような関係がありうることに気付くようになった。


 それから僕は彼らを生かすことを諦めないようになった。

 彼女がくれた心が僕を動かしたんだ。

 君の心が僕に宿り、僕の手は人を救う手になった。


 そして、今度は僕がアンナを救うんだ。ジョシュアと一緒に。


 ★


 世界は今や俺そのものだった。


 空気の動き全てが思考や計算を経ず直接走る動作の中に流れ込み、ソニックブームは生じる前に潰える。


 近くで競う他の選手達の動きの一つ一つ、そして彼らが行ってきた訓練の過程やアイデンティティーを失い続ける恐怖、掛けている希望すらも分かる。だから、このままでは二人に追い付けないことも分かった。


 俺はまだ加速する必要があり、そしてもっと走りに――――いや、世界に純化できることを知っていた。


 見なくてもカイトがいる方向が分かる。カイトの心の中にアンナという子がいることも分かる。そして、俺にはアンナが俺たちをこの会場で見ていることも分かっていた。


 世界に純化して、ようやく世界に受け入れられた気持ちになった俺は、より速く走るために最後の重りを捨てた。


 ★


 ダメだ、という声が漏れそうになった。


 ゴールまで僅か900mのところでジョシュアは並んだ二人よりも10mビハインドだった。


 僕の目はその中でジョシュアの背中に取り付けられた蘇生器具のロックが独りでに外れるのが見えた。蘇生器具が体に着いていなければメンテナンス設備があっても蘇生はもはや不可能になる。だから、あのロックは自分では解けず、また外れないことを確りと確認したはずなのに。


 しかし、それはまるで天の導きであるかのように外れてジョシュアの背を離れた。背中から離れた蘇生器具は途端にソニックブームに煽られて砕け散り、まるで翼のように広がる。その衝撃を受けたジョシュアは大きく前に飛び出し10m先にいた宇宙人類と深海人類を瞬く間に追い越し更に――――。


 ――――風が舞う。ゴールラインを超えて遥か空に音よりも速く。


 ★


 第51回HSSが行われたその日、旧人類は初めて優勝を果たした。


 彼の遺言によりDNA提供者の処分は彼のエンジニアに任せられ、90年ぶりに旧人類は人を見捨てない年を迎えた。


 記録は12.5秒。今までの記録を2.2秒も更新した新記録だった。

 音速を超えながらソニックブームを生じさせないその不可思議な走り方により、この記録が塗り替えられるのは新素材が現れる20年後を待たなければならなかった。

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