1-5 君が願うというのなら
激しい水しぶきの音とともに、身体の芯まで震わせるほどの地響きをたてながら、とてつもなく不穏な存在が近づいてくるのがわかった。
ぼくの歯はガタガタと暴れていて、まるで言うことを聞いてくれない。
それでも呟かずにはいられなかった。
「ど、どうして」
『お前は信じていなかった。見ようともしなかった。ゆえに自らの前にいるものを神だと思わず、侮りつづけたのであろう』
一刻も早く、この場から逃げなくては。
ぼくの理性はそう訴えているのに、肝心の身体は一向に力が入らない。
ひざは今にも二つに折れて、泥土の中に沈んでいきそうだ。
漆黒の沼地は見渡すかぎり広がっていて、抜けだせるのかどうかすらわからない。
それにこの空間から逃がれて助けを求めたところで、オーサをどうにかできるものなのだろうか。
こいつは、世界を滅ぼす力をもった神だというのに。
導きだされた結論はどこまでも冷酷だった。
「ぼくは……死ぬのか……?」
『しかり』
迫りくる、巨大な黒い塊。
オーサの腕。
「ぐっ……がはっ!」
気がついたときには、頭から沼地に突っこんでいた。
口と鼻に泥土が入りこんできて、無理やり汚物を食わされたみたいだ。
オーサの腕は当たっていない。
だけど吹き飛ばされた。
枯れ葉のように。風圧だけで。
『恐ろしいか。怯えておるのか。愚弄したからだ。身のほど知らずにも。オーサは大きく、お前は小さい。なのに戯れてやった。なのに裏切られた。なにゆえ拒んだ』
頭の中で激しく鐘を打ち鳴らすように、オーサの声が響きわたる。
目の前に、ひらりとなにかが舞い落ちた。
ぼくがプレゼントしたケープだ。
『力がいらぬというのなら、オーサもいらぬ。お前は腹立たしいだけの羽虫であった。消えてしまえ。朽ちてしまえ。お前などいらぬ……いらぬのだ』
沼地に捨てられたケープは泥にまみれて、いよいよ雑巾みたいになっていた。
あまりもので作ったとはいえ、こうもぞんざいに扱われると心が痛む。
オーサは長き封印を破った解放感から、人間と戯れていたにすぎなくて。
だからわずかでも機嫌を損ねたなら、冷徹な爪牙の餌食になるほかないのだろう。
ぼくは間近に迫った死に震えつつ、目の前の巨大な影を見る。
満月のような瞳を真っ黒な沼地が反射して、一瞬だけその姿が浮かびあがった。
とほうもなく大きな獣。
存在しうるかぎりの災厄を集めたような、面構え。
だけど。
そこに見覚えのあるものを見つけて、ぼくは声を漏らす。
「ど、どうして……」
『いくら嘆いたところで変わりはせぬ。今さら許しを乞うたとしても、お前の言葉など聞き入れぬ。さあ、観念せよ。そして泣き叫び――』
ぼくは立ちあがる。
それから真っ黒に染まったケープを取り、首に巻いた。
織り込まれた魔法によって安らぎがおとずれ、恐怖で濁った思考が澄んでいく。
「君は破壊の神だから、殺そうと思えば簡単にできるだろ。でもぼくはまだ生きていて、話ができる。なんでだろうね」
オーサは何も言わなかった。
だから前に進むしかない。
「教えてよ。なんで君は、ぼくと同じ顔をしているの?」
『お前は……なにを言っている』
「泣いているじゃないか。つらそうじゃないか。見たことがあるんだ。今の君と同じ表情を。それは……それは……ぼくの」
スラムにいたころ。
ドブネズミでしかなかったころの。
ぼくがしていた表情だ。
『――違うっ!』
オーサの声が頭の中に突き刺さり、続けて激しい咆哮が轟く。
一瞬だけ意識を失いそうになるけど、踏ん張って語りかける。
「見間違えるわけがないよ。生まれたときからずっと、自分の顔にへばりついていたんだから。だけど不思議なんだ。君はこんなに強いのに……」
飢えて死んでしまいそうで。
市場でパンを盗むしかなくて。
捕まって体中アザだらけになるまで、殴られたときの顔。
ボロ切れのようになるまで働いて、なけなしの給料を握って帰る途中。
同い年くらいの貴族の子どもたちに捕まって、身ぐるみ全部剥がされた時の顔。
あのころはどうしようもなく惨めで。
なのにどうすることもできなかった。
「君も同じなのかい? そんな顔をしちゃうほど、自分が嫌いなのかい?」
吹き飛ばされた。
しこたま肩と腰を打って、全身が砕かれたみたいだ。
それでもまだ生きている。立ちあがることができる。
「ぼくは力がなくて、だから自分が嫌いだった。君はもしかしたら力がありすぎて、それで自分が嫌いになったのかな」
奪うしかなくて。
壊すしかなくて。
でも本当は、他のことがしたかったのに。
ケープをもらって嬉しかったから。
なにかを与えたかったのに。
ぼくが拒んでしまったから。
どうしたらいいのか、わからなかったのかな。
「悲しかったんだね。寂しかったんだね。だから嬉しかったんだね。あまりもので作ったケープなのに、君がそんなに喜んでくれるなんて思わなかったよ」
『血迷うたのか。破壊の神であるオーサが……お前のような羽虫に……』
だけどオーサは、ぼくを吹き飛ばそうとはしなかった。
もう怖くなかった。
むしろ愛おしかった。
だからもう一度、ケープを差しだした。
「汚れちゃったけど、とりあえず受け取ってよ。他のが欲しいなら、何度だって織るから」
『いらぬ……いらぬ! そんなものなど……お前など!』
オーサが水がめをひっくり返したみたいな雨粒を降らせるので、ぼくもつられてポロポロと雫をこぼしてしまう。
オーサの言葉を聞きながら、自分が救われたときのことを思いだす。
そうだ。
ぼくはなりたかったのだ。
あのとき手を差し伸べてくれた人みたいな、偉大な魔法使いに。
「力はいらない。それは自分でなんとかする。もちろん死にたくだってないけどさ。君は奪うだけ、壊すだけなんて言うけど、ぼくはそんなことないと思う」
『ならば……なにができるというのだ!』
「聞いてくれたじゃないか。虫ケラみたいなやつの愚痴を。せっかくこうして話ができるようになったわけだし、友だちになってくれると嬉しいな」
戦いの道具として生みだされるのは、どれほど辛いことなのだろう。
ぼくには想像すらできないけど。
君が変わりたいと、そう願っているのなら。
「話しかけたら、返事をして。ぴーぴー泣いていたら、慰めてよ。気に入らなかったら怒ってもいいけど、最後は今みたいに許してほしい。君は奪うだけじゃなくて、壊すだけじゃなくて――ぼくに与えることだって、できるんだから」
オーサが腕を振りあげる。
恐れる必要はなかった。
思いのほかふわふわした感触を味わいながら、ぼくは大きな腕に包まれていく。
『……本当に腹立たしいやつだ。ケープとまるで釣りあっておらぬ』
オーサの言葉とともに、視界がぱあっと明るくなっていく。
どういう仕組みかわからないけど、空間の歪みを修復しているらしい。
暗がりの中ではあれほど恐ろしく感じた姿は、明るいところで見るとやたらと大きな黒い猫でしかなくて。
ぼくは笑いながら、こう言うしかなかった。
「やっぱり君、けっこう可愛いじゃないか」
オーサは返事をしなかった。
もしかすると、照れているかもしれない。




