一『当たり前のことを』
千佳が朝食をとっている間、僕は父さんの部屋で探し物をしていた。
確か父さんは千佳の成長記録のようなものをつけていた。
父さんが亡くなるまで、ずっと。
千佳が結婚したときに渡して、お前もこんな風に自分の子供を見守っていけと言ってやるんだ、と酔っ払った父さんがもらしたのをかすかに覚えている。
片親でずっと寂しい思いをさせていることに罪悪感を感じていた父さんの、精一杯の愛情表現だったのだと思う。
だから父さんが渡すつもりだったその時がくるまで僕も中を覗くようなことはしまいと、そう思っていた。
でも、僕はその禁を破る。
父さんの机の引き出しの奥に仕舞われていたノートを取り出す。
ごめん、父さん。
最初のページから順にめくっていく。
今日初めて喋った、立った。
寡黙だった父さんからは想像できないような感情豊かな文章で、そんなことがページ一杯に書かれていた。
気になる文を見つけて、僕はページをめくる手を止めた。
千佳が五歳の頃の記録だった。
『千佳のアトピーがひどい。皮膚科に何度も通っているが回復の兆しすら見えない。千佳は女の子だからなんとしても治してあげたい』
そのまま読み進めていく。
『医者に遺伝子治療を進められた。金銭的な問題もあるが、あのような得体のしれない治療を千佳にさせていいものか。悩む』
『結局、遺伝子治療を千佳に受けさせることにした。体に負担はかからないから安心だと言った医者の言葉を信じる。これで千佳のアトピーが治る事を祈る』
そこで、ノートを閉じた。
そういえば、幼い頃の千佳は皮膚がボロボロでひどい状態だった。
でもある日を境に嘘のようにそれが治っていた。
受けていたんだ。
千佳は遺伝子治療を受けていたんだ。
「父さん……」
ノートを元にあった場所にもどして、机の引き出しを乱暴に閉じた。
「千佳が死んじゃうよ……」
居間に戻ると、千佳は椅子に座って、テーブルの上に置かれた食事をじっと見つめていた。
食事には全く手をつけていないようだった。
「食べないのか?」
「うん……」
目玉焼きの黄身をぐちゃぐちゃに潰して、箸を置いた。
「食欲ない」
「そうか」
食器を下げて、流し台に置く。
「スープでも作ってやろうか?」
「いらない」
「じゃあ牛乳だけでも飲んでおけ」
食器棚からガラス製のコップを取り出した。
「いい」
「野菜ジュースは?」
「……飲む」
冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップになみなみと注ぎ、千佳の目の前に置いた。
千佳はコップを手にとって、ゆっくりとジュースを飲み干していく。
僕は千佳の正面に座って、その様子を眺めていた。
なんて言葉をかけていいか、わからなかった。
「うまい?」
「黄色のジュースの方がおいしかった」
「そっか。次からそうする」
飲み終わったコップを机において、千佳は俯いた。
底にドロリとしたジュースがたまったコップをとって、立ち上がる。
流し台まで運んで蛇口を捻ったが、すぐに水を止めた。
洗い物をする気にはなれなかった。
少しだけぬれた手をタオルで拭って、再び椅子に腰かける。
「とりあえず、病院にいこう」
僕の言葉に、千佳が顔を上げる。
「病院?」
「ちゃんと検査してもらって、治療してもらおう」
「……うん」
また、俯いてしまった。
「行きたくないか?」
「……うん」
「どうして」
「どうしても」
手を伸ばして、下を向く千佳の頭を優しく撫でた。
「行くだけ、行ってみようよ」
しばらくの沈黙の後、千佳はゆっくりと立ち上がった。
「着替えてくる」
そして、おぼつかない足取りで二階へと上がっていった。
ニュースでもワイドショーでも新聞でも、治療法が見つかったなんて話は聞かなかった。
病院にいってもなんにもならないかもしれない。
でも何もしないことだけは、耐えられなかった。
十分ほどして千佳は一階へと降りてきた。
髪の毛を隠すようにニット帽を深くかぶっていた。
「いこうか」
「うん……」
渋る千佳を半ば無理やり車に乗せて、僕はエンジンをかけた。
助手席に座る千佳は終始無言で、ぼうっと外の景色を眺めていた。
僕も、口を開かなかった。
いつもはお喋りな千佳が僕に話しかけて、僕がそれに答えて、そうやって僕たちのコミュニケーションは成立していた。
だから黙り込む千佳を目の前にして、情けないことに僕は何を話せばいいのかわからなかった。
慰めればいいのか、励ませばいいのか、普段どおりに話せばいいのか。
それすらもわからず、ただただ、運転に集中しているふりをすることしかできなかった。
病院についてエントランスをくぐると、待合室は老人達でごったがえしていた。
あまり病院にはお世話になったことがなかったから、平日の午前中にこうも人が多いのか、と少し驚いた。
そしてその人ごみが、どうしようもなく煩わしかった。
受付を済ませ、二人並んで長いすに座った。
やっぱり千佳は、何も喋ろうとはしなかった。
千佳が今どんな気持ちなのか、どれほど不安なのか、推し量ることしか僕にはできない。
どんな言葉をかけて欲しいのか、どんな態度で接して欲しいのか、どれだけ考えても答えはでなかった。
随分と長い時間、そうしていた。
ようやく千佳の名前が呼ばれて立ち上がろうとすると、千佳が僕を制した。
「一人でいってくるから。お兄ちゃんはここで待ってて」
そう言って、僕の返事も待たず千佳は診察室へ入っていった。
そして驚くほどの早さで、千佳は僕のもとへ戻ってきた。
「おい、ちゃんと検査してもらえたのか?」
僕のその問いに答えず、千佳は震える唇でなんとか言葉をつむいだ。
「ダメだった」
このときの千佳の表情を、僕は一生忘れないと思う。
目にうっすらと涙をためて、絶望とか恐怖とか不安とか、そういうものを全部必死に押し殺して、精一杯笑顔を作っていた。
僕は千佳が病院に来たくなかった理由を、ここでようやく気がつくことができた。
「帰ろうか」
「うん」
会計を済ませて、病院を出た。
千佳は自分から助手席に乗った。
僕も車に乗り込んで、エンジンをかけた。
動き出した車の中で、千佳はニット帽をさらに深くかぶって目を隠し、唇を強くかみしめていた。
僕は、千佳に死刑宣告を聞かせてしまったんだ。
自然とアクセルペダルを踏む足に力が入った。
なんとかしなければ。
じっとしていられない。
そんなエゴで千佳を傷つけた。
お前は絶対死ぬんだぞ助からないんだぞって、そんなことわざわざ聞かせなくてもよかったんだ……よかったんだ!
僕は……なんて馬鹿な兄貴なんだ。
家に戻ると、疲れたからと千佳はすぐに自室へ引き篭もってしまった。
昼時を過ぎても、千佳は部屋から出てこなかった。
今更ではあったが、千佳の学校に連絡をしていないことに気付き、今日は休むと連絡を入れた。
千佳の部屋のドアを叩き、何か食べにいかないかと声をかけたが、返事はもらえなかった。
僕は冷蔵庫に入っているヨーグルトを口の中に流し込んで、家を出た。
つい先ほど車で通った道を、今度は歩いて進んだ。
あの狭い車内にたった一人でいたらやけを起こしてしまいそうで、それがひどく怖かった。
病院の待合室は、午前中よりも幾分か空いている様に見えた。
それでも混雑していることにはかわらず、隣の女性が読んでいる雑誌を横目で見ながら、自分の名前が呼ばれるのをじっと待っていた。
その女性が席を立ってから数分後に僕の名前も呼ばれ、千佳が入ったと同じ診察室に通された。
中には柔和な笑みを浮かべた中年の看護師と、目つきの悪い若い医師がいた。
「遺伝子治療の副作用なんですが……」
医師の目の前に腰掛け口を開くと、僕の言葉を終わるのを待たずに医師が溜息をついた。
「最近多いんだよね。その話。でも私たちではなんともできんのですよ」
さも面倒そうに顔をしかめながら、医師は続けた。
「こんな話してもわからないかもしれないけどね。遺伝子がもの凄いスピードで変異していってるわけですよ。時間があればもとに戻すこともできるでしょうが、たった五日じゃ無理ですわ」
僕から机に体の向きを変えて、別の患者のカルテに何かを書き込む。
医師は事務的な口調を崩さなかった。
「まぁ、大人しく五日間有意義に過ごしてもらって、悔いが残らないようにしてください。としか言えませんわ」
気付けば僕は立ち上がって、強い目線で医者を見下ろしていた。
「な、なんです?」
「相談に来た人全員に、そう言ってるんですか?」
「はぁ、まぁそうですね」
「何様だよ」
再びカルテに視線をおとした医師の胸倉を掴んで、力づくで立ち上がらせた。
医師の背後に控えていた看護師が、小さく悲鳴をあげた。
「もとはと言えばあんたらのせいだろ! 悔いが残らないようにしてくださいだって? 何様だ!」
「な、なんだ君は!」
医師は狼狽し、離せと僕の腕を両手で強く掴んだ。
構わず、僕は右手にさらに力をこめた。
誰が呼んだのか診察室に大勢の看護師が入ってきて、僕を引き剥がしにかかった。
「無理ってなんだよ! 助けてくれよ! 治してくれよ! 妹はまだ十五なんだ! 頼むよ! 治してよ!」
わめき続ける僕を、看護師達が引きずって診察室から追い出した。
その後、僕はナースセンターに連れていかれた。
たくさんの看護師達に囲まれて、なだめられた。
ほとんどが冷たい視線だったが、いくつか混ざった同情の目が、逆に僕をつらくさせた。
落ち着きを取り戻した僕は看護師達に頭を下げて、病院を出た。
なんて惨めなんだろう。
千佳にどんな言葉をかけていいかもわからず、なにをしていいのかもわからず、自分の無能を棚にあげて感情的になり、医者に掴みかかった。
浅はかだ。
警察沙汰にはしないと言ってもらえたからよかったものの、そうではなかったら千佳にどんな思いをさせていたか。
暮れかかった日の光が眩しくて、目尻を拭った。
こんな兄貴だから、千佳も僕に頼れないのかもしれない。
あの医師が言ったように、千佳に有意義な時間を与えてやれるのか、僕には自信がなかった。
家に戻ると、その気配を感じたのか千佳が二階から降りてきた。
千佳の瞳は真っ赤に腫れあがっていた。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、買い物」
口実のために購入したスーパーの袋を、軽く持ち上げて見せた。
何を買ったのかはもう覚えていない。
「お兄ちゃん」
台所へ行こうとした僕の背中を、千佳が呼び止めた。
振り向くと、照れくさそうに俯いて、上目遣いに僕を窺っていた。
「お腹すいた」
そういって、頬を染めながらはにかむ。
思わず僕にも笑みがこぼれた。
「どこか食べにいくか?」
僕の問いに少し迷ったそぶりをみせた後、答えた。
「お兄ちゃんの料理がいい」
「わかった。なにがいい?」
「えっと、どうしよう。あ、ハンバーグ。ハンバーグがいい」
「よしきた」
小走りで台所へと向かった。
千佳も僕についてきた。
冷蔵庫を開けて、食材を取り出していく。
ひき肉がなかったが、先ほどスーパーで購入していたことを思い出し、事なきを得た。
「お兄ちゃん、私も手伝う」
「それじゃあ、玉ねぎ。みじん切り」
「うん」
千佳と玉ねぎを渡して、僕は米を研ぎ始めた。
鼻をすすりながら、千佳は一生懸命に包丁を動かしていた。
「できた」
「よし」
炊飯器のスイッチを入れて、千佳の隣に並んだ。
若干荒かったが、構わずひき肉と卵、パン粉と一緒にボールに放り込み、調味料を振りかけた。
「私が混ぜていい?」
「いいよ」
千佳にボールを渡して、僕はスープ作りに取り掛かった。
じゃがいもとアスパラとにんじんを大きめにきざんで、水を張った鍋に入れる。
沸騰しかけたころに固形コンソメを入れて、かき回した。
味見をしながら千佳の様子を窺うと、まだひき肉をこねていた。
まるで粘土で遊ぶ子供のように、鼻歌を交えて楽しそうに。
その姿がなんだか、ひどく愛らしかった。
「もう大丈夫?」
「じゅうぶん。焼こうか」
「うん」
適当な量をとり、楕円を形どった。
両手で空気を抜いて、熱したフライパンの上にそれを並べていく。
「おいしそう」
うっとりした目で、千佳はパチパチと音を立てるフライパンを眺めていた。
程なくして焼きあがったハンバーグと、それを焼いている間に作ったサラダを皿に盛り付けて、沸騰させたスープを底の深い器によそって居間へと運んだ。
食卓に向かい合わせに座って、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす」
元気よく箸を手にとって、ハンバーグを口に運んで頬を膨らませながら咀嚼する。
「どう?」
「絶品!」
幸せそうに顔をほころばせた。
普通でいいようと無理をしているのがありありと感じられて、それが僕の胸を締めつけた。
「食べないの?」
「ん? 食べるよ?」
僕もハンバーグを口に入れた。
確かにおいしかった。
「お兄ちゃんのハンバーグはやっぱりおいしいね」
「また作るよ」
千佳に何をしてあげるのが一番なのか、やっぱり僕にはわからない。
結局、僕にはこうやって普段通りに振舞うことしかできない。
だからせめて、千佳にとっての当たり前のことをできる限りしてあげようと、心から思った。
妹が消えるまで、
後、四日。