序『いつも通りの』
僕が八歳の時、妹が生まれた。
その数日後、母さんが亡くなった。
こいつのせいで母さんが死んだんだ。
そんな風に妹を恨んだこともあった。
そのせいで、僕はしばらく妹につらくあたっていた。今思えば、それが僕の人生で最大の過ちだった。
僕が十七歳の時、父さんが過労で倒れ、そのまま亡くなった。
父さんは子供が金の心配をするな、と言って僕に絶対バイトをさせなかった。
僕もそれに甘え、父さんを追い込んでしまった。それが、僕の人生で最大の後悔。
父さんが死んだ後、僕は高校を中退して働き始めた。
あれから五年。
僕、篠村真治、二十三歳。
妹、篠村千佳、十五歳。
たった二人だけの家族。
千佳が大学を出て、独り立ちするそのときまで支え続けること。
それが僕の使命だと信じて生きてきた。
不思議と青春をふいにしたことへの悔いはなかった。
もともと何かしたいことがあったわけでもない。
むしろ、自分以外の誰かのために生きることが心地いいとさえ思えた。
僕たちのために死ぬまで働き続けた父さんも、こんな気持ちだったのかもしれない。
生活は決して豊かではないけれど、僕は自分のことを不幸だとは思わない。
千佳がどう思っているかはわからないけど、同じ気持ちだったらうれしい。
これからも兄妹二人でうまくやっていけるだろうと、そう信じていた。
一ヶ月ほど前から、奇妙な事件が話題になっていた。
体が少しずつ他人のように変化していくという、信じられない事件。
朝起きたら髪が変色していたり、伸びていたり、逆に短くなっていた人。
目の色が外国人のように青くなっていた人。
背が伸びたり、縮んだりした人。
変化の仕方は様々だったが、最終的には誰しも別人のようになってしまうという話だった。
その変化の様子を追っていく番組もできた。
お世辞にも細いとも美しいとは言えない女性が、少しずつモデルのような体型になって、女優のような顔立ちに変わっていく様はとても奇妙で、千佳と二人で笑いながら見ていたのを覚えている。
でも番組開始から五日後、僕たちの笑顔は凍りついた。
人形のようにかわいらしく変化した女性は、カメラに向かってポーズをとったり、投げキッスをしてみせたり、その美貌を視聴者に存分に披露していた。
でも彼女がカメラに向かってブイサインをしたその時、その手が、腕が、粉砂糖のように崩れた。
何が起こったかわからないという顔で、彼女はカメラと自分の無くなった腕を交互に見ていた。
次に左腕が肩から落ちた。
悲鳴があがった。
映像が、カメラマンの動揺を代弁するかのように左右にぶれた。
それから数秒後、彼女は完全に崩れて消えてしまった。
CGか何かだろう、視聴者を驚かせるための演出だろう、そう思った。
だけど崩れていく彼女の歪んだ表情や、感情をむき出しにした悲鳴が凄くリアルで、どうにも落ち着かなかった。
そしてその翌日のニュースで、僕はあの映像が真実であったと、信じざるを得なくなった。
消えたのは彼女一人じゃなかった。
体が別人のように変化して、完全に変化した五日後、崩れて消えてしまう。
その奇病は多くの人間の背筋をゾッとさせた。
けれど、数日後に発表された奇病の原因を聞いて、僕はほっと胸を撫で下ろした。
遺伝子治療の副作用。
それが原因だった。
確か千佳が生まれたくらいに流行り出した治療法で、遺伝子自体に手を入れることでどんな病気も治してしまうという、なんとも胡散臭い治療法だった。
でも実際に効果はあるようで、病弱な人が全くの健康体になったとか、視力が回復したとか、脳に異常がある人が他の健常な人と遜色ないほど回復したとか。
どこまで本当かは知らないけれど、確かな治療法ではあるようだった。
その治療法によっていじった遺伝子が、何らかの原因で異常をきたし、まったく別の状態へ変異していく。
そしてどんどん変異していった結果、人の形を保てなくなって崩れて消ええてしまう。
それが副作用の全容らしかった。
学のない僕にはあまり理解できなかったが、それ以上詳しく知ろうとは思わなかった。
僕と千佳は、遺伝子治療なんて受けていなかったから。
これから消えるかもしれない人のことも、変化の恐怖に怯える人も、全ては他人事だった。
関係ないと、そう思っていた。
その日は、いつも通りの朝になるはずだった。
千佳よりも三十分はやく起きて、顔を洗って朝食の準備をする。
準備が終わったら、千佳が起きてくるまでコーヒーを飲みながら新聞を読む。
コーヒーを半分ほど飲んだ頃に、騒々しく階段を駆け下りて、
「おはよう!」
と千佳が元気よくリビングに入ってくるだろう。
一緒に朝食をとって、千佳の嫌いな牛乳を飲ませて、寝癖が残ってないかチェックしてやって、学校へと送り出す。
そうなるはずだった。
でもその日は、どれだけ待っても千佳は一階へと降りてこなかった。
コーヒーを飲み終えてしまった僕は、このままでは学校に遅刻してしまうだらしない妹を起こすために二階へとあがった。
千佳の部屋の扉を軽くノックして声をかける。
「そろそろ起きないと遅刻するぞ」
返事がなかったから、もう一度ノックをした。
「千佳?」
ドアノブに手をかける。
以前、同じようにいつまでも下に降りてこない千佳を起こすために部屋に入ったことがあったが、過去覚えがないほどへそを曲げられた。
難しい年頃らしい。
許せよ。
心の中でそう呟いて、ドアノブを回した。
部屋に入ると、千佳は掛け布団を頭からかぶって、ベッドの上にうずくまるように座っていた。
すでに起きているみたいだった。
「おい、起きているならさっさと……」
千佳の普通じゃない空気に気付き、言葉をとめる。
千佳は、泣いていた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
弱々しく首を振って、小さく、口を開いた。
「どうしよう……お兄ちゃん……私……」
「おい、大丈夫か?」
小刻みに震える千佳の肩に触れたとき、気付いた。
肩から胸のラインに沿ってしなやかに流れる千佳の綺麗な髪。
「お兄ちゃん……私死んじゃうよ……っ!」
潤んだ瞳で、僕を見上げた。
掛け布団がほどけるように、するりと落ちる。
千佳の自慢の黒髪は、鮮やかな金髪に変色していた。
「うそ……だろ……」
妹が消えるまで、
あと、五日。