5 主役登場
何度も自分の名前を呼ばれた気がして、ようやく広崎は意識を取り戻した。ベッドに寝かされている。広崎が泊っているセミスイートのベッドルームのようだ。
熱のためか、なかなか目の焦点が定まらなかったが、少しずつ視界がハッキリして来て、ようやく名前を呼んでいる相手の顔が見えた。驚いたことに、その両目は、ぽっかり開いた真っ黒な空洞であった。
具合が悪くなければ、跳び起きているところだ。
だが、次の瞬間には普通の目に戻っており、心配そうに覗き込む、インストラクターの丹野の顔になっていた。広崎が目覚めたことに気づき、パッと顔を輝かせた。
「帝塚先生、気がつきました!」
丹野が医者らしき人物を呼んだ。
「そうかあ。良かった、良かった」
リビングルームから白衣の人物が入って来た。かなり高齢のドクターだった。鼻が大きい。
広崎の脈をとってから、腋の下に体温計を入れた。ピピッと鳴った後、結果の数字を見て、首を傾げた。
「やっぱりや。体表面の熱がえらい高いのに、深部体温はそないに上がっとらん。わしの手に負えんようなら、大学病院を紹介せなならんと思ってたとこや。まあ、変わったタイプの熱中症やけど、とりあえず、安静にして水分と塩分を補給すればええやろ」
「あの、お薬などは?」丹野が訊いた。
「いらん、いらん。ええか、病気ちゅうもんは薬が治すんやない。本人の自然治癒力や。わしは必要のない薬は出さん主義や」
「スポーツドリンクのようなものを飲ませた方がいいですか?」
丹野の質問に、帝塚医師は首を振った。
「いや、いっそ味噌汁くらい塩分が濃い方がええ」
「わかりました」
「まあ、雨降ってるときに熱中症になることは、ないわけやない。日に当たってへんのに体表面だけ熱い、ちゅうのんは珍しいけどな。わしが学会で報告したいくらいや。それから、腿のあたりが痛むんは、多少痙攣もあるかもしれん。大事ないとは思うけど、なんかあったらすぐに呼んでや」
「ありがとうございました」
丹野は深々と頭を下げた。
医師はそのまま出て行ったようだ。
「味噌汁はすぐには無理だと思いますので、スープでも用意しましょう」そう言った声は錦戸だ。
「熱中症になるほど暑くはなかったすけどねえ」これは玄田の声。
二人とも広崎のベッドからは死角になるリビングの方にいるらしい。
ノックがあり、誰か入って来た。
入れ違いに錦戸が「スープを頼んできます」と言って出て行った。
「相原さんにもしばらく休むように言ってきましたわ」畑中の声だ。
「丹野インストラクター、ご覧のような状況ですので、わたくしたちのグループは今日の研修はお休みさせていただいて、代わりに明日は午後の研修まで受けて帰ることにしたいのですが、よろしいですか?」
「ああ、ぼくの方はかまわないよ」
「ありがとうございます。あとはわたくしたちでしばらく様子を見ています。他のグループホテルの研修生たちが待っていますわ」
「そうだね。じゃあ、何かあったら知らせてくれたまえ」
丹野が出て行くのを待ちかねたように、畑中はフーッと深く息を吐いた。
「でも、思ったより大したことないみたいで良かった。さっきは本当にどうしようかと思ったわ」
「そうすね」
「だめよ、玄田くん。ちゃんと『そうですね』と言う癖をつけないと」
「そうす、あ、いえ、そうですね」
畑中も少しホッとしたらしく、フフッと笑った。
「さてと、丹野インストラクターの了解がもらえたから、人事課に連絡だけ入れとけばいいわね。幸い、明日は午前の研修のあと、大阪の主なホテルを見学して回るという名目で、午後の時間を空けといて良かったわ。まあ、ホントはせっかくのチャンスだからみんなで大阪観光のつもりだったけど。今は広崎くんの回復が最優先ね」
「ああ、お好み焼き食べたかったなあ」
玄田は本当に残念そうな声を出した。
「お好み焼きぐらいでよければ、今晩にでも連れて行ってあげるわよ。でも、しばらくはここを離れられないわ」
再びノックの音がし、先ほど出て行ったばかりの錦戸が戻って来た。
「すみません。広崎さんに会いたいという方が見えているんですが、それが、そのう……」
錦戸が言い淀んだため、畑中の方から尋ねた。
「どんな人?」
「アフロヘアーの変な人で、服もなんだか汚れているみたいで」
すると、広崎が掠れた声を振り絞り、「呼んでください!」と叫んだ。