2 逆指名
確かに室内はムッとするほど暑い。
広崎が壁面のコントローラーを確認すると、一番低い十九度にセットされていた。試しに三十度に設定するとゴーッと音がして、天井の吹き出し口から生暖かい風が出て来た。あわてて十九度に戻す。
(逆作動だ。客室研修で教わったとおりだ。恐らくセンサーの不具合でこの部屋だけ暖房モードに切換わったんだろう。こういう場合には、一度リセットボタンを押せばいいんだったな。確かベッド横のナイトテーブルの下にあったはずだ。ファシリティのおっちゃんも、この時期は忙しいから、逆作動ぐらいは自分で対処してくれと言ってたし、よし、やってみよう)
「原因がわかりました。ちょっとお待ちください」
「オオ、オネガイ」
ベッドの横にかがんで、ナイトテーブルの下に手を入れて探る。なかなか見つからない。
その時、ムスク系の甘い香りがして、広崎の背中にポニョポニョした二つのものが触れた。
(え、なにこれ)
「ナオリソウカ?」
耳元で声がした。さらにポニョポニョしたものが押し付けられる。
(わあっ、どうしよう)
その時、ようやくリセットボタンに手が届いた。
「す、すみません。風が出ると思いますので、様子をみてもらえますか」
「ハーイ」
ようやく離れてくれた。
広崎がボタンを押すとゴーッと音がして、冷たい風が出て来た。
「オオ、スゴーイ、アリガト!」
立ち上がった瞬間、抱きつかれた。見かけによらず、すごい力だ。筋肉質な腕でギュッと締め付けられる。
「あ、いや、ども、すみません、すみません。早く戻らなきゃいけないので」
広崎は、失礼にならない程度に力を込めて相手の腕から逃れ、そそくさと部屋を出た。心臓がドキドキしている。
廊下を歩きながらも、制服にまだ香水の匂いが残っている気がした。
フロント裏のオフィスに戻ってから、インチャージの原田に事の顛末を説明した。話ながら、少し顔が赤くなる。
「その状況で、一人で部屋に入ったのは、マズかったな」
「すみません」
話が聞こえたらしく、フロントに立っていた市川がカウンター裏のカーテンをめくりオフィス側に顔を出した。
「1003号室の外国人だろ。昨夜、外貨両替に来てたから、おいらも顔を見たよ。確かに美人だよなあ。でも」ニヤリと笑い「男だぜ」
「はあ? え、じゃあ、あの、ポニョポニョは」
「残念だったなあ。おいらも信じられなかったよ。でも、外貨両替のときパスポートを確認するだろ。驚いたよ」
「そ、そうなのか」
(なんてことだ。本当に危機一髪だったのか)
市川は大げさに同情するような顔をして、頷いて見せた。
「パスポートを見てなかったら、さすがのおいらだって、騙されちゃうよ」
(なんてヤツだ。だから電話に出なかったのか)
横で聞いていた原田が「そうか」と言った。
「それじゃ、念のため1003号室には一人で行かないよう、ベルボーイたちにも言って置こう。広崎の他に犠牲者が」ちょっと苦笑して「出ちゃいけないしな」
市川はニヤニヤしながら広崎に「まあ、落ち込むなよ」と言って顔を引っ込めた。
ところが、すぐにカウンターの中でうれしそうに話す市川の声がして、女性スタッフのクスクス笑う声が聞こえて来た。
広崎は、本気で腹が立ってきた。
「気にするな」原田が広崎の肩をポンと叩き「それより、さっき人事課から連絡があった。来月、大阪で開催される、グループホテルスタッフ対象の接客マナー研修に、おまえが選ばれたそうだ」
「えっ、おれが、ですか?」
「うん。なんでも、逆に大阪の方から指名してきたらしいぞ。おまえ、大阪の上層部にコネでもあるのか?」
原田が冗談で訊いているのはわかったが、なぜか、広崎は背中がゾクッとした。
「いえ、まさか。何もないですよ」
「もうチェックアウトも残り少ないし、今日は早めに上がっていいぞ。人事課に寄って詳しい話を聞くといい。だが、その前に、ワイシャツを着替えて行けよ」
「は?」
「襟に口紅の跡が付いてるぞ。おまえ独身で良かったな。うちだったら、カミさんに殺されてる」
そう言って原田は声を上げて笑った。