1 本当に怖いもの
「ナメクジだったらしいな」
どういう話の流れでそう言われたのか、広崎は意味がわからず、相手の顔をマジマジと見た。
ちょっと弛めのイケメンで、広崎と同じ制服を着て、フロントのカウンターに並んで立っている。先月レストランから異動してきた、同期の市川であった。
ようやく朝のチェックアウトが一段落し、現金とクレジットカードの集計をしていた広崎は、ずっとしゃべり続けている市川の話を上の空で聞いていたのだ。
「え、何の話だっけ?」
「なんだよ、聞いてなかったのかよ。昨夜、加山マネージャーの送別会で、散々本人を酔わせて、ようやく聞き出したんだぜ」
「だから、何をさ」
だが、市川はプイッと横を向いた。
「はいはい、わたしが悪うございました。仕事に専念いたします」
そんなことを言われては、逆に気になってしまう。
「すまん。おれが計算苦手なの知ってるだろう。電卓を叩いてる間は何も耳に入らないんだよ。教えてくれ、何がナメクジなんだ?」
市川は、そう来なくちゃ、という感じでニヤリと笑った。本人も、しゃべりたくてたまらないのだ。
「ほら、先々月、加山さんがラストオーダーで怖い目に会って、腰を抜かした事件があっただろ。あの時、どんなオバケを見たのか、頑として口を割らなかったんだ。恥ずかしがってさ」
「ああ、そうだったな。そういえば、加山さん、今月末で辞めるんだって?」
「親に泣いて頼まれて、実家の郊外レストランチェーンを継ぐらしいぜ。まあ、それで、昨日送別会だったんだが、これがチャンスと思って、隣に座ってジャンジャン飲ませた。で、ついに、人間ぐらいの大きさのナメクジを見た、って震えながら白状したのさ。子供の頃から一番苦手なものだったらしい。笑うだろ?」
広崎は、ヌメヌメとした巨大ナメクジを想像してみた。
「うん、そりゃ怖いな」
市川は苦笑しながら首を振った。
「いやいや、それは怖いというより、気持ち悪い、だろう。おいらは断然、女の子の方が怖いねえ」わざとらしく震えてみせた。
自分のことを『おいら』と呼ぶのが、最近の市川のお気に入りらしい。
「落語の『まんじゅう怖い』かよ。まあ、本当に怖いんだとしたら、それはおまえが浮気ばかりするからだろうな」
「いいや、おいらはいつも一途だよ、その瞬間に好きな娘に、さ」
何言ってやがる、と思いながら、広崎は自分が怖いのは、人間並みの大きさのπとかΣとかだろうかと想像し、ちょっとゾッとした。
その時、フロントカウンターの内線電話が鳴った。客室からだ。1003号室で、名前の表示はアジア系の外国人のようである。
広崎はあまり英会話が得意ではないため、市川が電話を取るのを待ったが、何故かニヤニヤ笑うばかりで、いっこうに電話に出そうにない。
仕方なく、受話器を取った。
「ハロー、フロントレセプションスピーキング」
「スミマセーン、トーテモ、アツイデース」
日本語ができる相手とわかり、広崎はホッとした。少し鼻にかかった女の声で、独特のイントネーションはあるが、充分理解できる。エアコンが不調らしい。
広崎は、とにかく部屋に伺います、と相手に伝えて電話を切った。
ファシリティ(=施設管理係)に連絡する前に、どんな状態なのか、実際に行って確認する必要がある。市川に事情を説明し、フロントカウンターから出た。
緊急時以外、ロビーを横切ってはいけないと言われているので、広崎は一旦バックオフィスに下がった。
ちょうどそこで日報らしきものを書いていた中年のクラークに声をかけた。
「原田インチャージ、空調の不具合みたいなんで、1003号に行ってきます」
原田と呼ばれた男は、書き込みを続けながら、「了解」と言って片手を上げた。
広崎は、ロビーの外側の通路をぐるりと迂回し、スタッフ用のエレベーターで10階に上がった。エレベーターホールを出て、少し右に曲がると1003号室がある。
広崎が部屋のチャイムを鳴らすと、「ハーイ、チョト、マテ」と返事があった。
ドアが開いた瞬間、あっと驚いた。
相手は三十前後のアジア系の美人だが、寝起きらしく、体のラインがはっきりわかる薄いナイトウエアしか身につけていない。しかも、胸元が大きく開いており、ふくよかな胸がこぼれそうになっている。そこからムスク系の甘い香りがした。
「あ、えっと、フロントの者です」声が上ずってしまう。
「オオ、アリガト、ハイテキテ」
(しまった、誰かと一緒に来るべきだった。どうしよう)
広崎が躊躇っていると、制服の袖を引かれた。
「ダイジョブ、ダイジョブ、ハイテキテ」
「は、はあ」
(とりあえず、エアコンの状態だけ、さっと確認しよう)
ドアが完全に閉まってしまわないように、ドアガード(=細長いU字型の金具で、ドアチェーンの代わりをするもの)を立てて中に入った。