9 前哨戦
風太の席の横に置いてあるショルダーバッグがゴトゴトと揺れた。風太は皆に気づかれないよう、バッグを軽く手で押さえ「シッ」と声をかけた。
丹野は個室に入って来るなり、お手本のような綺麗な角度の礼をした。さらに、顔を上げると、見事に整った笑顔を見せた。
しかし、その視線は真っ直ぐに風太を、風太のみを見ていた。
「当ホテルのインストラクターをさせていただいております、丹野新平と申します。あなたが広崎さんのご友人の半井風太さまですね?」
「ええ」風太もアルカイックスマイルで応じた。
「秘書の錦戸から、広崎さんの体調不良を治されたと聞きました。ありがとうございました。どうぞ、ゆっくり寛いで行かれてください。他の皆さま同様、錦戸がお世話させていただきますので。それでは、お食事中失礼いたしました」
本当に一言のみの挨拶で帰ろうとした丹野が、最後にもう一度チラリと風太を見た時、風太にだけはその両目がポッカリ開いた真っ暗な闇に見えた。
もちろん、他のメンバーは気づかない。
玄田は、「カッケーすねえ」と感心しているし、女性二人はうっとりした表情で丹野の後ろ姿を見送った。
入れ違いに錦戸が戻って来て、「お待たせしました。ここからわたくしも参加させていただきます。ちなみに、すべて丹野がお支払いしますので、どうぞご遠慮なく」と告げた。
それを聞いて、畑中が眉をひそめた。
「え、それ困るわ。ここはわたしの奢りのつもりだったのに」
「申し訳ございません。丹野の申しますには、畑中さまの奢りは、夜の分に取っておいた方がいいのではと。充分に英気を養って、明日の研修に来てくださるようにしていただきたいので、とのことでした」
「ふーん、そうね。それもいいかも。じゃ、夜はわたしに任せてちょうだい。もちろん、風太さんもよ」
皆の視線が風太に向いた時、風太はバッグに向かって小声で「自分で気づいてないね」と喋っていた。
「え? 誰が気づいてないって?」
畑中の質問に、風太は「いえ、腹話術の練習です」と笑った。
一心不乱にスープを飲んでいた玄田が、フッとスプーンを見つめた。
「そういえば、風太さん、腹話術以外にマジックもするそうすけど、スプーン曲げとかもやるんすか?」
あわてて相原が窘めた。
「まあ、玄ちゃん、失礼なこと聞いちゃダメよ」
だが、風太はあっさり「できるよ」と答えた。
風太はバッグから大きなスプーンを取り出し、軽く振った。するとスプーンはクニャッと曲がる。もう一度振ると、ピンと真っ直ぐになる。驚いて見ている三人に「タネもシカケもあるけどね」と笑った。
「じゃ、さっきの結界っていうのも、タネがあるんすか?」
今度は本気で相原が「やめなさい!」と止めた。
風太は手を振りながら「いいよいいよ」と笑った。
「タネというより、原理だね。ぼくらの住むこの世界に相対性理論みたいな原理があるように、魔界にも原理がある。そして、物質よりも情報が優勢な魔界では、言葉というものが大きな力を持つ。それが呪文さ。しかし、言葉というものには冗長性、簡単に言えば、回りくどいところがある。それをシンプルにしたものが数式だ。だから、ぼくらは数式で結界を張ったり、魔界の存在を召喚したりするのさ」
「なんかスゲーすね」
軽すぎるノリの玄田に、もはや相原も苦笑するしかなかった。
次の料理のエビチリを取り分けながら、玄田が再び失礼な質問をしてきた。
「でも、知らない人が見たら、インチキって言われませんか?」
何か言いかけた相原を、風太が苦笑しながら「いいんだよ」と止めた。
「まあ、ぼくに依頼する人は傀儡師のことを知って連絡してくるんだけど、今回のように、いきなり遭遇することもある。そういう場合は、逆に、マジックと思ってもらった方がいいこともあるんだよ」
「なるほど、カムフラージュっすね」
「そうだ。マジックができることにはそういう利点もある。また、実際、世の中にはインチキをやる連中も多いから、それを見破る役にも立つんだ」
畑中が興味を惹かれたように、「やっぱり、インチキって多いの?」と訊いた。
「そうですね。統計的に、報告される超常現象のうち、六割が錯覚、三割がトリック、本物は一割程度と言われています。もっとも、有名なネッシーやミステリーサークルのように、真実を隠すために、わざとトリックを使ったように見せる場合もありますけど」
風太は悪戯っぽく笑って、続けた。
「でも、傀儡師の仕事は研究ではなく、問題を解決することなので、そういうことには深入りしないように気をつけています」
「じゃあ、広崎くんのことも解決してあげてね」畑中は風太の二の腕あたりをギュッと掴んだ。
「だって、このままじゃ、一生あの部屋から出られなくなるわ。これこそ本物の超常現象でしょう?」




