薬師の戦場。
それから数刻の時間はまさしく怒涛のように過ぎていった。
メリッサが一通りの処置を終えた頃にはすでにすっかり日が落ちて、空には欠けた月が浮かんでいた。
カシムの母親は運が良かった。
道でカシムとメリッサが会わなければ助かっていなかった。
カシムが無事町に着き薬師を連れてきても、町へたどり着くまでにかかる時間、薬師を探す時間、それもよくわからない流行り病かも知れない病の村へ来てくれる薬師を見つけ出すのは至難の技だ。
ましてカシムはメリッサが推測していた通り、とても治療費には足りないだけのお金しか持っていなかった。
無事見つけ出したとしても、恐らく間に合わなかっただろう。
そしてメリッサの薬箱の中には、偶然にも必要とされる薬草の類いがすべて揃っていた。
そして何よりメリッサは知識だけのど素人ではなかった。もしこの場に他の薬師がいれば、さぞ驚いただろう。年若いメリッサの手際のよさや処置の的確さに。
「流行り病の現場や戦争のあとは、薬師の戦場、か……」
ヘトヘトで床に仰向けに転がりながら、メリッサはポツンと呟く。
「……何?」
散々集落を走り回り、メリッサの手伝いーーといっても桶に沸かした湯を用意したり、清潔な布を大量にかき集めてきたり、汚物の処置や汚れたシーツの交換を村の女たちを手伝って行ったり、といった雑用係ではあるが。をして同じくヘトヘトで横に転がっていたカシムが聞く。
「師匠が……といっても押し掛け弟子なんだけど。私に薬師の現場を教えてくれた師匠がある時そう言ってたの」
「……へえ」
あれは建設工事の事故現場だった。
積まれた石材が崩れ、何人もの工夫が大怪我をしていて。
あの時も終わったあとは今のようにヘトヘトで。
肩で息をしながらフラフラと片付けをするメリッサに師匠はそう言って、「このくらいでへばっているようじゃあ戦場では何の役にも立たないなあ!」と笑っていた。
12の時、メリッサは偶然庭の垣根に人一人がギリギリ通れるほどの穴を見つけた。
それからは度々そこから邸を脱け出しては町へ向かった。そして12才のメリッサは薬師の元を巡っては教えを乞うた。
もちろんそんな子供ーーまして見るからに貴族の令嬢といった身なりの、子供をまともに相手する薬師はいない。
師匠もその一人で、最初はまったく相手にされなかった。ただそれ以外と違ったのは、メリッサが見ている分には何も言わないし追い出さなかったこと。
メリッサは邸を脱け出しては師匠の元に行き少し離れて着いて回った。
一月、二月ほどもそんな日が続いたある日。
「……んなとこでボーッと突っ立ってるんだったらこっちに来て手伝え!」
突然そう言われ、あれこれと雑用をさせられた。
それでも嬉しかった。
雑用でも薬師の仕事に関われる。
これまでよりもずっと近くで見ていられる。
その頃にはメリッサはすでに家族の中でも使用人たちを含めた家の中でも孤立していて、皆はメリッサが見当たらないことなど気にもしなかったのだろう。どうせ部屋に籠っているのだろう、と思われていたのだと思う。
一年前に町に向かうのを止めるまで、ただの一度も誰にも見咎められることも何かを言われることもなかった。
(……でも良かった。一年ぶりだけど、ちゃんと動けた)
雑用が簡単な処置の手伝いにかわり、軽い怪我の患者はメリッサが診るよりになり、いつしか師匠にもその周りの人間にも助手として認識されるようになって。
ずっとこうしていたい、そう思ったけれど。
一年前、メリッサは町へ出ることも、師匠の元へ行くこともやめた。
「婚約が決まったんです。それで父と約束を……。あちらの家に入ったらもう薬師の真似後は一切しないと」
メリッサは自分で自分のしてきたことを薬師の真似事、と称した。
12才で師匠の元を訪れるようになる前から、わかっていたことだった。
貴族の令嬢である以上、そう遠くはない内にこうなるだろうと。
それは師匠もわかっていたのだろう。
「そうか」
とだけ言って、一言もメリッサを咎めなかった。
「あちらの家に移るまで、一年間は好きにさせてくれるそうです。でももうここには来ません。でないと往生際悪く足掻いてしまいそうだから。あちらに移る時には薬箱も薬草もすべて置いていきます」
「そうか」
「これまでお世話になりました。本当に、ありがとうございます」
深く下げたメリッサの頭に、師匠はぽん、と手を乗せた。
「なあ、メリッサ。お前はなんで薬師になりたかった?」
メリッサは手を乗せられたまま、顔を上げる。
「母が、亡くなった時に診て下さった先生がいて、助かりはしなかったですけど、でもその方のおかげで母は最後にとても穏やかな顔をしていたんです」
もう手の打ちようがないと、せめてもと痛みや苦しみがないようにと、手を尽くしてくれた。
幼いメリッサに「助けられなくてごめん」と何度も何度も謝って。
「私はあの人のような、そして今は師匠のような薬師になりたかった。ムリなのはわかっていたけど、それでも私に知識や技術があれば家族や身近な人が怪我をした時に病に倒れた時に助けられるかも知れないって」
「だったら、出来ることは続けろ」
「師匠?」
「僅かかも知れないが、お貴族の奥さまだって本くらいは読めるだろう。そんで、忘れるな。薬師を目指したことも、これまでお前がしてきたことも。いいな?」
「はい」
(……師匠)
「カシム。私、決めたわ。私、薬師になる」
「……へ?メリッサはもう立派な薬師だろう?」
「ううん。全然そうじゃなかった」
家を追い出されて、平民になって。
いざ薬師として生きていける。そうなったら、怖じ気づいて、グズグズ悩んでただ戸惑いやら哀しみやらばかりで。
こんな中途半端な気持ちで、薬師を名乗っていいのかと、そう思ったりして。
「うん。私は薬師になるわ」
メリッサはもう一度そう呟く。
「変なの」
とそんなメリッサをカシムが笑った。