クロイス・マルカン侯爵?
「ようこそマリエラ嬢。クロイス・マルカン侯爵と申します」
ゆっくりとした足取りでマリエラのもとに降りてきた男性はそう名乗ると優雅な仕草でマリエラの手をそっと取った。
指先に触れる唇の感触に、マリエラの頬が赤く染まる。
「マルカン侯爵、様……」
「ええ。疲れたでしょう?茶の用意をさせてあるので話は是非リビングで」
さあ、と手を引かれ、マリエラはほわんとした表情で導かれるままに螺旋階段を上がって行く。
後に続いているはずの母親のことなどすでに頭にはなかった。
(……なんて素敵な男性!)
均整のとれた長身を包むのは黒の上下。
丈の長いフロックコートには襟と袖口に生地よりも艶のある黒の糸で刺繍が施され、中に着たベストにもまた同じ同じ刺繍が濃い藍色で施されている。
一目で上質な物と分かる衣服に、軽く撫でつけられた漆黒の髪。
何より印象的なのは手に唇を落としながら上目遣いにマリエラを見上げた、長い睫毛の奥のアイスブルーの瞳。
これまでに見たどの女性よりも男性よりも美麗な顔に柔和な笑みを浮かべて、マルカン侯爵と名乗った男性は「ヘルト殿下が羨ましい」と自然とマリエラの腰に腕を回しながら耳許に囁きかける。
「……え?」
「このように美しく可愛らしい女性と婚約しようと言うのだから、羨ましいと言ったのですよ」
「……そんな」
マリエラが恥ずかしさに俯くと、侯爵はくすりと小さく笑った。
「そうして恥ずかしがる様子も可愛いですね。ああ、ですが貴女はすでにヘルト殿下のものだ。残念です。殿下よりも前にお会いしたかった」
私も、という言葉が喉を出かけて、飲み込んだ。
あまりにもすぐに靡くようでは、軽い女と思われてしまう。
(あくまでも今は、ヘルト殿下の婚約者候補であった方がいいわね)
すでにマリエラの中では婚約者ではなく候補になっている。
侯爵なら、地位もある。
身に付けている衣服からしてもそれなりに裕福でもあるのだろう。
それにしてはこの邸は少々小ぶりにすぎる感はあるが。
「こちらは侯爵様のお邸なのですか?」
マリエラは小首を傾げて侯爵を見上げて見せた。
さり気なく侯爵のコートの端を指先で摘まむようにして。
マリエラは自身のそのような仕草が男心をそそるものだと知っている。
「いえ、ここは貴女をお迎えするために急遽用意させたものです。私の邸は別にあるのですが、私はまだ独身なもので。その私の邸に貴女をお迎えしてはいらぬ詮索を呼ぶかも知れませんからね。未来の王子妃に妙な疑いがかかってはいけないでしょう?急いで用意させたもので、このような四阿しか用意できず誠に申し訳ない」
ーーですがこの辺りはとても静かですし、過ごしやすい場所ですよ。
そう言って目を細める侯爵にマリエラは「ご配慮感謝いたしますわ」とにっこりした。
頭の中では急遽貴族街に小さいとはいえ邸を用意できるのなら問題ないわね。と思いながら。
侯爵という地位に、財力、何よりもこの容貌。
マリエラはこの男性ひとと並んで華やかな夜会の会場を歩く自身の姿を思い浮かべてうっとりする。
(夜会に出向く必要がなくなっちゃったわ)
内心でウフフ、とほくそ笑んで、マリエラはそっと侯爵に身を寄せた。
その後ろでぼんやりと侯爵に見とれる自身の母親のそのまた後ろで、自分たちを出迎えた使用人の男がなんとも形容のしがたい表情で何故かしきりに腕を掻いていることには気づくことはなく。




