トラウマ。
「では開けますよ?メリッサさ、ん」
出会ってまだ一晩と半日。
内の数時間はお互い夢の中だから実際顔を合わせているのは五時間ほどか。
そう考えると短い時間だけれどものすごく濃密な時間を共に過ごしているように思う。
なのだから。
(そろそろ様、と言いかけるの直らないかしら)
そう思いつつも、メリッサは口には出さずに頷く。
本人に求められているとはいえ、元貴族であるーー元なのか、未だ貴族のままになっているのかはよくわからないけれど。家からは勘当されたが、貴族籍を完全に抜けるには三者(国王・元老院・円卓議会)合意による認可が必要で、勘当された理由が理由だけにすでに受諾されているものとメリッサは思っていたのだが。中佐の口振りからするとどうもそうでもなさげなのだ。ーーメリッサをさん付けというのは、平民のイアンにはなかなか難しいようだ。
イアンは平民とはいってもそこそこ裕福な商家の次男坊で、ここにいるのだって元は下級貴族の侍従として付き従ったらしい。
その貴族は砦を逃げ出し、ちょうど流行り病の治療中だったイアンは置いていかれた。
残されたイアンは今度は侍従見習いとして中佐のお世話をしている。
戦争が集結した後は中佐の紹介で以前よりも地位が高い子爵家に仕えることが決まっているらしい。
侍従としてそれなりの教育を受けているからこそ、メリッサをさん付けするのに余計に躊躇いがあるのだろう。
イアンが目の前のドアに手を掛ける。
それにメリッサはごくん、と唾を飲んだ。
今のメリッサの出で立ちは貴族令嬢としてではなく、一般的な女性のそれとしても異質なものだった。
動きやすい七分袖のストンとした青のワンピースの上から借り物のボロいフード付きのマントを頭から被り、手には手袋を、顔は布を巻いて目から上だけがフードの隙間から見える。
片手には箒と雑巾を。
片手には何やらどす黒い液体の入った瓶と小さな巾着袋を握っていた。
カチリ、とドアが音を立てゆっくり開くのを見ながら、メリッサはバクバク音を立てる心臓を深呼吸して宥める。
濃密に浮かぶのは忘れられないある記憶。
名前を呼んではいけないアレは、メリッサにとってトラウマであり、恐怖体験そのものなのだ。
人は皆アレのことを[名前を呼んではいけないアレ]と少々長い呼び方をする。
名前を呼んだら必ず出てくる、というまことしやかな迷信が仕えられているから。
ついでに一匹いたら、その10倍はいるともいう。
恐ろしい。
平民の間では一時期[黒い悪魔]と呼ばれてもいたらしいが、確かに悪魔だと、メリッサは思う。
アレは家具の隙間や暗闇に潜む。
体長はメリッサの指ほど、黒々とテカる表皮に頭からリョロリと伸びる触角。ワサワサ動く六本の脚。
特にメリッサが苦手なのはその裏側。
その脚だ。
黒々とした表皮と比べ白いそれ。
それだけを見ればさほど気持ちの悪いものでもないかもしれない。
それはぱっと見は人の赤ん坊のそれをミニチュアにしたものなのだから。
赤ん坊の足を見て気持ち悪いと感じる者は少ないだろう。
けれどそれが黒々とテカる昆虫の胴体から生えているとなるとどうか。
気持ち悪い。
とてつもなく気持ち悪いのである。
しかもアレには羽根がある。
アレはどこにでもいる。
伯爵邸にも。
メリッサが媚薬を作るのに使用していた小屋にもいた。
ある日、まだ助手が付けられる前。
メリッサが一人で小屋のドアを開けると、アレがそこにいた。
部屋のド真ん中。
ドアを開けたメリッサを見据えるように。
メリッサは悲鳴を上げた。
するとアレは弾かれたように飛び上がったのだ。
メリッサに向かって。
眼前に迫る黒い[名を読んではいけないアレ]
間近に見る白い足の裏側には無数の白い触手のようなうねうねがうねっていて。
メリッサは意識をなくした。
しばらく経ってメリッサが目を覚ますと、アレの姿はすでになかった。
メリッサはその日、その晩不眠不休でアレを小屋から撲滅すべくある薬剤を2つ作り上げた。
ホウサンダンゴ、と名付けた一つは部屋の隅に置く毒餌。食べてすぐではなくしばらくはしてからコロリと逝く。それを食べた個体の糞を食べた別個体も駆除出来る。
もう一つはどす黒い液体である。
駆除液、とそのままなネーミングを付けたそれはとろみのある薬剤で振りかけるとまず羽根を重くして飛び上がるのを防ぐ。あとは浸透した薬剤が身体の動きを阻害し、やがて絶命させる。
メリッサはその2つを手に、いざ対決!と意気込みを露わにゆっくり開いていくドアの向こうを睨んだ。