悪意の矛先。
(……ここ、どこ?)
頭がぼんやりとする。
視界に霞がかかったようで、目の前のものがすべてユラユラと揺れているようだった。
(気持ち悪い)
吐き気がする。
頭も痛いし感覚は薄いものの左の足首がひどく熱くて重い。
(……固い)
どこか建物の中のようだ。
板張りの床に転がされていたようで、身体の節々が強張っているように感じる。
(わたし?)
どうしたんだっけ?と思ってから、微かな煙の臭いに思い出した。
(……そうだ。ヘルト王子が)
森に、油を撒いてーー。
「い……っ!」
起き上がろうと床に手を着こうとして、メリッサは声を上げた。
「な、に?」
「……起きたのか」
頭上からかけられた声に顔を上げる。
ミシリ、音がして自身の両手首にかかる負荷と感触に後ろ手に縛られて何かに繋がれているらしいことを知った。
「ヘルト王子」
記憶にあるよりも心なしやつれているようだけれど、間違いなくヘルト王子だ。
婚約破棄をした夜会の夜と同じか、より険しい顔でメリッサを見下ろしている。
「こんな所にいるとはな。王国を追われたから帝国の人間にすり寄りでもしていたか?」
悪意と侮蔑に満ちた言葉がメリッサの胸を締め付ける。ほんの少しだけ、いったい誰がメリッサに罪を被したのか、と悔しさのような哀しみのような感情が込み上げて、メリッサは唇を噛んだ。
「……あなたこそ。いったいどういうおつもりなのですか?」
「なに?」
メリッサが言い返したのが意外だったのか、それとも非難する口調に苛立ちを覚えたのか、ヘルト王子の眉が歪む。
ギラつく瞳にメリッサは怯えを覚える自身の心を叱咤して、見つめ返した。
「王国は和平交渉を行っているはずでしょう。なのにこんなことをしてはすべてが台無しになるのですよ?これは王国の、国王様の決めたことなのですか?」
メリッサにはあの国王陛下がこのような馬鹿げた真似を命令するとはどうにも思えなかった。
貴族の令嬢とはいえ、たかが伯爵令嬢であったメリッサが陛下と直に話をしたことなど数えるほどしかない。
それも挨拶程度。
けれども賢君と名高く、国民にも慕われているその人がむざむざ帝国を怒らせるだけのことをするだろうか。
交渉が破綻すれば、敗戦後に待っているのは破滅だけだろうに。
「黙れ!そもそも誰のせいだと思っている!」
「きゃっ!」
ぶちぶちと耳元で音が鳴る。
力任せに髪を掴まれて、床に頭を打ち付けられた。
「貴様のせいで!貴様ごときのせいでこの俺がこんな所に寄越されたのだ!貴様が逃げ出さずとっとと裁判を受けて死刑になっていればこんなことにはなっていないのだぞ!」
逃げ出したのではなく勘当され、追い出されたのだ。
そうは思ったものの、訂正することは出来なかった。メリッサが口を開くよりも前に、ヘルト王子はメリッサの頭を靴の裏で踏みつけたから。
「……ぁ、あっ」
痛みに気が遠くなるが、意識を失う前にまた新たな痛みが走り、気を失うことも出来ない。
「貴様のおかげで俺は……!手柄が、手柄がいるのだ!なんとしてもっ!帝国の駐屯地を焼いて、魔王とやらに目にものを見せてやる。帝国軍も、帝国にすり寄る非国民の集まりも俺の火で燃え尽きれば良いのだ!そうすれば俺は、俺は、」
「ウェルダール砦だって巻き込まれるのですよ!」
悲鳴に似たメリッサの叫びに、ヘルト王子は一瞬だけ足の力を抜いた。
「この森と隣接しているのは帝国軍だけではありません!火が燃え広がれば、砦だって!」
必死に叫ぶ喉が焼け付くように熱い。
喉だけでなく身体中が。
床に打ち付けられ何度も踏みつけられた横顔からは流血しているのだろう。ドロリとした生暖かい感触が頬に触れた。
「黙れ!」
軍靴の爪先がみぞおちに突き刺さり、肺から息が強制的に吐き出される。
「王子、そろそろ」
耳鳴りと共に焦りを含んだ声が聞こえた。
もうどこから聞こえてくるのかよくわからない。
「ふん。穢らわしい魔女に相応しく火に焼かれて死ね」
頬に触れたのは吐き出された唾だろうか。
どこからか複数の靴音と、最後に扉を閉めるような音が聞こえた。




