秘密の工房と雇われ人。
ドヴァン伯爵領。
その中心にあるドヴァン伯爵家。
その伯爵家の敷地。
片隅にその小屋はあった。
木造の小さなログハウス。
周りには薬草園が広がり、その周りを柵で覆われている。
そこは一部を除き、使用人も家族でさえも知らない場所。
母屋やその庭園からは背の高い木々の林に遮られ見えない。
もともとそこは敷地の外であった。
隣接する土地をこっそりと整地し、建てられた小屋と小さないくつもの畑。
だがその畑に育てられた様々な薬草は手入れをする人間の不在によって一部は枯れ、雑草と混ざりあい窮屈そうに葉を出している。
その小屋の中に、一人の男がいた。
背の低い頭の薄くなった小男で、しわくちゃのシャツを着ている。
男はけして多くはない自身の身の回りの荷物と、こっそりと母屋ーードヴァン伯爵家の本宅から持ち出した金目のもの(そうはいっても表向き厩屋の掃除夫として雇われている男に持ち出せたものはたかがしれていたが)を鞄に詰めていた。
男は一応名ばかりは薬師の端くれであったが、録に勉強もしていない、まともな薬など作れはしない、治療などできはしない。
ただ、身元は親が子爵で、男はその四男であった。
そのためひっそりと薬師を探していたドヴァン伯爵に紹介された。
爵位を継げない三男や四男が成人後商売を始めたり薬師を名乗ったりすることはよくある。
大抵はまともに独り立ちをしたり、商人の婿に治まってそれなりに生きていく。
けれどもなかには親のコネだけで生きていくものもいて、残念ながら薬師を名乗る者にそう言った者は多い。
薬師は人の命を救う。
尊敬される職業だからである。
商人としてへこへこ頭を下げるよりも、上に立って偉ぶっていたい。
そのような単純かつ考えなしな考えで適当に同じような貴族出身の薬師に形だけ師事を頼み薬師を名乗るものだから、当然すぐに思うようにはいかなくなる。
そうして家に金をせびり酒浸りで日々をおくる。
男もそのような者の一人であった。
だが30を過ぎ、実家が親ではなく兄が当主に成り代わると金の無心もなかなか叶わなくなった。
さて、この先どうするか、そう悩んでいた時にこの話を持ちかけられて、男は一も二もなく飛び付いたのだった。
仕事は表向き厩屋の掃除夫。
昼と夕刻の二時間ほどだけ厩屋の片付けをする。
裏では月に数度この小屋で、ある少女の助手をする。
メリッサ・ドヴァン。
ここドヴァン伯爵家の姉娘である。
助手といっても実際にドヴァン伯爵が男に望んだのはメリッサが作る薬の製法を覚え盗むこと。
ドヴァン伯爵は以前は娘が薬師の真似事をしていることをよく思っていなかったし今も貴族の令嬢がすることではないと思っている。
けれどある時ふと気付いたそうだ。
金になるのではないか。と。
娘ーーメリッサは幼い頃から難しい医学書や薬学書を読み、自分で庭に何種類もの薬草を育て、薬を作っている。
そして何かと妹のマリエラが家族や使用人に贈る塗り薬や薬草茶が実はメリッサが作ったものであることにも気付いていた。
試しに伯爵は数種類の薬をメリッサに作らせ、それを金で雇った平民で試したり、町の薬師に調べさせたりした。
結果はメリッサの作った薬は非常に質が良く効果が高いものだということがわかった。
ドヴァン伯爵はこの小屋を建て、メリッサにある薬を作らせることにした。
高位貴族に高値で売れる媚薬の類いである。
貴族の令嬢が薬師の真似事などと顔をしかめるその口で、その娘によりによって媚薬を作らせる。
まったく腐った貴族そのものだと思う。
男も他人のことは言えないが。
代わりに婚約し、結婚が決まるまでは好きに真似事をしても良いと伝えたそうだ。
が、そのような交換条件がなくとも当主の言葉に逆らうことなぞ娘にはできなかっただろうが。
とはいえ他の家族にも内緒で少女が一人で薬を作るとなると数は見込めない。
そのため伯爵は限られた数しか手に入らない稀少な薬としてそれを非常に高額なそれこそボッタクリとも言える値である程度高位で金のある人間にだけ売った。
貴族ーー特に金があり少々悪趣味な人間ほど手に入りにくい品というものに弱いものだ。
薬は売れた。
それこそ数年で伯爵家の財産は数倍に膨れ上がるほど。
高位貴族の顧客を複数持ち、娘の婿に三男とはいえ王族を迎えることになるほど。
だが数日前、婚約発表の夜。
その娘メリッサは罪を暴かれた。
妹マリエラを毒で殺害しようとしたという罪を。
正直、男は眉唾物だと思っている。
だが実際にメリッサは婚約を破棄され家を勘当され追い出された。
その騒ぎのおかげで男はここを抜け出す機会を逸し、今日まで経ってしまった。
本当なら婚約発表の夜には抜け出すはずだったのだ。
メリッサが薬を作れるのは婚約発表のこの日まで。
いくらなんでも王族の正式な婚約者に薬師の真似事はさせられない。
だから、男は雇われた。
メリッサが作れなくても代わりに薬を作れるように。
だが助手といっても男がやっていたのはただ見ていたことだけ。
最初は盗むつもりだった。
けれどもすぐに男にはムリだとわかった。
薬を作ることは難しい。
僅かな量の違い、薬草の質、乾燥具合、砕き、練り込むタイミング、交ぜ具合。温度や湿度によってもそれらは微妙な調節を必要とする。
メリッサは天才だった。
間近に見ていれば男にとてそれぐらいはわかる。
天賦の才、というのではない。
どちらかというと努力の天才だ。
同じことが男にできるとは思えなかったし、同じものが作れるとも思えなかった。
たとえ似たものを作れたとして同じ効果は得られない。
少し前、男が伯爵に渡した薬のように。
メリッサを追い出した伯爵はすぐに男に薬を作ることを要求した。
この小屋にはメリッサが作った薬がいくらか残っていたが、それらは伯爵が宴に来た客に配ってしまった。
多くの貴族が集まるこの機会に更なる売り込みを狙ったのだろうが迷惑な話だ。
おかげで今日渡したのは男が作った見た目だけがそっくりの粗悪品。
あんなものを高値で買わされた客は即座に苦情と返金を訴えるだろう。
その前に、逃げる。
男はぱんぱんに膨れた鞄を胸に抱えこみ、そっと小屋から離れた。
二度とこの邸にも小屋にも来ることはない。
「この家も、もう終わりだな」
振り返ることなく足を進めながら、ポツリと男は独白を落とした。