姉妹と友達
「今日、友達呼んでるから」
いつも通りの気まずい朝食を終える頃、美咲は淡々とそれを菖蒲に告げた。
箸を止めて目を丸くする菖蒲。しかしすぐに何かを察したように、表情が寂しそうな笑みに塗り変わる。
「……じゃあ、私はどこか出かけるね?」
「いや、別にいいけど。ちょっと見に来るだけだし」
間髪を入れずに返されたその言葉に、菖蒲の目が意外そうに見開かれる。美咲はバツの悪そうに目を逸らしながら、ボソボソと小さな声で言葉を続けた。
「病み上がりなんだから追い出すわけにもいかないじゃん」
「美咲ちゃん……」
一瞬、菖蒲の目が潤む。美咲は照れ隠しのように残ったご飯を掻き込むと、食器を持って立ち上がった。
菖蒲が風邪から回復して二日ほど経つが、まだ彼女は本調子ではないようだ。時々、立ちくらみのように蹌踉ている姿を目にする。
朝起きて菖蒲が床に倒れているのを見た時は、心臓が止まるかと思った。昔から身体の弱かった菖蒲は高熱を伴う風邪はしょちゅうで、それをこじらせて一日入院したことも一度や二度ではない。
いくら仲が悪くても、面白く思っていなくても心配なことに変わりはない。慌てて得意のスマホで情報を仕入れて看病してみたが、どうやらそれは功をなしたようだ。流石は文明の利器である。
それに、今回の菖蒲の風邪には美咲も多少の責任を感じていた。
最近は料理も洗濯も掃除も気がついたら菖蒲が既にやっているので、美咲の仕事といえば近所のスーパーへの買出し程度のものだった。だが、それはどう考えても菖蒲への負担が大きすぎる。ただでさえ身体の弱い菖蒲だ。今回の風邪は疲労からくるものだったのかもしれない。
今度からはできる範囲で手伝おう。同居している立場として、それくらいは当然だから。
美咲なりにそう考えてはいるが、まだ実行には移せていないのだった。
「さーてと」
この間百円均一で購入した掛け時計を、腰に手を当てて見上げる美咲。食器を洗い、身支度を済ませたが友達––––桜が来るにはまだ時間がある。その間にできることはやっておきたかった。
この六畳一間のボロアパート(シャワー付き)はどう頑張っても広くはならない。
ならまずは床に散らばっている物から片付けようと昨夜読んで放置していた少女漫画を手に取った刹那、突然玄関のチャイムが音を鳴らした。美咲と菖蒲の目線は同時にそちらへ向けられる。
「……宅急便かな」
桜だとしても流石に早すぎる。菖蒲は着替えの最中だったので、仕方なく美咲が玄関へと向かった。その間にもう一度鳴らされるチャイム。
「はいはい今行きますよ」
面倒そうに返事をして、判子を手にドアを開く。
「あっ」
「ん?」
するとドアの前に立っていたのは宅配便ではなく、同い年くらいの少女だった。
地毛だと一目で分かる黒髪ショートと、化粧っ気の無い顔。くりくりとした、鈴を張ったような目が美咲を興味深げにじっと見つめている。どこか見覚えのある顔だった。
「えっと」
「あ、ごめんなさい! えっと……美咲ちゃん、だよね?」
「……そうだけど」
不審げな目をした美咲に気がついたのか、少女は慌ただしく姿勢を正して名乗った。
「私、夏樹花奈。小中一緒だったんだけど……覚えてないかな?」
「……あー」
名前を言われて思い出す。恐らくよく菖蒲の近くにいた、やけにテンションの高い友達だ。今も時々名前を聞くことがある。
小中と生徒数が多かったこともあり、一度もクラスが一緒になったことは無い。菖蒲の妹として何度か言葉を交わしたしたことはあるはずだが、その内容すら思い出すことができなかった。
少女––––カナは、困ったように笑いながら尋ねる。
「菖蒲の具合はどう?」
「あー……うん。まぁイイ感じだけど」
菖蒲を心配して来たのか、と納得する美咲。だが菖蒲が何も話していなかったところを見ると、約束をしていたわけでは無いのだろうか。
「カナ?」
その時着替えを終えた菖蒲が奥からやって来て、カナの顔を見て驚く。「おー」と美咲の肩越しに手を振るカナ。
菖蒲と交代するように、美咲はそっと部屋の奥へと戻った。
菖蒲の友達と話すのはどうにもやりにくい。それに確か、あのカナという子は菖蒲と同じ東高のはずだ。その時点で美咲にとっては悪い印象が拭えない。
玄関で話を続ける二人。
入って来るのかなと思いながら、美咲は落ち着きなく部屋の中を歩き回る。
「え、もう行っちゃうの?」
「うん、元々顔見るために寄ったし。それにあんまり時間無くてさ」
話を盗み聞いた限りで推測すると、カナは電車でどこかへ行く途中、このアパートの最寄駅で途中下車してここまで来たらしい。
随分と仲が良いんだな、と思う。菖蒲にこれほど仲が良い友達がいるとは知らなかった。興味も無いし、これからも持つことはないだろうが。
「じゃ、またねー」
「うん」
扉が閉まり、外の蝉時雨が締め出されて再び二人の空間に戻る。
玄関から戻って来た菖蒲は、どこか晴れやかな顔をしているように見えた。美咲は床に放置されていた洋服を箪笥にしまいながら、再び時計を見上げる。
普段から早めに行動する桜ならそろそろ着いてもおかしくない頃合いだ。幸い散らかっていた物は粗方片付いたので、スマホを取り出して折り畳みテーブルの隣に座る。菖蒲は何やらカナから貰ったらしいビニール袋の中身を、冷蔵庫に入れていた。
その時、再び玄関のチャイムが鳴って、美咲は「桜かな」と向かう。
菖蒲はそわそわと台所を歩き回っていた。
「やっほー桜」
予想通り、古びた通路に立っていたのは桜だった。今日はリュックを背負い、つばの広い帽子を被っている。しかし美咲の挨拶にも「ん」と返すだけで、どこか物憂げな表情を浮かべていた。
「どしたの」
「あ、いやちょっとそこでね」
首を傾げて疑問符を浮かべる美咲に、桜は「何でもない」と短く言って笑みを見せる。まだ疑問は残るが、外の熱気に耐えられなくなってきたので招き入れてドアを閉めた。
美咲は「あー涼しい」とエアコンの効いた空間に目を細めながら靴を脱ぎ散らかし、桜の荷物を預かる。
「なんか飲み物出すからテキトーに座ってて」
「うん」
桜は丁寧に靴を揃えて脱ぎ、ゆっくりと部屋の中へ進む。
すると、部屋の隅でちんまりと正座していた菖蒲と目が合ったのでギョッとした。
「あ……えっと」
「……どうも」
流石に正座しているこの人が誰なのかは察したようで、ぎこちなく帽子を脱いでぺこりと頭を下げる。
ガラスのコップに麦茶を入れてキッチンから戻った美咲は「あー」と目線を泳がせながら、一応紹介しておくことにした。
「えーっと、こっちが桜でこっちが菖蒲」
適当極まりない紹介だが、元々紹介するまでもないだろう。二人は過去に何度か話したことがあるはずだ。
もっとも、桜が金髪に染めてピアスを開けてからは一度もないだろうが。
「まぁ座りなよ」
「……うん」
ぼうっと突っ立っていた桜を座らせ、折り畳みテーブルを三人で囲む形になる。
何とも奇妙な光景だ。会話は無く、エアコンの稼動音と蝉の鳴き声だけがその場を満たしていた。
続く沈黙。
「……」
今回は桜が希望してこの家へ来ることになったのだが、美咲は早くも後悔し始めていた。いくら菖蒲を追い出すのが気が引けたとはいえ、この二人を一緒にするべきでは無かったのだ。どす黒い何かが見える錯覚に陥るほどに、重い空気がこの空間にのしかかっている。
桜は普段から西校の他の生徒同様、東高の生徒を面白く思っていない。それに加えて菖蒲は、美咲が普段から散々に愚痴を漏らしている姉だ。
ただでさえツリ目がちの目が、更に鋭く菖蒲を捉えている。菖蒲は膝に手を乗せたまますっかり縮んでしまっていた。
「何かお菓子でも出すね?」
空気の重さに耐えられなくなったのか、菖蒲がそそくさと立ち上がってキッチンへと向かう。するとようやく桜は、彼女に聞こえないように小さく言葉を発した。
「聞いてないんだけど」
「マジでごめんって。色々あってさー」
両手を合わせ、頭を下げる美咲。桜は頬杖をつくと、ぷいと目線を逸らす。
「別に怒ってるわけではないよ……まぁ、仕方ないだろうし」
でも、と繋いで顔を上げる。
「ちゃんと前もって言って欲しかったな」
「……ごめん」
今回ばかりは事前に菖蒲も部屋にいることを知らせておかなかった自分の責任だ。珍しく真剣に謝る。
「これ良かったらどうぞ……」
その時、何やら戸棚を漁っていた菖蒲が戻って来て、花柄の箱をテーブルに乗せた。
開いてみると、中に入っていたのは数種類のクッキーだった。そういえば引越し祝いに叔母さんが持って来てそのままだったなとぼんやり思い出す。美咲はそれを適当に掴むと、封を破いて口に運ぶ。あまり特徴の無い、スーパーで売っているようなごく普通のクッキーだ。
「……なんか、いい家だね」
同じようにクッキーを一口囓った桜が、部屋の中を見渡しつつそんな感想を述べる。どう考えてもお世辞なので、美咲は「ありがと」とだけ返した。
そして再び部屋に沈黙が落ちる。
時計の針が、いやに大きく聞こえていた。
「あの、桜ちゃん」
数分経った時、桜はふいに菖蒲から名前を呼ばれて目を丸くした。美咲もいったい何を言うつもりなんだと表情が厳しくなる。
桜に余計なことは言わないでくれ。そう心の中で願っていると菖蒲は肩を縮め、視線を膝に落としながら、
「いつも美咲ちゃんと仲良くしてくれて……ありがとね?」
なにそれ。
ぎゅっと、スカートの裾を掴む。
いきなり姉面するな。美咲は菖蒲にそう言ってやりたかったが、桜の手前じっと顔を伏せて堪える。目の前で姉妹喧嘩をおっぱじめるわけにもいかない。
「……仲良くしてもらってるのは、私の方ですから」
桜も桜で、そんな言葉を返す。仲良くしてあげてるとかしてもらってるとか、そんな意識は美咲に無い。ただ友達だから一緒にいるというだけなのに。
やっぱり、会わせるんじゃなかった。
家庭での自分と外の自分が混ざり合っていくような感覚。それが堪らなく気持ちが悪い。
「……桜、ご飯食べに行かない?」
美咲は声のトーンを落とし、顔を伏せたままそう提案する。
「え、でもまだ来たばっか」
「いいから」
二人の顔を見ないまま立ち上がり、部屋の壁に掛けられていた鞄を掴んだ。そのまま部屋を出て行ってしまう。
残された二人はバタンと乱暴に閉じられた玄関のドアを見つめたまま、何も言えなかった。
暫くの間が空いて、桜は何とか立ち上がると、「お邪魔しました」と菖蒲に会釈して美咲を追った。
アスファルトに照りつける日差しに、美咲は目を細めて舌打ちを鳴らす。
「怒ってる?」
「別に。元はと言えばあたしの所為だし」
アパート前の路地で彼女に追いついた桜は、恐る恐るというふうに美咲の顔を覗き込んで訊いた。その顔は不機嫌そうに眉が曲げられている。
「怒ってるじゃん……」
別に桜に怒っているわけではない。ただ何となく、菖蒲に今更姉面されると腹が立つだけだ。
「……まぁ、予想よりいい人には見えたけどね」
「どこが?」
突然、桜がそんなことを言い出したので再び怒りが戻ってくる。睨まれた桜は取り繕うように、慌てて言葉を続けた。
「あ、いや美咲がお姉さんのこと嫌ってるのは知ってるけどさ……私が見た限りだと、そんな悪い人に見えなかったというか……」
「……桜は知らないだけだよ」
桜はまだほんの少し話しただけで、菖蒲のことを知らな過ぎる。
菖蒲には気に食わないところがいくつもあるのだ。
そう、いくつも。
「美咲?」
ふいに足を止めた美咲の背中に、桜は怪訝そうに声をかける。
「あ、いや何でもない」
一瞬、何かが胸の中で引っかかった。
だがすぐに考えることを止める。これ以上考えると、更に分からなくなりような予感があった。
少し、悪い事をしたかもしれない。
最近になって感じることの増えたその思いが、またも彼女を苛む。