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咲いた花、咲かなかった花

 朝、早起きをして、郵便受けを確認する。

 スーパーのチラシだけを抜き出してまとめておく。数日に跨って安売りするパターンが多いため、必然的にチェックする回数が多くなるチラシは、別個に分けておいたほうが効率的だからだ。

 分け終わった後は、複数のチラシの中から安いものだけに丸をつけていく。

 最後に、丸のついた品をメモに書き出してから、朝食の支度を始める。

 これが、親がいなくなった後の菖蒲の休日の始まり方だった。

 菖蒲は朝に弱く、起きてからしばらくしないと朝食を摂ることができない体質だった。

 母親が同じような体質だったため、恐らく遺伝的なものだろう。そのため、昔は朝食はみんなバラバラに食べていた。健康的な父や妹が羨ましいと思ったことも度々あった。

 菖蒲が朝食を作ってからしばらくすると、美咲が起きてきて、一緒に朝食を食べる。朝食の間はあまり良い雰囲気とは言えないが、前と違い、誰かと一緒に朝食を食べるこの時間は、菖蒲にとって少しだけ楽しい一時だった。




 夏休みの真っ只中である今日もまた、規則的な休日の日程が始まるはずだった。

 菖蒲が目を覚ますと、部屋の温度が異様に暑く感じた。部屋にはエアコンが備わっているが、節約のため、使うことは少ない。

 二人の間で、熱帯夜などで寝苦しいときだけ、タイマー設定で一時間だけつけてもいい、というルールがいつの間にか出来ていた。翌日の朝は密室の空間で地獄のような暑さが待っているのがお約束だったが。

 しかし、昨日の夜は比較的涼しかったため、窓を少しだけ開けて眠りについた。部屋の中が密室サウナ状態になっているはずはなかった。

 次に郵便受けを確認しようと立ち上がった菖蒲を、激しい頭痛が襲った。


「風邪……かな……」


 視界が一瞬白く塗りつぶされる。思わず壁に手をついて、目をぎゅっと閉じる。

 深い呼吸をしながら痛みを紛らわせつつ、郵便受けまでゆっくりと歩く。

 チラシをとって振り返ると、一気に菖蒲の足から力が抜けた。床に体が叩きつけられ、大きな音を立てる。立ち上がろうとしても、体に力が入らない。


「あれ……おかしいな……」


 体の中に加湿器でも入ってるのではないかと思う程に体が異様に熱い。頭の中は(もや)がかかった様になり、定期的に激しい痛みが襲ってくる。薬を探すために、立ち上がろうとしても足が少しだけ動くだけだった。

 このまま死ぬかもしれない。そんな考えが頭をよぎるが、朦朧とした頭がそれすらを奪っていく。

 次第に目の前が暗くなり、菖蒲は床に倒れたまま、意識を失った。






 顔に冷たいものが触れる感覚で、菖蒲は目を覚ました。

 いつの間にか、菖蒲の体は布団の中にすっぽりと収まっており、頭を動かすと氷枕がカラカラと音を立てる。

 視界も思考もぼんやりとしていて、何か考えようとすると、すかさず頭痛が襲ってきた。

 薬を飲まなきゃ、と起き上がろうとするが、肩に誰かの手をかけられ、布団に引き倒される。


「まだ寝てなよ。あ、薬。これ飲んで。」


 声が聞こえる。聞こえるが、誰の声なのか頭が認識できていない。

 今度は肩に逆方向の力をかけられ、上半身だけを起こす。そのまま流れるように薬を飲み、再び布団に倒される。


「お母さん……?」


 反射的に、そう呼んでいた。

 病気の時につきっきりで看病をしてくれるのは、いつも母だったから。

 声の主はしばらく黙っていたが、


「もう少し寝てなさい。あやめ」


 と、呼びかけると、冷たいタオルで菖蒲の目を覆った。目の前が真っ暗になり、側にいる人物の姿もわからない。

 身体の熱は相も変わらず、菖蒲の感覚を甚振いたぶっていたが、冷たいタオルは熱くなった目にとても心地よく、菖蒲は睡魔に導かれるように、ゆっくりと眠りについた。



 次に菖蒲が目を覚ました時、辺りはすっかりと暗くなっていた。部屋の照明も消えたままだが、菖蒲のいる場所はうっすらと照らされている。

 光源を目で追うと、キッチンスペースの照明であろう事が分かった。しかし、その照明は戦時中のもの、という表現が似合うような、何かで照明の周りを囲み、明かりが必要以上に広がらないような工夫がなされていた。

 キッチンスペースには誰もいなかったが、コンロには火がかかっており、その上では鍋がふつふつと音を立てていた。

 菖蒲は時間を確認するために、身体を起こそうとしたが、病気の時特有の倦怠感が邪魔をして、布団の中で寝返りを打つだけに終わった。

 しばらく時間が経ち、菖蒲がうとうとと微睡まどろんで来たところに、玄関の扉を開ける音が聞こえた。

 再び寝返りを打つ。家に入ってきたのは美咲だった。片手にビニール袋を下げている。


「起きてたんだ。……これ、スポーツドリンクとかゼリーとか。しっかり食べれるならお粥もあるから。」


 部屋の隅に寄せてあった折りたたみテーブルの上に、買ってきた品々を載せていく美咲。袋は近所にあるコンビニのものだった。


「美咲ちゃん……お鍋に火をかけたまま出掛けちゃダメだよ……」


 本来なら一言目に礼を言うべき場面であろうが、菖蒲のいつもの癖で、つい小言がでてしまった。

 美咲はしばし何か言いたげな表情をしていたが、


「……ごめん。」


 と呟くと、キッチンの火を止めに行った。

 こういう面倒くさいところが、きっと美咲ちゃんに嫌われちゃうんだろうな、と菖蒲は自分の行動を少し反省する。


「で、お粥食べるの?やめとくの?」


 部屋の明かりをつけながら、美咲が呼びかける。

 正直、菖蒲はまだ体調が優れてはいなかったので、食事は食べやすいものが好ましかった。

 しかし、美咲の折角の気遣いを無下に断るのも心が痛むため、少しだけ食べることにした。



 美咲の粥はとても優しい味がした。

 重すぎず軽すぎず、病気で弱った菖蒲の身体に心地よく沁みていく。身体の底からじわりと温まり、全身に力が戻っていく感覚がした。


「美味しい……」


 菖蒲の素直な感想に、側にいた美咲は、そっか、とだけ返す。いつも通りの反応だが、その表情は心なしか、少しだけ嬉しそうに見えた。



「ご馳走様でした。」

 菖蒲が小さな器に盛られた粥を食べ終えると、器を下げようとする菖蒲を布団に押し倒し、美咲がさっさと片付けを始めた。


「もうだいぶ良くなったから、大丈夫だよ?」


 菖蒲が布団から呼びかけるが、


「また倒れられたら困るのあたしだから。大人しく寝てて。」


 といつもの口調で話す美咲。菖蒲は言われた通り、布団に寝転がると、「ありがとう」と呟いた。

 美咲にその言葉が届いたのかはわからなかった。



「それじゃ、あたし出掛けるから。」


 食事の片付けを済ました美咲は、机を部屋の隅に寄せながら言った。


「え、これから出かけるの?……もう七時だけど……」


 菖蒲が壁の時計を確認すると、時刻は午後七時を過ぎていた。


「友達と遊びにいくから。鍵は閉めてくから寝てていいよ。」


「分かった……気をつけてね。」


 美咲は菖蒲の言葉が終わる前に、部屋の明かりを消すと、さっさと出て行ってしまった。

 珍しく姉妹間で会話があった部屋に、再び静寂が訪れる。壁掛け時計の音がやけに大きく聞こえる。


 自分が病気になるのは珍しいことではなかった。生まれつき身体が弱いことに加え、外で運動するよりも室内で本を読んでいた方が好きな性格だったから、なおさら抵抗力が弱く育ったのだろう。

 まだ両親が生きていた頃は、菖蒲が病気になると母は仕事を休んで、つきっきりで看病してくれた。父はなるべく早くに仕事を切り上げて、ゼリーやプリンを買ってきてくれた。菖蒲が病気になった時は嫌という程に甘やかしてくれた。

 菖蒲が病気になった時は。


「美咲ちゃん……」


 いつ頃からだっただろうか。両親が菖蒲と美咲で接し方を変えたのは。

 小学生の低学年だった時は、菖蒲も美咲も、同じくらいに愛されていた、筈だった。

 それから友達が沢山いて、いつも一緒に遊んでいた美咲は、少しづつ成績が落ちていった。

 菖蒲は病弱な体質と、引きこもりがちな性格であったから、ただ単に友達ができなかった。遊ぶ時間も少なかったから、成績はいつも上の方だった。

 その頃から、両親は「いい子ちゃんな菖蒲」を可愛がり、「出来ない美咲」に対して厳しく当たり始めた。

 美咲が成績の所為で怒られる時は、必ず姉の菖蒲が引き合いに出された。

 お姉ちゃんはこんなにできるのに、どうしてお前はそんなに頭が悪いんだ、と。

 別段、美咲が特別にできなかったわけではなかった。成績が落ちていった、とは言っても、平均よりは上であったし、学校側からの評価も悪くはなかった。

 しかし、両親は姉が出来ることを妹が出来ない筈がない、と「出来ない美咲」を叱りつけた。

 それから中学校に入学し、美咲は前までしていた勉強をしなくなった。どうやっても姉に追いつくことはできなかったから。やっても無意味ならやらないで遊んでいる方がいい。そう考えたのだった。

 成績は下降の一方で、平均より上だった筈の成績は平均よりも下の部類に入った。

 当然、そんな美咲に対する親の風当たりは、前よりも強いものとなり、成績のこと以外にも口を出すようになった。反面、「いい子ちゃんの菖蒲」に対する可愛がりは、より強くなっていった。


「私が友達を作るのが上手だったら……よかったんだよね……きっと。」


 きっと自分が美咲と同じように、友達を作り、一緒に遊び、適度に勉強をしていれば、美咲も同じように両親に愛されたのだろう。


「それで……私が事故なんかに遭わなければ……」


 頬を熱いものが流れ落ちる。伝った後は焼けるように熱く、突き刺すような痛みが残った。

 きっとこれは、後悔の涙だ。

 一人の人間の、一人の妹の人生を駄目にした姉が感じる後悔の涙。それは止め処なく溢れ、留まるところを知らない。


 また泣いている、と気づく。


「これじゃ……だめだ……」


 布団から起き上がり、タオルを探しに行く。その途中、机の上にある物を見つけた。


「これ……美咲ちゃんの携帯……?お財布も……」


 美咲は友達と遊びにいくと言っていた。それなのに携帯と財布を置いていくとは考えにくい。

 それに、鍵はしっかり持っていっているのに、携帯と財布だけ都合よく忘れるなんてありえない。つまり、


「……」


 美咲は気を遣ったのだ。病気である自分の姉に。姉がしっかりと眠れるように。

 ワンルームである部屋の電気を点けずに、なおかつ菖蒲に気を遣わせないように。

 きっと帰ってくる時も、音を立てずに帰ってくるのだろう。そして次の日にいつも通りの顔で接するのだろう。


「『出来ない美咲』なんて……いないのに……」


 菖蒲は再び泣いた。

 それは哀しみの涙だった。


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