その痛み
「あ、いたいた」
午前十時。美咲が駅の改札前で退屈凌ぎにスマホを弄っていると、そんな声が聞こえたので顔を上げる。桜がこちらへ足早に向かって来ているのが見えた。
今日の桜は半袖の白ブラウスにデニムのショートパンツという装いだ。夏休みに入って染め直したのか、より一層派手な金髪ショートが目立っている。耳にはピアスが揺れていた。
「えーっと、久しぶり?」
何と声をかけようか迷ったが、まずはそう切り出してみる。桜も「久しぶり」と返してから、まじまじと美咲を見つめた。
「何か、あんまり変わってないね」
「そう?」
確かに、最近髪を染めていないので黒が混じりかけてはいるがその程度の変化である。髪はアイロンで巻いているしピアスもしている。化粧も相変わらずだ。
「もしかして、あたしが清楚系になってるとか思ってた?」
「いや、さすがにそれはないけど……何でもない。忘れて」
桜が何を言おうとしたのか美咲には何となく想像がついた。まだ両親がいなくなって間も無い美咲が、少しは派手さを謹んでいるものだと思っていたのだろう。
普通ならそんなものかな、とは思う。だが、理解はできなかった。
引越しから数日が経ち、ようやく荷物も片付け終えて落ち着いた頃。美咲は予め約束していたように、桜と共に遊びに出てきていた。
本来ならば他の友人たちも来る予定だったのだが、彼女達は数日前に泊まりがけで一人の親戚が経営している海の家へアルバイトに行ってしまったらしい。美咲も一応声をかけられたが、流石に行くわけにはいかないので断ってしまった。
「てかさー、桜はなんで行かなかったの?」
美咲は歩きながら、ふと気になって尋ねてみる。桜は「うーん」と一瞬考えた後、
「それはまぁ、引っ越しが終わったら美咲と遊ぶって約束してたし」
「……律儀だねぇ」
思えば、桜には昔からこういうところがあった。一度した約束は––––美咲が忘れていたとしても––––確実に守ろうとするのが桜だ。その度に美咲は少し申し訳ない気持ちになってしまう。
変に真面目なのだ。そのくせ、テストの点数は美咲と大差ない。
「で、どうなの? 新居の生活は」
「うっ……」
今度は桜から質問を返され、美咲は露骨に目を逸らした。
「その、なんかヤバいっていうか」
ワンルームのアパートに引っ越してから数日が経ち、美咲は早くもギブアップしかけていた。
今まで会話も稀なほどに距離の開いていた姉妹だ。急に生活空間が一緒になってしまったことで、その気まずさは想像を絶していた。以前は一日の中で食事の時しか顔を合わせないのも珍しくなかったのに、今は朝起きて寝るまで常に同じ部屋。これなら家賃が高くても2Kの部屋にすれば良かったと後悔している。
「あー……なんか察した」
二人の不仲を知っている桜はそれ以上何も言わなかった。
彼女たちが訪れたのは県内で有数の規模を誇るショッピングセンター。有名ブランドや人気の飲食店も数多く出店している、中高生にも人気のスポットだ。今は夏休み期間ということもあり、県の内外から多くの人が集まり、かなりの賑わいを見せていた。
ゲートから入って南館と北館の間を通る道は、建物や中央に植えられた木々によって日陰が作られてはいるものの蒸し暑い空気が立ち込めている。美咲は額に流れる汗を手の甲で拭った。
「あっつー!」
今度は胸元をパタパタさせて風を送る彼女を桜が「みっともないよ」と小声で諭す。
「早くどっか入ろ!」
どこから回るかは決めていなかったが、とりあえず涼しさを求めて建物内に逃げ込んだ。
「桜ー! どうよコレ」
フリルのついた花柄ワンピースを身体に当てた美咲が嬉しそうに桜を呼ぶ。背中と肩が大きく露出するデザインだ。
それを見た桜は「うーん」と腕を組んで眉根を寄せた。
「美咲はさ、ちょっとは他人の目を気にしたほうがいいと思う」
「えー」
不満げに唇を尖らせる美咲。名残惜しげに服に付いているタグを確認し、「高っ!」手のひらを返したように素早くハンガーラックに戻した。
ただでさえ保険金と慰謝料で生活している身だ。洋服にあまりお金はかけられない。それが美咲にとって一番辛いところでもあった。
「……早くバイト探さないとなー」
遊ぶ金の為だけでなく、今後の生活のことを考えるとアルバイトは必須だ。面倒くさがりな彼女には考えるだけで憂鬱であったが、背に腹は変えられない。
「美咲がバイトって想像つかない……どこでやるつもりなの?」
桜がワゴンの中を漁りながら尋ねる。
「んー、まぁ無難にコンビニとかそんな感じ?」
確か家の近くにコンビニがあったはずだ、と思い出す。学校の近くにもあるが、真面目に働いている姿を友人達に見られるのは気恥ずかしかった。そんなキャラではないのだ。
今、海の家で働いているであろう友人達を想像してみる。普段はこの間遊んだ男がどうだといった話で盛り上がっている彼女達が真面目に働いているイメージがあまり浮かばない。
「……美咲らしいね」
桜は何やら納得した様子だが、美咲は何を納得されたのかさっぱりだった。そんなにコンビニで働いている姿が似合っているだろうか。自分が白と青の縦縞ユニフォームを着てレジに立っている姿を想像する。なるほど分からない。
「いやイミ分かんないし!」
「ところで小腹空かない?」
しかし、ワゴンの中を一通り確認し終えた桜にさらっと話題を変えられてしまう。美咲はぐぬぬと下唇を噛みつつも、小腹が空いているのは本当だったので「うん」と頷いた。すると桜は小さく微笑んで、
「最近話題のパンケーキ屋がオープンしたんだって。行ってみようよ」
「……パンケーキ!」
甘いものに目がない美咲は一瞬で表情を輝かせる。それを見た桜も嬉しげな表情だった。
「なにこれマジやばいんだけど!」
店の外に伸びる行列に並んで、ようやく噂のパンケーキと対面した美咲は感嘆の声を上げた。
パンケーキの上に苺や粉砂糖が散りばめられ、そして中央にはホイップクリームがこれでもかと山のように乗っている。テレビや雑誌で写真を見たことはあったが、実物を見るのはこれが初めてだ。
興奮してスマホで写メを撮りまくる美咲とは対照的に、桜は口元を押さえて顔色を少し悪くしていた。
「まさかこれほどとは……」
「あれ? 甘いの苦手だったっけ?」
「いや、苦手ではないんだけど……」
一つずつ注文してしまったが、一人前にしては量が多いようにも見える。「余ったらあたし食べるから」と言いながらスマホを置くとメイプルシロップを大量にかけ、ようやくナイフとフォークを使ってパンケーキを口に運んだ。
「んーっ」
嬉しそうに目を細める美咲。桜も実際に口にすると「美味しいね」と表情が和らいだ。
「……で、どうなの?」
パンケーキを半分ほど食べ進めた時、ふいに桜がそんなことを言ったので美咲は手を止めて目を丸くした。
「なにが?」
「……いや、色々とあったじゃん。大丈夫なのかなって」
目を伏せる桜。そこでようやく美咲は両親の死のことを言われていると気がつき、一瞬表情を曇らせた。しかしすぐに引っ込めると、あははと肩を揺らして笑う。
「あたしは大丈夫だって、電話でも言ったっしょ? 桜は心配性だね〜」
「そう、だけどさ……今、お姉さんと二人暮らしっていうのも辛いんじゃないかなって。それにバイトとか始めたら更に負担になっちゃうんじゃないの?」
息を呑む美咲。
もしかしたら、桜は本気で私を心配して今日の約束をしたのかもしれない。
なら、その気持ちを無下にすることはできない。そっとナイフとフォークを置いて嘆息する。
「正直言って、姉と仲良くやっていける気はしないしバイトは憂鬱。両親が死んだってのもまだイマイチ実感ないし」
「……美咲」
両親の死。環境の変化。姉との関係。正直、愚痴りたいことなど山ほどある。しかし、姉の菖蒲は目に見えて落ち込んでおり、毎日両親の写真に手を合わせて祈るばかり。そんな彼女にこの本音を話すことはあまりに残酷だ。いくら仲が悪いと言ってもそれはできなかった。
「でもね」
そこで区切り、桜と目を合わせる。
「あたし、こんなんでへこたれるほど弱くないから」
しばらくの沈黙。店内の喧騒もまるで二人には聞こえていないようだった。
数秒後にどちらともなくぷっと吹き出し、その沈黙は破れた。
桜はやっと口元を緩め、どこか安心したような声で呟く。
「……美咲らしいよ、ほんと」
「ありがと」
美咲も得意げに笑って、それに応えた。
パンケーキを食べ終えた二人は、膨れたお腹と口の中の甘ったるさを抱えてショッピングセンター内を見て回った。美咲が気に入った洋服はどれもバイト代が入った後に回すことに決めたが、バイト代が入る頃には季節が変わってるねという桜の呟きで、どうやらそれも望めないことが判明した。
センター内のアミューズメント施設では二人でプリクラを撮り、UFOキャッチャーをし、カラオケで歌った。
そうしているうちに辺りは次第に暗くなりセンター内の人通りも徐々に減ってきたので、二人もここを出ることに決めた。
「んー! 遊んだ遊んだ!」
美咲がUFOキャッチャーの景品が入った袋を持ったまま、大きく伸びをする。桜も「楽しかったね」と微笑む。
「じゃあこれからどうする? ナンパ待ちでもする?」
「……帰らなくて大丈夫?」
美咲の発言は見事にスルーされ、桜がちらりと腕時計に目をやる。時計の針は六時半を指していた。家に着く頃には夕飯ができているだろうか。
「……えー、もうちょっと遊ぼうよー」
どうせ夕飯といってもぎこちない会話が時折交わされるだけの時間だ。それを思うと、外で食べて来た方がお互いにとっても良いように思える。それに食事代程度ならお小遣いから何とかなった。
「私は別にいつ帰ってもいいんだけど……ま、いっか」
桜は諦めたように言って、「この辺にファミレスとか……」とスマホを弄り始める。
その横顔を眺めながら、美咲は心の中で小さく謝った。
桜の家は放任主義らしく、美咲が誘うとどんなに遅い時間でも付き合ってくれる。だからつい、それに甘えてしまうのだ。
「……また補導されるのだけは勘弁だから、よろしくね?」
ジトッとした目付きで桜が念を押す。美咲は乾いた笑いで目を逸らした。
結局、ファミレスで食事をした後に公園で駄弁っていると桜の終電が近付いて来たので解散することになった。発見されて補導されなかったのは運が良かったとしか言えない。
つい話が盛り上がってしまったが、菖蒲には遅くなるという連絡すら入れていない。時計を見ると、普段の菖蒲ならとっくに眠っている時刻だ。
まぁ、どうせ待ってないでしょ。
そう自分を納得させて、帰り道を急ぐ。
「ただいま」
美咲が小声で言ってドアをそっと開けると、部屋の電気が点灯しているのが見えた。まだ起きてるのかと嘆息して、そっと後手に鍵をかける。
「……ん?」
顔を上げて、気がついた。
菖蒲は部屋の中央に置かれた折りたたみ式テーブルに突っ伏すようにして、すうすうと寝息を立てていた。彼女の前にはラップのされたハンバーグやサラダが並べられている。
「これって」
鞄を放り投げ、テーブルの横にしゃがむ。
「……もしかして、待ってたの?」
ポケットからスマホを取り出して確認すると、メッセージが一件だけ入っていた。
『気をつけて帰って来てね』
たったそれだけだった。美咲が今どこにいるのか問いかけるわけでもなく、早く帰って来いと急かすわけでもない。ただ、ご飯を作って美咲を待っていたのだ。そのうちに疲れて眠ってしまったのだろう。
「ん……美咲ちゃん?」
その時、菖蒲がゆっくりと起き上がり、寝ぼけ眼で美咲を見つめた。決まり悪そうに目を逸らして「うん」と短く返す美咲。
「あ……私寝ちゃってたんだ……ご飯、食べて来たの?」
「……うん」
「そうなんだ……あ、じゃあ冷蔵庫に入れないとね」
よいしょ、と立ち上がった菖蒲がふらつきながら皿を冷蔵庫に運ぶ。綺麗な黒髪に寝癖がついて、所々跳ねてしまっている。美咲はその後ろ姿をぼうっと見つめた。
両親が生きていた頃は、外で勝手に食べて帰ってくることなど日常茶飯事だった。そうしていても、何も言われることはなかった。
そして菖蒲も今、勝手に外で食べた美咲を責めることもなく寂しそうに笑うだけ。ご飯を一人で作り、美咲の帰りを待っていたというのに、注意してくることも無い。
「……なんなんだよ」
胸を刺す小さな痛み。
これはきっと、罪悪感だ。