菖蒲は思う
「本当に何から何まで、ありがとうございます。」
『いいのよそんなのぉ。かわいい我が子みたいなものなんだからぁ』
携帯の向こうで叔母さんがからからと笑う。
菖蒲の手元には大きめのメモ帳があり、開いているページは几帳面な文字でぎっしりと埋まっている。
美咲と二人で暮らすに当たって、アパートの契約の詳細やら注意事項やらを伝えるために、叔母さんが電話をかけてきたのだった。
『本当に菖蒲ちゃんはしっかりしてるわぁ。わからないことがあったらいつでも聞きに来ていいんだからね?まだ高校生なんだから。』
「はい。今後問題が出てきた際、質問させていただきます。ありがとうございました。」
菖蒲は携帯を持ったまま反射的に一礼すると、通話を切り、ふぅ、と深く溜息ををついた。
正直なところ、両親の死に加え、突然覚えなくてはならないことが山積みに出来てしまい、精神的な疲れが菖蒲に重くのしかかっていた。
「そろそろ出なきゃ……」
アパートの契約は今日からの予定で入れてある。今は午後三時を過ぎたところである。入居予定のアパートはここから近いとは言えないので、暗くなる前に到着するには、もうすぐ家を出なければならない。
家の家具は、殆どをリサイクルショップで売ってしまった。家族との思い出の品を売ってしまうのは心苦しかったが、これからはワンルームのアパート暮らしとなるため、持っていける家具は限られてしまう。故に断腸の思いでの判断だった。
家具の一切が無くなった家はとても広かった。それが、単に家具のスペースが空いた所為なのか、それとも家の住人が減った所為なのかはわからない。
「……美咲ちゃんを呼んで来なくちゃ。」
また自分が感傷的になっていることに気付き、菖蒲は頭を振って二階の美咲を呼びに行った。
『うん、うん、へぇ〜珍しい。……いやいや、あたしは桜とは違うからさ。』
美咲の部屋の前に来ると、いつも菖蒲と話す時の声色とは異なる美咲の声が聞こえてきた。どうやら友達と電話をしているようだった。
桜、というのは美咲の小学校からの友達だった気がする。菖蒲はクラスが違ったので、美咲の紹介で何回か話したことがある程度だったが、美咲は違うクラスの子ともすぐに仲良くなることができていた。
『……え?ああ、そうだよ。今日からアパート。ん?いや、これから行くとこ。うん。』
美咲は友達にも引越しの話をしていたようだった。普通はするのが当たり前かもしれないが、菖蒲は心の余裕がまだできていないため、親友であるカナにも引っ越す旨を伝えていなかった。
『じゃあ今度遊びにおいでよ。まぁすごい狭いらしいけども。うん。……面倒くさいとか言わないの。新居お披露目会ってことで。』
新居ではないんだけどな、と菖蒲は心の中で呟く。
これから移り住むアパートは出来てから結構年数が経過しているもので、お世辞にも綺麗とは言えない、多少の設備の不備は我慢してほしい、と叔母さんが言っていた。
元より安ければなんでもいい、というのが正直な感想であったので菖蒲は特に気にはしなかった。
しかし改めて考えてみると、今時の女子らしく、友達を家に集めて遊ぶといった事をする美咲にとって、住む家が狭い事は多少なりとも気になるかもしれない。
引っ越したらアルバイトを始めよう、少しでも広い部屋に住めるように、と菖蒲が考え込んでいると、電話を終えたらしい美咲が部屋から出てきて、目が合った。
「……何?」
明らかにムッとした表情を浮かべる美咲。菖蒲は少し俯き、小声で話す。
「美咲ちゃん、準備できたかなって……そろそろ出発しないと……」
「わかった。」
菖蒲の言葉を遮って、美咲は一階へ降りて行ってしまった。
菖蒲と美咲の仲は相変わらずだった。正確には美咲が菖蒲を一方的に嫌っていた。その理由を菖蒲は知っていたが、解決する術を菖蒲は持っていなかった。
「引っ越したら……少しでも仲良くなれれば、いいな……普通の姉妹みたいに、話をしたりできたら……」
思わず想いが口をついて出ていた。そしてまた、溜息。
美咲ちゃんの準備が終わるまで、自分の部屋にいよう。そう思い、自分の部屋に向かおうとした時、横目で覗いた美咲の部屋の中にある物を見つけた。それは、抱きしめるのに丁度いいサイズで、いつも菖蒲が辛くなった時に泣きつく物。いつだったか母親に買って貰った、お揃いのうさぎのぬいぐるみだった。
「まだ……持ってたんだね……」
単に捨てるタイミングを逃しただけかもしれないが、いつも何かと親に対して反抗的に振舞っていた妹の意外な一面を見れた気がして、菖蒲は少し嬉しかった。
ただ、部屋を覗いた時に他にも雑多な物品が散らばっていたので、もうしばらく出発する事は出来なそうだった。
菖蒲は、美咲ちゃんらしいな、と微笑むと、自分の部屋に入った。
菖蒲の部屋にはこれから持っていく鞄の他には、何もなかった。新しい生活に必要な物は全て前々から叔母さんの家に送っておいて、後日アパートに送り返してもらう予定だった。
たった一つ残っているカバンの中にも、生理用品や財布、保険証など、最低限の物しか入っていない。
「もうこの部屋ともお別れなんだなぁ……」
菖蒲は部屋の角に寄りかかって座ると、天井を見上げた。特に面白い物があるわけではなかったが、何もない天井を見ていると、今までこの家であった様々な思い出が脳裏に去来した。
一つ一つを思い出して懐かしんでいると、徐々に目蓋が重くなってきた。思えばここ数日、しっかりと睡眠をとっていなかった気がする。
「少しだけ……寝ちゃおうかな……」
菖蒲は膝を抱えたままの姿勢で目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
菖蒲が目を覚ましたのは僅か三十分後の事だった。
窓から差し込んだ西日が、菖蒲を照らした為、目を覚ましたのだろう。
短時間の睡眠ではあったが、菖蒲の頭の中はすっきりとしていて、心なしか身体も軽くなった気がした。
腕時計を見ると、四時過ぎを指している。流石にこれ以上遅くなると到着が夜になってしまう。
そう思った菖蒲は美咲の様子を見に行こうと、立ち上がった。
「準備できた」
そこへ丁度ドア越しに美咲の声が聞こえた。
「それじゃあ行こうか。」
菖蒲は部屋の中から返事をすると、鞄を持って、もう一度部屋を見渡し、
「行ってきます」
小声で挨拶をした。