お姉ちゃん
不幸な時に幸福だった時期を回想することほど悲しいものはない。
菖蒲は一人、自分の部屋の中で座り込んだまま、かつて読んだ本の言葉の意味を噛み締めていた。
陽はとうに沈んでいるが、部屋の電気は点いていない。窓から差し込む街灯の明かりが仄かに部屋に差し込む程度である。
もう何時間泣いたのかわからない。菖蒲の頭の中には泣いたってどうにもならない、こんな時だからこそ姉である自分がしっかりしなくては、といった冷静な考えがある。
しかし、涙を拭いて立ち上がろうとしても、頭の中に父や母との思い出が次々に蘇り、視界を滲ませる。思い出が心を抉り、また座り込む。
「おと……さ……おか……さん」
菖蒲は時折、咽せて咳き込みながら呟く。
ーーーお父さんとお母さんはもういないんだ。
自分自身に踏ん切りをつけるために、何度も心の中で繰り返す。その決意の文字さえ、鋭く心に突き刺さる。
菖蒲は近くにあったぬいぐるみを引き寄せ、抱きしめる。子供の頃にお母さんに買ってもらった、妹とお揃いのうさぎのぬいぐるみ。菖蒲は辛いことや苦しいことがあった時はいつも、このぬいぐるみを抱きしめることで乗り越えてきた。
「……お母さん」
菖蒲はぬいぐるみに顔を埋めて、泣いた。
ポケットの中で携帯が震える。取り出して画面を確認すると、カナからのメールだった。菖蒲の様子を心配したのか、体調を気遣う内容のメールだった。
受信時刻、午後11時。いつの間にか泣き疲れて寝てしまっていたようだった。
「何か……食べなくちゃ……」
食欲は湧かなかったが、カナのメールに後押しされ、機械的に立ち上がり、暗い部屋を出る。
妹の部屋のドアの下部の隙間から明かりが漏れ出していた。美咲はまだ眠っていないようだった。もしかしたら自分と同じように泣いているのかもしれない。
そのまま手すりに掴まりながら階段を降り、居間へと向かう。
居間の電気は点いているが、いつもならいるはずの二人の姿はない。枯れていた涙がまた溢れそうになるのを必死に堪えて、台所へ向かう。
台所の電気を点けると、冷蔵庫の扉にオレンジ色の付箋が貼ってあった。
そこにはなぐり書きとしか形容のしようがない文字で「夕飯余ったから始末しといて」と書かれていた。
冷蔵庫を開けると野菜炒めが一人分、皿に盛りつけてあった。きちんとラップもされている。
「美咲ちゃん……」
自分が泣いている間にも、妹はしっかりとこれからのことを考えている。
お父さんとお母さんはもういない。これからは自分達の力で生きていかなくてはならない。わかっていたつもりのことが、今になってより現実的な重みを持って菖蒲の心に響いた。
「もっと……しっかりしなくちゃ……」
菖蒲は一人、誰もいない台所で呟いた。
食欲は無かったはずなのに、美咲の作ってくれた野菜炒めは不思議と食べることができた。食事中であるのに、何故か涙が出ていることに気がつき、私はこんなに泣き虫だったっけ、と思い返す。
小学生の時に、クラスに意地悪な男の子がいて、よく泣かされてたっけ。それで泣いて帰ったら、次の日美咲ちゃんがその男の子を引っ叩いちゃったんだよね。こんなに昔から私は美咲ちゃんに助けられてたんだね。中学生の時も……
そこまで思い返して菖蒲は再び暗い気持ちになる。
中学生の時。事故。そして…
「…やめよう。気持ちが落ち込んでるから、こんなことばかり考えちゃうんだ。」
菖蒲は食べ終えた食器を片付けて、さて入浴しようとした時に今日は自分が風呂掃除の当番であったことを思い出した。
「本当にダメなお姉ちゃんだな、私は」
呟いて風呂場を覗くと、しっかりと掃除されている上に、すでにお湯が溜めてあった。
「本当にしっかりしてるなぁ、美咲ちゃんは」
菖蒲は風呂場の鏡で自分の顔を見る。目元が真っ赤に腫れていた。泣き虫な自分が嫌になる。
「明日からは……ちゃんとするから……しっかりお姉ちゃんするから……ありがとう、美咲ちゃん。」
菖蒲は鏡の前で呟いた。