その程度のもの
「……ただいま、っと」
陽は落ちて時刻は六時を回った頃。桜と別れた美咲は特に寄り道をすることもなく家まで帰ってきた。憂さ晴らしに適当な男でも引っ掛けようかと一瞬考えたが、制服だと色々と面倒なので仕方なく帰って来たのである。
この時間帯であればまだ共働きの両親は帰宅していない。姉の菖蒲は靴があるので帰宅しているのだろうが、それがまた彼女の機嫌を悪くしていた。さっき東高の生徒に笑われたこともあって尚更だ。
玄関から入って左手に位置するリビングの明かりが点いていないところを見ると、今は自分の部屋にいるのだろう。美咲はできる限り足音を殺して廊下を歩き、階段を上がる。
「……げっ」
階段を上って手前にあるのが菖蒲の部屋で、奥が美咲の部屋である。見ると菖蒲の部屋の扉が開けっ放しになっていた。自室に行くにはこの前を通るしかない。
面倒になった美咲は舌打ちし、諦めて普通に歩くことに決めた。「いい子ちゃん」な菖蒲はいつもこの時間は大抵机に向かっている。気付くな話しかけるなと心の中で念じながらドアの前を通り過ぎようとして。
「ん?」
チラリと部屋の中に目を向けてみると、菖蒲はベッドの上で制服のままうつ伏せに横たわっていた。呼吸と共に背中が上下している。
「珍しいこともあるもんだ」
普段ならばリビングのソファなどで自分が制服のまま寝ていると注意してくる菖蒲だ。カメラに納めてやろうかとスマホを取り出してみたが、馬鹿らしいので止める。
「ふー」
美咲は部屋に入ると後ろ手に鍵を閉めて、ベッドの上に鞄を放り投げる。ついでにさっき取り出したスマホの画面を確認してみると、「げっ」平井剛からの着信通知で埋まっていた。学校で音が鳴ると面倒なので着信音やバイブレーションを全て切っていたことを忘れていた。
スワイプしてみると、その下からは言い訳めいたメールやだんだん腹が立ってきたのか脅迫めいたメールまで出て来る。
見なかったことにして電源を切り、ベッドの上にダイブ。こんなことは今までに何度か経験している。大抵の場合は何日かすれば治り、いつの間にか相手の男は別の女を見つけていた。今回であれば平井剛は何事も無かったかのようにマネージャーと付き合い出すことだろう。
「……所詮そんなもんだよね」
付き合う前や付き合っている時は、綺麗事のような文句を散々並べられた。自分もそれに「嬉しい」や「好き」などと返してあげていたものだ。それは半分本当であり、半分は嘘。
イケメンは嫌いじゃない。付き合っている時はそれなりに相手のことは好きでいるつもりだ。そうでなければわざわざ彼氏など作っていない。
しかし美咲は、自分の「好き」の対象はあくまでも相手の顔やステータスであることにも気付いている。そんな「優れている」相手と付き合うことが、自分のステータスにもなる。それは相手も同じこと。
他人に認められたい、顔の良い相手と付き合いたい、そんな欲求をお互いに満たすために付き合っているに過ぎないのだ。
そこに愛など存在しない。
「––––ゃん! 美咲ちゃん!!」
いつの間にか眠っていたらしい。美咲は誰かが名前を呼ぶ声で目を覚ました。
寝ぼけ眼を擦り、時計を見上げる。時計の針は七時半を指していた。
「美咲ちゃん!」
そして、部屋の扉を叩く音と菖蒲の声。美咲は苛立って髪を右手でかき乱しながら、「うるっさいなぁ」とベッドを降りてドアへ向かう。
どうせ晩御飯だから降りて来いってことだろう。そんなことを思いながら乱暴にドアを開く。
「うるさい! 今行くから!」
「み、美咲ちゃん……」
しかし、ドアの前にいた菖蒲は美咲の想像とは全く異なっていた。
弱々しく身体を縮め、抱えるように電話の子機を両手で持って小さく震えている。涙に潤んだ両眼が、見開かれたまま自分を見つめていた。
「ちょ、な、なに?」
流石に姉の様子がおかしいと気がついた美咲は、一歩後ずさる。こんな状態の菖蒲を見るのはいつぶりだろうか。驚きと、悪い予感に背筋が凍りつく。
菖蒲は震える唇を動かして、掠れて消えてしまいそうなほどの声を絞り出した。
「お、お父さんと……お母さんが……」
「……どうしたって?」
黙り込む菖蒲。美咲は息を飲んで次の言葉を待つことしか出来ない。
長い沈黙の後、菖蒲は漸く口を開き。
「お父さんとお母さんが……トラックに轢かれたって––––」