藍川菖蒲
夏。とある高校の図書室。その端の本棚に囲まれた場所に申し訳程度に設置してある読書スペースに、一人の少女が座っている。髪を緩く三つ編みにして、肩から垂らした、よく言えば真面目、悪く言えば野暮ったい風貌の少女だ。
少女は夏だというのにふわふわの膝掛けをかけて、黙々と本を読んでいる。
恐らく、冷房の風が直接当たる位置にいるので、その対策なのだろう。少女の肌は透き通るように白いが、その白さがもともとのものであるのか、冷房によって過冷却された故であるのかはわからない。
初夏の日差しはカーテンによって遮断され、部屋の中は蛍光灯の人工的な明るさで照らされている。
他に人もおらず、図書室の中は整理整頓が行き届いているにも関わらず、少し寂れた様子さえ感じる。時折、少女が夏服から露出している腕をこすり合わせる音が図書室の中での唯一の音源だ。
「あやめー」
突然、図書室のドアが開き、ショートカットの少女が入ってきた。
菖蒲と呼ばれた少女は読んでいた本を閉じ、小声で話す。
「委員会、お疲れ様、カナ。でも、図書室では、静かに、ね?」
「ごめんごめん、ってあやめ!? 身体、超冷たいんだけど! ダメだよ身体冷やしちゃ! 早く出よ!」
カナと呼ばれたショートカットの少女は菖蒲の腕をペタペタと触りながら慌てた様子で言う。しかし、
「私は、大丈夫だよ。それよりカナ、暑かったでしょう。教室に冷房ないものね。少し涼んでいったら?」
と、菖蒲は平気な様子で返す。
「大丈夫じゃないって。これ以上ここにいたらあやめが風邪引いちゃうよ。ほら、いこ」
カナは菖蒲を、半ば引きずるようにして、図書室を出た。
「暑いね。水分補給、忘れちゃダメだよ? 熱中症とか危ないから」
「具合とか悪くない? 委員会長かったんでしょ?」
帰宅途中の菖蒲はカナの具合を気遣っているのか、しきりにカナに話しかける。しかし、
「あやめの方こそ大丈夫? 足元、ふらふらしてるけど……」
平気の平左の様子で歩くカナとは対照的に、菖蒲は気温差に耐えられていないのか、どこか危ない歩き方である。しばらく連れ立って歩いていたが、見かねたカナが声をかけた。
「やっぱりあやめ危ないから、家までおぶってあげる」
カナは菖蒲の前にかがんで、ほら、と催促するが、
「ダメだよ、また美咲ちゃんに怒られちゃうから……」
と菖蒲はおどおどした様子で立ちすくむ。
「倒れられたら私が怒るよっ……と」
カナは菖蒲をひょい、と背中に乗せると、そのまま歩き出した。
「ごめんね、大丈夫?重くない?」
菖蒲は誰かに迷惑をかけるのが余程申し訳ないのか、沈んだ口調で聞く。
「何を今更。こんなの小学校の頃から慣れっこですよー」
軽い口調でカナは歩みを進めるが、内心はあることを気にかけていた。
藍川菖蒲は子供の頃から虚弱だった。ちょっとしたことですぐに具合が悪くなり、倒れてしまう。
しかし、小学校の頃から菖蒲を知っているカナは、菖蒲の身体の弱さではなく、別の心配をしていた。
『美咲ちゃんに怒られちゃうから』
このフレーズを今までに何回聞いただろう。
美咲、というのは菖蒲の妹の名前だ。妹といっても双子であるので同い年。形式的には菖蒲が姉。
菖蒲は、変わってしまった。中学二年生の夏を境にして。それまでは、菖蒲はもっと……。
「ねぇ、あやめ」
「うん? どうしたの?」
一体中学二年生の夏に何があったの、カナは本当はそう続けたかった。一体何が菖蒲を変えてしまったの、と。
彼女の知っている藍川菖蒲は、誰にでも優しくて、男子からも女子からも人気で、恥ずかしがり屋なのにダンスが上手で……。
違う。変わったのはそんなところじゃない。そうじゃない。菖蒲は……。
菖蒲は、自分をなくしてしまったんだ。中学二年生の夏を境にして。いってしまえば、作り物の藍川菖蒲。今の菖蒲は自分のために生きるのではなく、誰かのためーーー妹のために、生きている。
「妹とは、上手くいってる?」
カナは自分が聞ける範囲の精一杯の質問をした。
菖蒲は今まで、親友であるカナにはどんな話でもしてきた。楽しかったこと、悲しかったこと、将来の夢……。
でも、今の菖蒲は、カナにも話さない秘密がある。きっとそれは親友であっても話せはしないことなのだろう。そう思って。
菖蒲はしばらく押し黙った後、あんまり、とだけ言った。
「着いたよ、歩ける? 鍵貸してもらえれば、ベッドまで運ぶよ?」
10分歩いたかどうか、といったところで菖蒲の家の前に着いた。
「ううん、大丈夫。ここまで送ってくれてありがとう」
菖蒲の調子はまだ優れない様だが、あまり世話を焼きすぎると、菖蒲の自尊心を傷つけてしまうと考えたカナは、それじゃ、また明日ね、とだけ言い残して帰っていった。
菖蒲はカナを見送ってから自室に戻り、制服も着替えずにそのまま、ベッドに倒れる様に眠った。