熱に浮かされたように
目が覚めるといつの間にか放課後だった。
斜陽の差し込む教室に、美咲は一人で座っている。寝ぼけ眼でそれを確認すると深い溜息を吐いた。まさか誰も起こしてくれないなんて。開いた窓からは野球部の威勢の良い声が聞こえてくる。
そういえばいつもは起こしてくれる桜が学校を休んでいたのだった。彼女はここ数週間ほど休みがちになっている。理由を尋ねても誤魔化しのような答えが返ってくるばかりで、本当のことを話そうとはしない。
自分だけで悩みを抱えようとするのは桜の悪い癖だ。だからこそ美咲は彼女が心配だった。
「……そうだ」
軽い鞄を肩に掛けて立ち上がる。
桜が学校に来ないのならば、こっちから会いに行けば良い。昔から何度も行ったことがあるので、場所は完璧に把握している。玄関まで押しかければ入れてくれる気もした。
足早に教室を出て昇降口に向かう。その途中で「今日は遅くなるかも」と姉にメールを打つ。連絡しないと、あの姉はいつまでも待ちかねない。余計な心配をかけないためにも必要な連絡だ。前まではこんな当然のことすらできていなかったのか、と自分で自分に呆れながら、スマホを胸ポケットにしまった。
野球部が駆け回る校庭を横目に見ながら、駅に向けて歩き出す。いつもは隣にいる桜がいないだけで、軽い喪失感を感じてしまう。ここ数週間は通学も下校もつまらなくて仕方がない。
歩きながら、意識は次第に過去へと向けられる。
桜と初めて知り合ったのは小学五年生の頃。クラス替えでたまたま隣の席になったのがきっかけだ。当然、彼女はまだ金髪ではなくて、目立たない大人しそうな子という印象だった。休み時間には俯きがちに座って、ぼんやりしているタイプの女の子。
今になって思うと、当時の桜はなんとなく雰囲気が菖蒲と似ていた。だからこそ放っておけなかったのかもしれない。美咲から声をかけて、二人は友達になった。そうして仲良くなってからは、桜は常に美咲の後ろを付いて回るようになった。
他クラスの友達と話している場面も見たことはあるが、それも次第に少なくなり、そんな彼女を心配に思う部分もあった。しかし懐かれているのは悪い気はしない。本人に言ったら「犬か何かみたいに言わないで」と怒られてしまったが。
あの頃の桜は可愛かった。いや今も可愛いが。
懐かしい気分に浸りながら、美咲は桜の家の目の前までやって来た。ここに来るのも久し振りだ。引っ越す前までは入り浸っていたが、最近は何かと忙しくて来る機会がなかった。
桜の家はモダンな雰囲気の二階建てで、庭には桜の木が植わっている。春になると毎年綺麗な花を咲かせるこの木は、桜が生まれて間もなく彼女の祖父が植えたものらしい。今は葉を茂らせている木を見上げながら、インターホンを鳴らす。
しばらく経っても返事はなく、もう一度鳴らしてみる。学校をサボって外で遊んでいるのだろうか。電話してみようかとスマホを取り出したとき、ようやくインターホンの向こうから桜の声がした。
『……美咲?』
カメラで見えているらしく、すぐに尋ねてくる。
「うん。上がってもいい?」
『ん……まぁ、いいけど』
案外あっさりと了承され、拍子抜けしてしまう。最悪の場合、押し入ってやろうと思っていたのに。
『少し待ってて』
インターホンが切れてしばらく待っていると、家の中から足音が近づいてきて、ドアがゆっくりと開いた。顔だけ覗かせた桜が言う。
「いいよ入って」
美咲は「おじゃまします」と家に入る。桜の他に家族がいる様子はない。彼女の家は共働きなので、両親はいつも夜遅くまで帰って来ないのだ。
休みがちになっている割には、桜は元気そうだった。ピアスを着けていない姿は少し新鮮だ。しかも上に大きめのTシャツを着ただけで、下には水色のパンツしか履いていない。呆れつつ注意する。
「……ズボンくらい履きなよ」
「美咲になら見られても別にいいし」
いくら女同士とはいえ、少し目のやり場に困る。桜は時々美咲よりもだらしがない。
二階に上がり桜の部屋に入る。久し振りではあるが、部屋の様子は特に変わっていない。ベッドと勉強机と本棚があるだけの、殺風景な部屋だ。美咲はベッドに腰掛けて桜に話しかける。
「今日、どうして休んだの?」
「……なんか気分が乗らなくて」
また同じような返事。何度理由を尋ねても、桜は適当なことを言うだけだ。
今回こそはと、美咲は身を乗り出す。
「何かあったなら相談乗るよ?」
「別に何もないから」
桜は机の椅子に座り、首を横に振った。まるで何かを延々と悩み続けているような表情。彼女のこんな顔を見るのは数年ぶりだった。
「何もないわけ、ないでしょ」
美咲は真剣な声色で言う。
桜は一瞬表情を強張らせて、黙り込んでしまう。
風が強く吹いて窓を揺らす。
どこからか子供たちの騒ぐ声が聞こえてきた。
気まずい沈黙の末、桜はようやく口を開く。
「……美咲は、私のことどう思ってる?」
「え?」
予想外の質問に困惑する。どうして突然そんな話になるのだろう。
「どう思ってるって……親友だと思ってるよ」
それ以外の答えがあるだろうか。
どんな時でも美咲の側にいてくれた。学校中の誰もが美咲を嫌っても、桜だけは離れずにいてくれた。そんな彼女を親友と呼ばずして何と呼ぶ。
桜は椅子から立ち上がると、美咲の隣に腰掛けた。ベッドが沈み、軋んだ音を立てる。顔を近づけじっと見つめてくる彼女から、恥ずかしくなった美咲は顔を逸らす。なお
「どうしたの急に。何か変だよ」
「……確かに変かもしれない」
更に距離を詰めてくる桜に、美咲は少しずつ後ずさる。
いつもとは違う雰囲気。彼女はどこか熱に浮かされたような表情で見つめてくる。瞳は潤み、頬は朱色に染まっている。
シャンプーの匂いだろうか。どこか甘い匂いが桜から香り、頭がくらくらしてくる。
二人の手がそっと重なり、美咲はいよいよ彼女が正気でないことを察した。
「桜」
小さく諭すように名前を呼ぶと、桜はハッとしたよう動きを止めた。
「……ごめん」
ようやく離れた桜は、目線を逸らしながら呟いた。美咲は気まずそうに髪先を弄りながら、「別にいいよ」と返す。心臓が痛いくらいにドキドキしていた。あのまま、キスされるかと思ったから。
「何か悩んでるなら相談乗るから。私たち、親友でしょ?」
「……うん。話せる時が来たら、ちゃんと話すよ」
桜は立ち上がり、再び机の椅子に腰を下ろした。
あの日何があったのかは分からなかったが、いつか話すということは約束してくれたので、今日はこれで帰ることにした。あまり遅くなると菖蒲に心配をかけるかもしれないし、夕飯の支度もしないといけない。
玄関まで見送りに来た桜は、まだ気まずそうに目線を逸らしている。爪先で床をとんとんと叩き、暗い表情を浮かべていた。
「明日はちゃんと学校来なよ?」
「……頑張る」
最後に小さく笑みを浮かべて、桜は手を振った。美咲も手を上げて応えると家を出る。
帰り道、一人で歩きながら美咲は部屋で起きた出来事を思い返していた。
あの質問の意図はなんだろう。
あの時、どうしてあんなことをしたのだろう。
ずっと一緒にいたはずなのに、彼女の考えていることが分からない。もしかしたらこれまでも、彼女の気持ちなんて何も分かっていなかったのかもしれない。
「…………分かんないよ」
最近は色々ありすぎて、脳がパンクしてしまいそうだ。菖蒲と自分のことばかり考えていて、すぐ近くにいた彼女のことを気にかけることさえできなかった。
陽は徐々に傾き、街には宵闇が訪れようとしていた。