初秋の候
鏡に向かい合って何分経ったのか、とりあえず一般的な女子高生が朝の身だしなみの確認に要する時間はとっくに経過しているだろう。
今日は後期登校日初日。菖蒲は昔から長期休みの明けの日になると執拗に自分の姿を鏡で確認する。
「変じゃ、ないよね……」
三回ほど、自分自身にリテイクを出した後、鏡の中の自分に向かって再三問いかける。
「変じゃないよ……昔から本当にしょうがないんだから……」
三つ編みにした髪を再び解こうとした菖蒲に、菖蒲とは違う制服を着た美咲が呆れたように声をかける。
「だって久しぶりの学校だし……美咲ちゃんは緊張とか、しない?」
鏡越しに美咲を見る。別に、と答える美咲はポケットから折り畳みの手鏡を取り出し、前髪を映しながら寝癖をいじっている。
「緊張するほどのことなんて……ないからね……っと」
パタン、と音を立て鏡をしまう美咲。後髪に寝癖が残っているのにも関わらず、鞄を持って家を出ようとする。
「美咲ちゃん、まだ寝癖ついてるよ」
この辺り、と菖蒲は自分の後頭部を指差す。
「いーよ別に。あとで適当に直しとくから」
「ええ、みっともないよ……直してあげるから、こっち来て」
「……はぁ。別に誰も見ちゃいないって……」
少し不満げに文句をたれつつ、鞄を置いて菖蒲の近くに背中を向けて座る。
柔らかな美咲の髪をゆっくりと櫛で梳かしていく。間近で見ると、明るい茶髪の中に、薄く黒の地毛が見える。
「美咲ちゃんは、また髪染めちゃうの?」
髪を梳かしながら、俯いて大人しくしている美咲に聞く。
「まぁ、そのうち」
「そっか……」
「なんかだめなの?」
「……ううん、別に」
私は黒髪の美咲ちゃんの方が好きだよ。
本当はそう言いたかったのだろうか、私は。
言葉を詰まらせた物の正体は、なんだろう。
夏休み中には、色々なことがあった。
両の指では数え切れない程の出来事の中で、確実に美咲との距離は縮まってきているのを感じる。
もう少し、なんて求めるのは……我儘だろうか。
「寝癖、直った?」
美咲の問いかけに自問自答から引き戻される。
目の前のふわふわとした茶髪についていた寝癖はすっかり整っていた。
「ねぇ、美咲ちゃん」
美咲の問いかけには答えなかった。
「学校、途中まで一緒に行かない?」
少しだけの我儘は自然と口をついて出た。
途中まで一緒に行く、ただそれだけのことが、とても大きな出来事のような気がした。
東校と西高の生徒が並んで歩いている。いずれかの高校の生徒ならばその異様さは火を見るよりも明らかだった。その上、片や髪を茶色に染めた今時の女子、片や真面目を地で行く女子。事情を知らない人が見ればまさに『恐喝中のギャルといじめられっ子』の様に見えることだろう。
そんな二人が、残暑が続く通学路を並んで歩く。蝉の声は遠くの方で未だ快活に響いている。
二人の通学は、電車を利用することになるため、学校の登校時間よりも少し早い時間帯の登校となる。辺りに他の学生の姿は見えない。
菖蒲は以前にも似た様な光景があった気がしていた。あれはお墓参りの時だっただろうか。
ただ今回は気まずさの為に沈黙しているのではなく、お互いに話題を探しての沈黙の様だった。
駅で電車を待っている時も、電車に乗っている時も、朝のラッシュに巻き込まれていたが、菖蒲の気分は終始上々だった。不機嫌そうな美咲に変なものでも見る様な目で見られはしたが、菖蒲は特に気にならなかった。
同じ駅で下車した後は、それぞれ反対方向の高校に向かう。気をつけてね、という菖蒲の言葉に、美咲はわかった、とだけ返した。
どんな進学校にも、いくらかの人間は性格の為か、出された課題を後回しにする傾向がある。
それは東校でも例外ではなく、菖蒲が教室に入ると、机に向かって作業をしている生徒が数人見受けられた。
菖蒲は邪魔をしないように教室の後ろを通って自分の席に座る。間髪入れずに後ろの席で作業をしていたカナに声をかけられる。
「あやめさん……お願いがあるのですが……」
どうやら昨日の夜遅くまで課題をやっていたらしく、目の下が少し黒ずんでいた。
「国語の課題ってなんかあったっけ……課題のメモなくしちゃってさー」
あったら写させてー、と元気のない声で続けるカナ。もはや冗談をいう余裕すらない様子である。
「見せるのはいいけれど、読書感想文だよ?」
一応、鞄から課題の原稿用紙を出して、カナに渡してみるが、
「はは、感想文か……もーいーや」
特に読んだ本もないらしく、精魂尽き果てた様子で机に突っ伏してしまった。
「えーと、家に忘れたことにしちゃえばいいんじゃないかな……それで今日頑張って書いて……」
「いいよ……なんかもう、悟った……」
カナはそういい残すと、小さな寝息を立てて眠ってしまった。
結局、授業が始まっても起きることはなく、菖蒲も何度か起こしてはみたものの、一夜にして悟りを開いた友人は、放課後まで目を覚ますことはなかった。
「だいたいさ、なんで課題とか出すのかね。休みなんだから休ませろーって感じ」
駅までの道すがら、一日中眠り元気になったカナは、長期休み中の課題が不必要であることをこんこんと語ってくれた。
課題は毎日にバランスよく振り分ける菖蒲は課題に苦しんだことがなかった為、カナの気持ちはよくわからなかったが、不機嫌な友人を思って要所要所で相槌をうつ。
そんな様子でぶらぶらと歩いていると、ブレザーのポケットで携帯が震えた。
送り主は美咲だった。
「今日バイトで遅くなるからね」
絵文字も何もなく、シンプルにそれだけ書かれていた。返信するか迷ったが、『わかった、気をつけてね』とだけ返しておいた。
「おお、菖蒲が携帯を携帯してる……というか携帯を使ってる……」
しばらく一人で喋っていたカナが菖蒲の手元を見て驚く。
「私だって少しは使うよ……」
間接的に友達が少ないことを指摘されたような気がして、菖蒲は少しむくれる。
「やっぱりあやめさんも花の女子高生なんですねー。ねぇ彼氏?彼氏?」
ケラケラと笑いながら画面を覗き込もうとするカナはどう見ても自分をからかって遊んでいる様にしか見えない。カナはいつもこうして私を困らせる。
「もう、違うってば。置いていくよ」
携帯をしまって足早に歩き出す。
つまんないのー、という声が少し後ろから聞こえた気がしたが、聞こえなかったことにしておいた。
早足の影響か、駅に着いても他の学生の姿は殆どなく、夕方の駅は閑散としていた。
もともと東校の学生はこの駅を利用することは少ないこともあり、東校の生徒はカナと菖蒲だけだった。
「私も電車通学が良かったな〜徒歩だと見知った場所ばっかでつまらないもん」
カナは菖蒲が電車を待っている間、駅の構内を見学していた。
「ねぇねぇ、これで改札通っていい?」
一通り駅を見て回って満足したのか、今度は菖蒲の定期で自動改札を通りたがった。
普段から電車をあまり利用しないらしく、子供の様にはしゃぐカナは少しかわいかった。
「いいけど、迷惑にならない様にね」
子供を連れている母親はきっとこんな気持ちなんだな、と改札で遊んでいるカナをしみじみと見つめる。いい歳した女子高生が自動改札で遊んでいる様は、周りからみたらとても変に見えるに違いない。
電車が来るまでまだ少し時間がある。少し休もうかと椅子を探していると、見知った人物が視界に入った。明るい茶髪、西高校の制服。妹の美咲だった。
「美咲ちゃん」
少し大きめの声で呼びかけて手を振ってみる。
美咲もこちらに気づいたらしく、菖蒲の所に歩いてきた。
「あー……メールに書いた通り、今日遅くなるからね。ご飯とか待ってなくていいから」
美咲は何処となく気恥ずかしいのか、わざとらしく頭をかく。
「うん、わかった。アルバイト、頑張ってね」
「ん。じゃあバイト先あっちだから、もう行くね」
「うん、気をつけてね」
短いやり取りを終えると、美咲は自宅の方面と反対にいくホームに降りていった。
「あやめー、これ返すー」
そこにひとしきり遊んで満足したのか、カナが定期を返しに来た。
「もういいの?」
「うん……なんか周りから変な目で見られてることに気がついちゃったから……」
どうやら公共の場所で遊ぶのが良くないのを理解したらしい。
「ところで、さっきの人って……」
「え?」
定期を手渡しながら、カナが何か言った気がしたが、ホームに電車が到着した音でかき消されて聞き取ることができなかった。
「ごめん、聞こえなくて……」
「いや、やっぱりなんでもない!ほら、電車きたよ!」
「あ、それじゃまたね、送ってくれてありがとう」
駆け足でホームに降りて電車に乗る。
タイミングを見計らった様に電車のドアが閉まった。