花咲く夜
「––––二十時から、花火が打ち上げられます」
堤防の祭り会場からそんなアナウンスが聞こえてきたのは、時刻は十九時半を回ろうとしている頃だった。
いつの間にか時間が経ってしまっていたようだ。美咲は隣に置いてある牛乳の存在を思い出し、ヤバいなぁと顔を顰めた。いくら日が落ちて気温が下がっているとはいえ、常温に牛乳を放置しておくのは不安なものがある。
「どうする?」
割り箸だけ残った綿あめを持て余しながら、隣で未だりんご飴を舐めている菖蒲に尋ねる。菖蒲は「え?」と美咲に向いて眼を瞬いた。完全に牛乳の存在を忘れているようだ。その様子に、呆れ気味に牛乳を指差しながら言葉を付け足す。
「いや、そろそろ帰ろうかなと思うんだけど」
「え、あっ、でも……」
牛乳の存在は思い出したようだが、躊躇う様子を見せる菖蒲。美咲は首を傾げる。
祭りに菖蒲を付き合わせたのは自分だ。菖蒲が来たいと言ったから来たわけではない。しかし、今の菖蒲はどうやら帰りたくない理由があるみたいだ。
そこでふと、先程のアナウンスが頭を過ぎる。
「もしかして、花火見たいの?」
菖蒲は一瞬口を開きかけたが、こくりと遠慮がちに頷いた。美咲はへぇ、と少し驚いてしまう。
菖蒲が自分の意思を主張するのは久し振りだ。いつも両親や美咲が言うことには何も言うことなく従っていた菖蒲が、こんなところで主張してくるとは。
一瞬だけ、胸の中に温かいものが込み上げる。
普段ならばいちいち菖蒲の言うことに腹を立てていた筈なのに、なぜだか今はちゃんと自分の意思を示してくれることが嬉しい。
そう、まるで普通の姉妹みたいな。
「……何考えてるんだろ」
そこまで考えて首を振る。最近、何かがおかしい。そんなことを考えてしまうだなんて普通じゃない。
目を手のひらで覆って嘆息する美咲に、菖蒲はしゅんと肩を落とすと自分の膝に目線を下げる。
「ご、ごめんね……そうだよね、帰らなくちゃだよね……」
「あー、いやそういうことじゃなくて」
独り言のつもりだったのに、菖蒲は自分に言われたと勘違いしてしまったみたいだ。少しだけ慌てて誤解を解く。
「まぁ、いいと思う。花火」
素直にじゃあ見てから帰ろうと言えばいいのに、そんな遠回しな言葉になってしまう。
菖蒲は「えっ?」と驚いて、まじまじと美咲を見つめた。美咲は気恥ずかしくなって目を逸らしながら、
「牛乳はほら、ここまで来たらもう一緒だし」
そんな訳のわからない理論を吐いて立ち上がる。
菖蒲はまだ疑問が残る様子だったが、美咲が逃げるように歩き始めたのを見て慌ててスーパーの袋を掴み、その後を追った。
会場に立てられた案内によれば花火は川上から打ち上げられ、両側の堤防からよく見えるようになっているらしい。見れば屋台が並んでいるのとは反対側の堤防にも、既に場所取りしている人の姿が見える。
美咲と菖蒲は橋を渡ることなく、屋台から少し離れた場所までやって来た。ここにも傾斜にブルーシートが広げられ、屋台の食べ物を食べている人や酒を飲んでいる人達が大勢座って騒いでいる。
二人はそれらを見下ろしながら、堤防上のアスファルトの道を歩いて行く。
「めっちゃ人いるなぁ」
ここに越して来たばかりで知らなかったが、どうやらこの祭りは近所では割と有名な祭りらしい。中でも近年始まった花火は、県の内外からも人が集まるほどに好評のようだ。
ふとそこで今の時刻を確認するためにスマホを取り出す。するとホームボタンを押した瞬間に、何件ものメッセージと着信履歴が表示された。「うわっ」と慌ててパスコードを入力してロックを解く。菖蒲のことで頭がいっぱいになっていて今まで確認していなかったのだ。例によって着信音もバイブレーションも切ってある。
確認すると、それは桜や他の友人から送られてきたものだった。どれも「美咲の家の近くでやる花火大会に行くんだけど来れる?」といった内容のものだ。表示されている時刻は一時間ほど前。ちょうどスーパーで牛乳を買っていた頃だろうか。
「あっちゃー」
額に手を当てて空を仰ぐ美咲。来るなら来るでもっと早く連絡してくれ、とも思うが今回ばかりはスマホを見ていなかった自分の責任だ。
隣で歩きながらりんご飴を舐めようか舐めまいか迷ってた様子の菖蒲が、心配そうに尋ねる。
「何かあったの……?」
「いや、何でもない」
美咲はスマホに目を戻すと「連れと一緒にいるからごめんね」と素早く打ち込み、送信してポケットに戻す。姉と一緒にいると伝えることは躊躇われた。それに今は二本の牛乳も一緒だ。もし遭遇したら全体的にダサすぎて泣きたくなる。
ここで菖蒲と別れて彼女たちに合流するという選択肢もある。しかし何故かそれを選ぶ気にはなれなかった。以前の自分なら迷わずそうしていただろうと考えると、ますます分からなくなってくる。
そんな風にあれこれ思案しながら歩いていると、ふいに菖蒲が足を止めた。
「この辺りなんてどうかな?」
振り返ると、遠くに屋台の明かりが浮かび上がっているように見えた。祭囃子も遠くなって、薄っすらと聞こえる程度だ。斜面を見下ろせば、数組の男女がブルーシートにぽつりぽつりと寄り添って座っている。屋台から離れている所為か、酒を飲んで騒いでいるサラリーマンの集団もいなければ、祭りの空気に興奮してテンションがやけに高い中高生もいない。確かにここなら人目を避けてゆっくりと見られそうだった。
「まぁ、いいんじゃん?」
周りがカップルだらけということに多少の不安を抱きながらも、コンクリートの階段を降りてブルーシートまで移動する。邪魔をしないようにと、できる限りカップルから離れてその隅っこに腰掛ける。そこでようやく一息つくことができた。
「あと少しだね」
「うん」
下半分残ったりんご飴に口をつけながら、菖蒲がスマホの画面を点灯させる。画面に照らされたその顔が一瞬驚いたように見えた。
「何かあったの?」
さっきとは立場が逆だな、と思いながら気になって尋ねてみると、菖蒲は首を横に振った。
「ううん大したことじゃないの。ただ、友達も家族と一緒に花火見に来てるからって」
「それって」
私と同じだ、とは口に出さなかったが少し驚いてしまう。しかし県内では割と有名になってきているらしい花火だ。皆どの程度のものか気になるのかもしれない。
きっと夏休み前から続いたいざこざの所為せいで、美咲にはあまり情報が入らなかったのだろう。そこまで考えて、ふと疑問が生まれる。菖蒲はいつから知っていたのだろうか。
菖蒲が画面を閉じて、再び堤防上の薄暗い電灯だけが光を発している。そんな暗闇にいる菖蒲の口元は、いつもより嬉しそうに緩んでいるように見えた。
そういえば、少し前に菖蒲が花火大会のポスターに目を惹かれていたことを思い出す。その時は何も思わなかったが、今考えればあの時から来たいと考えていたのかもしれない。
そんなに花火好きだったかな、とぼんやりとした記憶に思考を巡らせる。
屋台、祭り、神社の境内。だんだんと昔の記憶がその形を帯びてくる。懐かしさが増していくにつれて、その先を思い出すのが何故だか怖くなってきた。
思い出したら、きっと何かが変わってしまう。そんな気がした。
その時、菖蒲がぽつりと呟いた。
「……十年前」
薄暗い電灯が消えて、堤防の周囲が闇に包まれる。
その瞬間、彼方此方から拍手や歓声が起こった。遠くのスピーカーから打ち上げ開始のアナウンスが流れてくる。
涼しい夜風が頬を撫でた。靡いた髪を抑える菖蒲の横顔に、視線が吸い込まれている。
この光景を見たことがある。
それはきっと、
「こうやって、二人で花火見たよね」
ひゅうっと音を立てながら登る光。
そして、藍色の夜空に美しい花が咲いた。
色とりどりの光が、水面に反射して輝く。
「……忘れちゃったよ」
十年前といえば小学生低学年の頃だろうか。美咲は次々に打ち上がる花火を見つめながら嘘を返す。菖蒲はくすりと笑って「ほんとに?」と尋ねてくる。
「神社のお祭りでね、二人で逸れちゃって」
菖蒲が昔話をするのは珍しい。両親がいなくなってからは多分一度も聞いていないはずだった。それなのに、どうして。
次々に打ち上がっては大きな音を立てて散っていく花火に照らされる、菖蒲の横顔。それがいつかの記憶と重なる。
本当は忘れてなどいない。
十年前の夏、地元の小さなお祭りで両親から逸れてしまったことがあった。
今思えば逸れるまでもない、とても狭い範囲のお祭りだったのだが、それでも当時の二人には大勢の背の高い大人たちに混じっている両親を探しに行くのは困難であった。
二人で人気のない裏山の神社に座り、身を寄せ合って両親が来るのを待っていると、ふいに遠く後ろの空から花火の音が聞こえてきた。
気になった美咲が社の裏へ回ろうと提案し、二人で手を繋いでそちらへ向かった。
そして茂る木々の隙間から見えたのは、夜空に咲く大きな花火。
また一つ、大きな花火が上がって歓声が巻き起こる。余韻を残すように、幾つもの小さな光が遅れて散っていった。
「……そんなこともあったっけねぇ」
「懐かしいね」
あんな寂れた神社のお祭りで、花火を打ち上げるとは考えにくい。だからあの花火は、今思えばどこか別のお祭りのために打ち上げられたものだったのだろう。
でもそれを目にした幼き日の二人は、暫く何も言わずに夢中でその光景を見つめ続けていた。瞳に幾つもの光を映しながら。
記憶が形を取り戻して、脳裏にはっきりと浮かぶ。美咲は視線を落として目を閉じた。
聞こえる花火の音と水の音。拍手と歓声。カップルのはしゃぐ声。そして、菖蒲の息遣い。
次に彼女が何を言うのか、何となく分かっている。
「……あの時、美咲ちゃんが言ったこと」
言葉が途切れて、一瞬全ての音が消えたように感じた。
「ちゃんと叶ったね、なんて思っちゃった」
やっぱり、覚えてたんだ。
美咲は顔を上げて、くしゃくしゃと横髪をかき乱す。自分より頭の良い菖蒲だ。忘れているはずがないか、と溜息。
十年前。二人で夜空を見上げていると、ふいに菖蒲がぽつりと呟いた。『またこうやって、美咲ちゃんと花火見れるかな?』と。
美咲は元気に笑って答えた。『ずっと一緒なんだから、いくらだって見られるよ』と。
それでも不安そうな菖蒲は『十年後も?』とぎゅっと美咲の右手を握りながら尋ねた。
美咲は『当たり前じゃん!』と笑って握り返した。
「……やば、めっちゃ恥ずい」
だから思い出したくなかったのだ。顔を見られないよう、花火とは反対側に身体を向ける。
あの頃はまだ両親も優しくて、菖蒲とも仲の良い姉妹だった。その後に何が待っているかも知らずにそんなことを言っていたあの頃の自分が恨めしい。
ずっと一緒。確かに家は同じだし、毎日顔は合わせる。二人暮らしになってからは尚更だ。あの言葉の通り、今こうして二人並んで花火を見上げてもいる。
それでも、その距離は想像もつかないくらいに遠い。
最近になってようやく、その距離が縮まり始めた程度だ。近付いては離れて、離れては近付いて。今まで菖蒲を嫌い続けていた自分に何が起こったのかは分からない。
本当に、分からないことだらけだ。
祭りに向かう人の群れを見た時、ふいにあの記憶が頭に浮かんだのは確かだ。それでも気づかないフリをして、色々な理由をつけてここまでやって来た。あの時、花火を見ないで帰ることもできたのに、それでも菖蒲の意志に従ったのは、胸のどこかでそれを望んでいたから。
今のままの関係じゃだめだ。
このまま菖蒲を嫌い続けていちゃだめだ。
そんな思いが、美咲をこの場所まで連れて来た。この場所からもう一度、始められるような気がしたから。
「美咲ちゃん?」
菖蒲が何も言わない美咲の背中に声をかける。美咲は目を閉じたまま、言葉を探していた。
正直、簡単にいくとは思えない。何年も積み重なった黒い感情と心の距離は、そう簡単に消えるものではないだろう。どんな些細な言葉から、それが再び顔を出して菖蒲に牙を剥くかは分からない。普通の姉妹のようには永遠になれないのかもしれない。
それでも、変わらなくちゃいけない。胸の中を幾度となく刺すその痛みが、美咲にそう訴えかけていた。
身体を再び花火の方へと向ける。菖蒲は不思議そうに美咲を見つめて首を傾げていた。その後ろで、金色の光が空いっぱいに広がる。巻き起こる歓声。
今なら言える気がした。
「……お姉、ちゃん」
さっきは無意識にそう呼んでいた。でも今は違う。もう一度始めるために、菖蒲をそう呼んだ。
驚きに目を見開く菖蒲に、花火に消されてしまいそうな声で、
「……私、頑張るから」
同時に打ち上がった幾つもの花火が、藍色の夜空にまた美しい花を咲かせた。
「綺麗だったね」
「……うん」
花火が終わると、集まっていた人々は一斉に会場から離れ始めた。屋台も片付けが始まり、堤防の周囲は家を目指す人たちで溢れかえっている。そんな流れには乗らずに、二人はブルーシートの上でもう何も打ち上がらない空を見上げていた。人混みの苦手な菖蒲のために、人の流れが収まるまで待っているのだった。
「じゃあ、帰ろっか」
そうしてしばらく経った時、菖蒲が立ち上がって言った。美咲は膝を抱えたまま彼女を見上げる。
「もういいの? まだ人多いけど」
「うん、大丈夫。それに牛乳もあるから」
言われて、その存在を忘れていたことに気がつく。牛乳の袋は左手に引っ掛けられたままシートの上に横たわっていた。
微妙に心配は残るが、それを言われては仕方がなかった。美咲も立ち上がり、歩き始めた菖蒲に続く。
少し収まったとはいえ依然として人の波は激しく、駅に向かう人と自宅へ向かう人とで軽い混乱を起こしていた。
「ちょ、痛っ!」
美咲は肩に鞄か何かが当たり、顔を顰める。振り返ると、菖蒲は肩を縮めながら必死で前に進もうとしていた。しかし次第に美咲との距離が離れていく。
「ああ! もう!」
このままじゃ逸れる、と美咲は右手を伸ばして菖蒲の左手を掴んだ。人混みの中で、菖蒲が「えっ」という顔で美咲の顔を見つめる。
視線を前に戻して、菖蒲を引っ張るように進む美咲。
そのうちに右手がしっかりと握られるのを感じて、美咲は羞恥に頬を僅かに赤らめた。
「はぁ……疲れたぁ」
堤防から離れ、ようやく人の少ない公園の近くまでやって来た美咲はがっくりと首を垂れた。菖蒲は申し訳なさそうに肩を落とす。
「ごめんね……私のせいで」
「だから、そういうのやめ……あ」
そこで未だ菖蒲の手を握っていたことに気がつき、慌ててパッとそれを離す。手の甲で口と鼻を覆うように顔を隠す美咲。菖蒲も左手を前に出したまま、「えっと……」と視線を泳がせる。
今までとは違う、別の意味での気まずさが生じた。
「……帰る!」
沈黙を破り、美咲が背中を向けて歩き始める。菖蒲も少し嬉しそうに頬を緩めながらその後を追った。
その時。
住宅街へ向かう人の波に逆らうようにこちら側、駅の方面へ駆けてくる人影が見えた。最初は何だろうと思う程度だったが、次第に近づいて来るにつれてその姿がはっきりと見えてくる。
小柄で、肩に鞄を下げている少女のようだ。遠くから見る限り、同い年くらいだろうか。
薄暗い電灯に、派手な金髪が照らされる。
「……あれ?」
ピタリ、と足を止める美咲。菖蒲も立ち止まって首を傾げる。
「どうしたの?」
しかし、美咲には聞こえていなかった。何故ならこちらに駆けているその少女は、彼女がよく知る人物だったからだ。
「……桜?」
少女––––桜も前に立ち止まっている美咲に気が付いて足を止めた。ゼエゼエという荒い息で、肩を上下させている。
そしてその頬には、一筋の涙が伝っていた。
「え、なんで」
「……ごめん、美咲。また今度ね」
驚く美咲が声をかける前に、桜はそれを袖で拭うと二人の横を駆けて行ってしまった。呼び止めようと振り返るが、人の間を縫ってあっという間に遠くなってしまう。
「どういうこと……?」
呆然と立ち尽くす美咲。
桜は今日、他の友人と一緒に祭りへ来ていたはずだ。彼女たちと何かあったのだろうか。
いや、もともと桜は誰かと喧嘩するタイプではない。それに普段一緒にいる友達は皆変わり者だが優しい人たちで、桜を特に可愛がっている。その中の誰かと喧嘩になるなど考えられなかった。
なら、どうして?
「ねぇ、今のって」
菖蒲が不安そうに美咲の顔を覗き込む。美咲は振り返ったままジッと考え込んでいた。しかし、答えは結局出ない。
何かあったなら、今はそっとしておいた方が良い。後でメールなり電話なりしてみよう、と再び歩みを進める。
祭囃子も花火の音も消えて、聞こえるのは車の音と行き交う人々の雑踏だけ。
分からないことはまだ多い。それでも、美咲にはこの夜から何かが変わりそうな気がしていた。
しかし、それを遮るように桜の涙が脳裏に浮かぶ。
「……分かんないことばっか」
右手で髪をかき乱して、ぽつりと呟いた。