酸いも甘いも
「お姉ちゃんこっちこっち!」
「食べ物持って走ったら危ないよぉ、みさきちゃん……」
人混みをすり抜けてみさきは祭りを駆けていく。
橙色の浴衣に健康的な黒髪のショートヘア。「元気な子」を具現化したようなその姿は到底あやめと双子であるとは思えない。
「はやくはやく!遅いよー!」
「ま、待ってよぉ……」
人混みに揉まれながらよたよたと、あやめはみさきを追いかける。
菖蒲色の浴衣に、少し長めのロングヘア。頭には同色の髪飾り。まだ幼いその姿は、人形のよう、という表現がとてもよく似合う。
「みさきちゃん?どこ?」
前を走っていたみさきはいつの間にか見えなくなってしまっていた。代わりにあるのは沢山の人間の波。
「ご、ごめんなさ……通して、下さい……」
思いつく限りの謝罪の言葉を連呼しながら、人波を掻き分け、時にもまれ進むあやめ。
明るい夕陽が沈み始めていた。
祭りの通りをやっとの思いで抜けると、今までの賑やかな雰囲気は何処へいったのか、ひっそりと静かな場所に出た。
そこは今回、祭られるべき対象がいるはずの神社だった。しかし、人影は見えない。
後方から聞こえる喧騒が、神社の静かさをより引き立て、ほのかな恐怖さえ感じる。
「みさきちゃん?」
慌ててみさきを呼ぶ。こんなところに長く留まっていたくなかった。
「お姉ちゃんこっちこっち。」
前方からみさきの声が聞こえる。声の方向を見上げると、賽銭箱の上にみさきが座っていた。
「だ、だめだよみさきちゃん。そこに座ったら。」
あやめの呼びかけに、みさきはぶらぶらとさせていた足を止める。
「なんで?」
「えっと、怒られちゃうよ……」
幼いあやめには、どうしてだめなのかはわからなかった。ただなんとなく。だめな気がしたから。
「菖蒲は良い子だね」
背後から声が聞こえる。
振り返ると制服を着た、茶色い髪の女性が立っていた。屋台の明かりが後ろから女性を照らしている為、顔はわからない。女性は続ける。
「でも、菖蒲が良い子だったから、傷ついた人もいるんだよ?」
女性は革靴を鳴らしながら歩み寄ってくる。反射的にあやめは後ずさっていた。
不意に何かにぶつかり、座り込む。女性はあやめの前で屈むと、手であやめの顎を引いて、目を合わせる。
「ねぇ、誰だと思う?菖蒲は誰を傷つけちゃったのかな?」
菖蒲は震えながら美咲を見つめる。
「違う、違うの。そんなことしたかったわけじゃ……」
「したかったわけじゃない?だから何?」
「事実、あたしの人生は狂っちゃったよ?」
「どうする?責任取ってくれる?」
顎に当てられている手に力がこもる。無理な体勢に胸ぐらを掴まれているような感覚に陥る。
「ご、ごめんなさい……」
涙目で謝る菖蒲を見つめる美咲。
しばらくして微笑むと、顎に当てていた手を離す。
「いいよ。私も折り合いのつけ方を考えたから。許してあげる。」
祭りの通りの方に歩き出す美咲。
「だからさ。」
そして通りの入り口で振り返った。
もう姉妹じゃなくなっちゃおうよ。
美咲は笑顔でそう言った。
突然の息苦しさに、目を覚ます。
呼吸は乱れ、全身にじっとりと嫌な汗をかいている。おそらく暑さのせいではないだろう。
「夢……?」
菖蒲はぜぇぜぇと風邪の時のように呼吸をしながら、顔を両手で覆う。自然と涙が出て、嗚咽する。
「あぁごめん、起こしちゃった……って、どうしたの⁉︎」
手洗いから戻った美咲が、慌てて菖蒲に駆け寄る。
用を足して戻ったら、寝ていたはずの姉が泣いているのだ。
「美咲ちゃん……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ええ……?ちょ、どうしたのさ……意味わかんないんだけど……」
菖蒲に事情を説明することはできなかった。罪の意識を悪夢に刺激され、心の余裕など無くなっていた。
美咲は困惑しながらも、菖蒲が泣き止むまで、菖蒲の背中をさすっていた。
「……落ち着いた?」
美咲の声がする。泣き止むまでずっと側にいてくれたようだった。
「ごめんね……」
「だから……意味わかんないって」
ありがとうの意味での謝罪のつもりだったが、美咲にはさきほどの謝罪の延長に聞こえたらしい。
「……とりあえず寝よ。まだ三時だよ。」
美咲はスマートフォンで時間を確認した後、わざとらしく欠伸をすると、自分の布団に戻ってしまった。
菖蒲は台所で水を一杯飲んだ。ふぅ、と深い息をつき、布団に戻る。
悪夢を見た後の頭は、やけに冴えて、睡眠を阻害する。目を閉じると夢の内容が主張を続けるが、それを懸命に振りはらい、何も考えまいとする。
布団に潜り込み、瞼を強く閉じる。
次に目を覚ました時、時計の針は九時過ぎを指していた。普段から早起きの菖蒲にしては珍しく遅めの起床だった。
布団から起き上がり、タオルケットを抱き込むように体育座りをする。
美咲はまだ眠っていた。規則的に上下する胸を見る限り、まだ起きそうにないだろう。
いつもなら郵便受けをチェックした後、朝食の準備に取り掛かるはずだったが、菖蒲は体育座りのまま、眠っている美咲を見つめていた。
頭の中で、しなければならないことのリストが作成されない。早い話が無気力になっていた。
「はぁ……」
吐くつもりのなかった溜息が口から洩れる。
夢のような結果になる事を、考えていなかったわけでは、なかった。
美咲に嫌われることも仕方ないし、姉として見られなくなることも覚悟はしていたつもりだった。
しかし、その実、自分はただの弱虫だった。
美咲が暑さのためか、もぞもぞと布団の中で動いている。窓を開けてあげた方がいいかもしれない。
けれど、動く気にはなれなかった。
なんだか、美咲から目を離すと、美咲が本当に何処かへ行ってしまうような気がしたのだ。
外で蝉が鳴き始める。このアパートにくっついて鳴いているようで、この部屋にも結構な音量で響く。
「……うっさ…………」
喧しい鳴き声に、眠っていた美咲が目を覚ました。
美咲はだるそうに起き上がり伸びをすると、体育座りで自分を見つめている菖蒲に気づく。
「なにやってんの」
「うん……」
「朝食は?」
「まだ……」
「なにやってんのさ」
「うん…」
美咲の問いかけに対して、気の抜けた返事をすることしかできない。
美咲は、めんどくさいな、と呟き、立ち上がる。
上から見下ろす美咲をぼんやりと見つめる。いつもと様子が違う菖蒲に違和感を感じたのか、髪をわしゃわしゃとかき乱す美咲。
「とりあえずご飯。その前に喉乾いた、水。」
面倒事は御免だ、と言わんばかりにそそくさと台所へ向かう美咲。菖蒲はやはり、後ろ姿を目で追うことしかできない。
美咲が台所で不機嫌そうな顔をしているのがわかる。美咲は再び、自分に向けられた視線に気がついたのか、台所から食パンの袋を持って戻ってくる。
「……ほら」
「んぐ……」
少しだけ開いていた口に焼いていない食パンを捻じ込まれる。六枚切りの食パンは寝起きの乾いた口の水分をどんどん吸収していく。
「なんか言いたいことあるならはっきり言いなよ。ずっと見られてるの気持ち悪いんだけど。」
食パンを菖蒲の口の奥へ奥へと詰め込む美咲。
苦しいことはないが、ぐいぐいと押し込まれるパンは咀嚼することも吐き出すことも敵わず、口の中に溜まっていく。
「ほ、ほへんへ……」
ろくに回らない舌で謝るとパンをさらに押し込まれる。
「あと何考えてんだかわかんない様な暗い顔でこの部屋にいないでくれる?落ち着かないっていうか、不快。」
そこまで言い切り、ようやくパンから手を離す美咲。一枚の食パンの半分以上が菖蒲の口の中に収まっていた。
菖蒲が口の中のパンを飲み込むのに奮闘している間に、自分の分のパンを焼いていた美咲が両手にアイスココアを持って戻ってくる。
「で、今日は何するの。あ、牛乳なくなったから。」
折り畳み式の机を足で引き寄せ、アイスココアを雑に置く美咲。アイスココアで残っていたパンを流し込み、一息つく。
「夕方に牛乳が安かったはずだから、それを買うくらいかな。ココアありがとう。」
昨日見たチラシの内容を思い出しつつ、自分の頭が働いていることに気がつく。やっぱり美咲ちゃんはすごいなぁ、と改めて感じる。
「じゃあそれ、あたしが行ってくるから。」
そっけなく言い放ち、アイスココアを飲む美咲。
「え?私が行くよ?牛乳だけなら重くないし。」
いつになく積極的に買い物へ行く、という美咲に驚く。
「さっきみたいにぼーっとして、事故にでも遭われたらあたしが面倒を被るから。」
美咲は机の端を指先で叩きながら早口で言う。
「でも他にも買うものあるかもしれないし、面倒でしょう?」
「他にも買うものあるんだったら、尚更あたしも行かなきゃいけないでしょうが。」
美咲の机を叩く指が早くなる。菖蒲はこれ以上美咲をイライラさせないためにも、美咲の好意に甘えておくことにした。
台所でトースターが甲高い音を立てる。美咲はだるそうに立ち上がり、自分の朝食を取りに行った。
「……やっぱ来るんじゃなかった」
「えと……ごめんね……」
どうやら美咲は他にも何か買い物をしていくものだと思っていたらしく、牛乳パックが二本だけ入った袋を揺らして愚痴をこぼす。
短い時間であったが、スーパーで買い物を終えて、外に出た時には、すでに日は沈んで薄暗くなり始めていた。
まだ街灯がつく時間ではないため、光源がない今の時間帯が一番暗い。前を歩く美咲の姿もぼんやりとしか見えず、ガサガサと買い物袋の立てる音が、菖蒲と美咲が一緒に歩いている証になっていた。
美咲と連れ立って暗い道を暫く歩いている間に何組か、浴衣を着た家族連れと思われる団体とすれ違った。男の子供が一人の家族、藍川家の様に、年頃の姉妹がいる家族、と形態は様々だったが、どの家族も談笑しながら夜道を歩いていく。そんな家族とすれ違うたびに菖蒲は羨ましさや寂しさを感じていた。
もう少し育つ環境や、運命が違ったならば、自分もあんな風に笑い合いながら家族で出かけることができたのだろうか。勿論、美咲も一緒に。
考えが消極的になると、自然に視線が下を向いてくる。ふとネガティヴな思考をしている自分に気がつき視線を上げると、後ろを振り返っている美咲と目があった。
「ご、ごめんね、ぼーっとしてて……」
立ち止まっている美咲に、自分に何か返答を求められている様な雰囲気を感じ、反射的に謝ってしまう菖蒲。
しかし美咲はそんな菖蒲を気にも留めない様子で、菖蒲から目をそらすと、
「……急に綿菓子が食べたくなった」
と呟いた。
菖蒲は、予想外の返答に呆然と美咲を見つめる。美咲は聞こえていないと思ったのか、もう一度綿菓子が食べたい、と呟いた後、終わりに、屋台のやつ、と付け加えた。
「て、堤防の近くでお祭りやってたよね……」
美咲の発言の意図が掴めず、菖蒲は関連性のあるであろうワードを返してみる。
「一人で行くの恥ずかしいから、ついてきて」
言い終わるや否や、美咲は来た道を引き返し始める。慌てて菖蒲は後を追う。
心なしか、美咲の歩くスピードがさっきよりもほんの少しだけ速い気がする。
美咲ちゃんはそんなにお祭りが好きだったかな、と思い返してみるが、そもそも美咲と一緒にどこかに行った記憶の方が少なかった。
唯一思い出せたのは、小学生の低学年の頃、家族で行った祭りだった。祭りの屋台で両親に買って貰ったものを、美咲と半分こにして食べた。たったそれだけのことなのに鮮明に思い出せるのは、自分が家族を大好きだからだろうか。
それとも……美咲と仲良しの思い出がそれしかないからだろうか。
またも俯いている自分に嫌気がさし、菖蒲は少しだけ歩くスピードを上げた。
堤防近くの祭りは、想像していたよりも大きな規模のものだった。というのも、菖蒲が経験したことがある祭りは、前に住んでいた家の近くにある、寂れた神社の小規模な祭りのみだったためだ。
堤防に沿って植えられている街路樹を取り込む様に屋台が並び、広々とした通路が出来ている。
しかし、遊びに来ている人の数もかなり多く、自由な往来は困難であるように感じられた。
「あたしは綿菓子買いに行くけど、行く?待ってる?」
人の多さに驚いている菖蒲に、買い物袋をぶら下げた美咲が声をかける。
「折角だけど、私は待ってようかな……」
出来れば一緒に行きたかったが、この人混みの中を自由に動く事は、菖蒲には難しく感じられた。
「じゃ、行ってくるから。これ持ってて」
美咲は菖蒲の返事をわかっていたのか、牛乳の入った袋を菖蒲に押し付けると、祭りの人混みの中へと消えてしまった。
菖蒲は近くにあった木製のベンチに座り、ぼんやりと通りを眺める。
りんご飴や焼きそば、射的に金魚掬いと、祭りの代名詞のような屋台が見える範囲にも多くある。
浴衣を着た人や、普通の服の人、法被を羽織った人、会社帰りであろうスーツ姿の人、様々な人が通りを行き交っている。その人達それぞれが祭りを楽しみ、騒いでいるのを見ていると、少しだけ自分も元気になれる気がした。
もしかしたら落ち込んでいた自分を元気付けるために、美咲ちゃんは私をお祭りに連れてきてくれたのかもしれない。
菖蒲はそんなことを考えながら通りを眺めていた。
美咲が綿菓子を買いに行ってから二十分ほど経った。綿菓子を買いに行ったにしては少し遅い気がする。
相変わらず人混みの量は減っていない。もしかしたら美咲は人混みに揉まれて、ここまで戻るのに苦戦しているのかもしれない。
賑わっている場所で、一人でいる寂しさを紛らわせる為に小さくため息をつく。
「ねぇ、キミ一人?」
不意に、祭りの通りから歩み寄ってきた人物に声を掛けられる。少し長めの金髪に、アロハシャツを身につけた長身の男だった。
「ヒマなら俺とお祭り巡らない?」
男は菖蒲の座っているベンチの隣に腰掛けると顔を目と鼻の先まで近づけてくる。
「すみません、折角ですが人を待っているので……」
できるだけやんわりと断ろうと言葉を選んで断ろうとするが、そんな菖蒲の心境など赤の他人が察してくれるわけもなかった。
「ならその人が来るまででいいからさ。俺、可愛い子が寂しそうにしてるの放っておけないんだよね〜」
先程座ったばかりだというのに、男は勢いよく立ち上がると、菖蒲の手を強引に引っ張っていく。
今まで男性と遊ぶどころか、話をした経験さえ少ない菖蒲は困惑し、加えて紳士的であるとはお世辞にも言えない外見に恐怖を覚えた。
「すみません、いけません…」
震える声で拒否を続けるが、男は知らぬ存ぜぬといった様子で、菖蒲の手を引く力は弱まる気配はなかった。
拉致、というやけに物騒な単語が頭に浮かぶ。軟派、という言葉をあやめは知らなかった。
「お姉ちゃん、お待たせ!思った以上に並んでて遅れちゃった!」
半ば引きずられるように通りに入ろうとした瞬間、綿菓子以外にも大量の食べ物を持った美咲がタイミング良く戻ってきた。
「あちゃ〜待ち人来たるってやつ?ついてないなぁ〜」
男はヘラヘラと笑いながら菖蒲の手を離し、ハーフパンツのポケットに手を入れる。
「あ〜私一人だったら間違いなく一緒に行ったんだけどな〜。お兄さんそこそこかっこいーし」
美咲は独り言のような大きさで喋りながら、男性の周りをちょこまかと回る。それに気を良くしたのか、男は頭を掻きながら笑った。
「それはまた今度ということにしようか。お姉さんと祭り、楽しんでいきなよ」
「うん、また今度ね。さ、お姉ちゃん、行こっか」
菖蒲は、美咲に食べ物を持った手の甲で背中を押され、急ぎ足でその場から離れた。
「……ああいうのは適当に褒めておけば、なんとかなるから」
祭りの会場から少し離れた、小さな公園のベンチで一休みしていると、美咲がポツリと呟いた。
「……ありがとう」
美咲に危ないところを助けて貰ったことによる緊張の緩和から、菖蒲の目には若干の涙が浮かんでいた。
それに気付かないふりをするために、祭りで調達した綿菓子をかじりながら美咲は続ける。
「ありがとうとかごめんとか、いちいち言わなくていいから。これあげる」
美咲は綿菓子を持った手とは逆の手に持っていたりんご飴を菖蒲の方に押しやる。
「うん……」
おずおずと受け取り一口舐める。砂糖の人工的な甘さが口の中にふわりと広がる。
「元気出た?」
綿菓子の最後の一口を食べ終えた美咲が、棒を口に咥えながら菖蒲をちらりと見る。
菖蒲はりんご飴を舐めながら頷く。
美咲は再び視線を逸らし、なんていうかさ、と前置きを置いて話し出す。
「お姉ちゃんが暗いと、調子狂うっていうか、落ち着かないから。やめてよね」
その美咲の言葉を聞いて、菖蒲はどこか違和感を感じた。
違和感の正体はすぐにわかった。
今まで美咲が菖蒲と話をする時は、呼称の部分を飛ばして会話を始めるか、呼ばれる時、大抵はあんた、などと呼ばれていた。
それが今、美咲にお姉ちゃんと呼ばれたのだ。
本来あるべき姉妹の形に違和感を感じる自分が少し悲しいと思う気持ちと共に、美咲が自分のことを姉として見ていることに対して、喜びのようなものを感じた。
「……なにさ」
感情がが顔に出ていたのか、美咲を見て微笑んでいる菖蒲を美咲が訝しげに睨む。
「ううん、なんでもない」
慌てて飴の部分が溶け、リンゴが露出した部分を齧る。
甘酸っぱい味と香りが、重く詰まった喉の下辺を満たしていった。