重み
「少し、買い物してもいい?」
墓参りの帰り道。ふいに立ち止まった菖蒲は、控えめに笑いながらそう提案した。
俯きがちに歩いていた美咲は顔を上げて振り返り、暫く何も言わずに菖蒲を見つめる。やがて「うん」とだけ返すと、再びアスファルトに目線を落としてしまった。
すっかり高く登った太陽は、気まずい空気の中歩き続ける二人に容赦なく照りつけ、美咲の機嫌を一層損ねていた。
「……めんどくさ」
そんな呟きも、けたたましい蝉時雨に紛れて消えてしまう。
一刻も早く帰りたいのに買い物だなんて。しかし、菖蒲だけに買い物をさせて自分だけ帰る、というわけにもいかない。
二人が訪れたのは、引っ越してからよく利用している大型ストア。ちょうど墓場からアパートまでの中間の距離に位置していた。
広い駐車場に、食品から電化製品まで揃う充実したテナント。よって周辺の住民は、ここを利用することが多いようだ。
以前美咲が桜と訪れたショッピングモールは若者たちが集まる場所だが、ここは主婦や小学生以下の子供の姿が目立っていた。
「涼しい……」
正面入口から店内に入ると、美咲は冷房の効いた涼しい空気に目を細めた。一気に汗が引いていく感覚が心地よい。そのままカートと買い物カゴを取ろうとしたところで、菖蒲に呼び止められる。
「先に上から見てもいい?」
「……別にいいけど」
すっかり食品を買うだけだと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。
一階は食品のフロアで、上の階は電化製品や衣料品のフロアに分かれている。菖蒲はエスカレーターへと向かい、美咲もその後ろから渋々とついて行った。
エスカレーターに乗りながらも、思わずチラチラと周囲を確認してしまう。菖蒲と一緒に買い物しているところを知り合いに見られることはかなり恥ずかしい。まるで、母親と買い物しているところを見られることを気にする小学生のようだ。
そこまで考えて、ここに知り合いがいる可能性はほぼ無いことを思い出す。ここは地元ではないのだ。
三階まで上がったところで、菖蒲はエスカレーターから離れて振り返った。美咲も頭上の案内板を見ながら下りる。そこには「インテリアと生活のフロア」と書かれていた。
「なに買うの」
腕を組んで右足に体重をかけながら、興味無さげに尋ねる。菖蒲は「えっと」とフロアを見渡しながら、
「その、本棚を……買いたいんだけど」
「……本棚ぁ?」
予想外の答えが返ってきたので、思わず聞き返してしまう。菖蒲は消え入りそうな声で「うん」と返しながら身体を揺らした。
本棚なら越してきて数日後に安く買ったものが既にあるはずだ。現に今も利用されて––––。
「あ」
そこで思い出す。あれはほぼ、美咲の漫画が占拠していたのだ。
前の家から持ってきたはずの菖蒲の本は、きっと今も部屋の隅のダンボールの中。
「……分かった」
どうして墓参りの帰りに本棚を買わなくてはいけないのかは分からないが、嫌だと言える立場ではなかった。菖蒲は「ありがとう」と嬉しそうに微笑んで、フロアを見渡す。
左手側にインテリアのコーナーが見えたので、そっちに足を向けた。
「えーっと……」
本棚が並んでいるコーナーを見て回る二人。
部屋の広さを考えると、あまり大きいものは置くことができない。菖蒲は置くスペースの採寸をしていたようで、メモを片手に商品のサイズを確認している。
「……ねぇ、どうしていきなり?」
そんな彼女の後ろで暇を持て余していた美咲は、毛先を弄りながらふいにそれを尋ねてみた。本棚が欲しいならもっと早く買っても良かったはずだ。
「……えっと」
すると菖蒲は立ち止まり、答えるのを躊躇うように横目で美咲を見つめる。
しかし暫くすると、再びメモに目線を戻して小さく口を開いた。
「お盆だから……お母さんが大切にしてた本、ちゃんと並べてあげなきゃって」
お母さんが大切にしてた本。その言葉に、美咲は毛先を弄る指を止める。
昔から読書家だった母親は多くの本を持ち、菖蒲が中学に上がった時にそれを彼女に受け渡したのだった。だからあれは菖蒲の本でもあり、同時に母親の本でもある。
「……ふーん」
菖蒲は微妙に質問に答えていない。そんなに大切な本なら、お盆になる前にどうにかするべきだっただろう。例えば、美咲の漫画と入れ替えるなりして。
「……そろそろ、大丈夫かなって」
そんな美咲の疑問は、菖蒲が付け足したその一言で晴れた。
菖蒲はきっと、並べなかったのではない。並べることが「できなかった」のだ。その本に母の面影を感じてしまうから。
美咲は髪から手を離すと、露骨に不機嫌さを面に出した。そして皮肉の込もった、自分でもぞっとする言葉を吐いてしまう。
「菖蒲はいい子だね」
しゃがんで商品を確認していた菖蒲がこちらに振り向く。同時に美咲はぷいと顔を逸らした。
ドロドロとした黒い感情が胸の中で渦巻く。
「美咲ちゃん……?」
「何でもない」
菖蒲は不安そうな顔になり、やがて何かに気がついたようにあっ、と息を飲む。
「……ごめんね」
そしてぽつりと零す。美咲は何も言わないままだった。
腹が立つ。
菖蒲を愛していた母にも。そんな母を愛している菖蒲にも。
そして、それを今もズルズルと引きずって、菖蒲にぶつけてしまう自分にも。
その時またチクリと、何かが胸を刺した。
「……」
「……」
帰り道。買い物を終えた二人は、再び日差しの中を歩く。さっきと変わらずに美咲が一歩前を進んでいた。
右手には菖蒲が選んだ小型本棚のパーツが入った箱がぶら下げられ、時折右側にふらついている。そんな彼女を菖蒲は心配そうに見つめていた。その右手にも食品の入ったレジ袋が下げられている。
今まで幾度となく感じてきた重い空気。それが、今は更にその重みを増しているように感じる。
「……重くない?」
「重くない」
美咲は頑なに菖蒲にこれを持たせることを拒んだ。また無理をさせて体調を崩されてしまっては目覚めが悪い。ただ、それだけの理由だった。
今日、両親の墓参りに付いて来たのも菖蒲を一人で行かせるのは気が引けたからだ。
そんなことしなくてもいい。心のどこかではそう思っているが、胸に刺さる痛みが彼女を動かす。
「……ありがとう」
背中にかけられたその感謝の言葉に、美咲は少し経ってから「ん」とだけ返した。僅かに痛みが和らいだ気がする。そう思っていると、ふいに右腕が軽くなった。
「ちょっと」
すぐに顔を右手側へ向けてみると、いつの間にか菖蒲が隣に並び、空いた左手で箱に括り付けられたビニール紐を掴んでいた。そのお陰でふらついていた身体が平行になる。
「持たなくていいからッ……」
イラつきながら離れようとするも、菖蒲は手を離そうとしない。物憂げな表情でアスファルトを見つめながら、歩みを進めている。
額に流れる汗。それが一瞬、日差しに当てられて輝いたように見えた。
何も言わずに持ち続ける菖蒲に、美咲はそれ以上何も言うことができなかった。辛うじて「勝手にすれば」と吐き捨てるように言った後、前を向いて歩き続ける。
こんなに強い意志を秘めているように見える菖蒲は、いつ振りだろうか。
「……あ」
歩きながら、ふいに菖蒲の視線が何かに吸い寄せられる。美咲が何だろうとその先を目で追ってみると、そこには花火大会のポスターが掲示板に貼ってあった。
そういえば今度の週末に近所の堤防沿いでやると、どこかで聞いた気がする。美咲は行くことはないだろうと聞き流していたが。
それっきり、二人は家に着くまで言葉を発することはなかった。
ただドロドロとした感情は、いつの間にか胸の中で薄まっていた。