菖蒲一輪
夏休みも半ばに入った頃、藍川家にも他の家庭と同じようにお盆の季節がやってきた。
両親が他界したのがたった数ヶ月前だというのに、両親含む先祖の霊を呼び戻しにいくというのは、どうしても引っかかりを感じてしまう。
かといって一年の恒例行事をこなさずに過ごすのは基本的な年中行事を積極的に取り入れてきた藍川家の人間としては、心持ちが悪いのも事実である。
「お線香とライターとお供え物……お掃除用のタオルも持っていかなくちゃ」
箪笥からお墓参りに必要な物を取り出して、床に並べていく。この箪笥は数少ない「前の家」の名残の家具だ。濃い茶色の塗りに木目が浮き出ている高級そうなデザインは、あまりこの部屋にマッチしているとは言えない。
「迎え火は……無理かなぁ」
火事になったら困るよね、と菖蒲は壁を見ながら独り言を呟く。経年劣化によって薄く黄ばんだ壁紙からは特に返事はなかったが、菖蒲は納得したような表情で頷くと、床に並べて確認していた物品をハンドバッグに入れていく。
「どっか行くの」
部屋の隅に広げられた布団から美咲の声がする。隅と言っても六畳一間、否応無しに物音は聞こえるため、墓参りの準備の音で起こしてしまったようだった。
「ごめんね、起こしちゃったかな。お盆だからお墓参りに行こうかと思ってて。美咲ちゃんも……」
一緒に行かない?と続けようとして、やめた。そうしてから、失言だったかもしれない、と後悔する。
美咲は菖蒲の言わんとすることを察したのか、あたしは行かない、と短く答えるともぞもぞと寝返りを打った。
暫くの沈黙の後、居心地が悪くなった菖蒲は、ハンドバッグを持って立ち上がると、重い空気から逃れるように玄関へと向かった。
「それじゃあ、行ってくるね」
「……待って」
玄関に置いてあった花束を持って、ドアノブに手をかけたところで、後ろから美咲に呼び止められる。
「やっぱり……あたしも行く」
ため息交じりの美咲の言葉に菖蒲はしばらく呆然としていたが、それからほのかに笑みを浮かべると、
「朝ごはん食べないと、ダメだよ?」
美咲の朝食の用意をするために、台所に向かった。
徒歩で三十分、電車で最寄りの駅まで移動すると、そこから徒歩十五分。比較的近い場所に両親の眠る墓地はある。電車を使うメリットがあまり感じられないので、姉妹二人で歩道を歩く。会話は、ない。
時刻はまだ八時を少し過ぎた頃。お盆休みなこともあって、道行く人も疎らな印象を受ける。
車の通りも少なく、蝉もまだ鳴いていない。いつも賑わっている街だが、今はとても静かな印象を受ける。そのことがより一層、姉妹間の会話を少なくしている原因なのかもしれない。
そもそも二人揃って出かける事自体、何年ぶりだろうか。
この前の引越しを除けば、もう三、四年は一緒に出かけていないような気がする。
こうやって二人で出掛けるのも久しぶりだね。そんな他愛もない事すら言えずに、そのまま言葉を飲み込む。
「具合……どう」
突然、左側を歩いていた美咲から声を掛けられる。
「も、もう大丈夫だよ。あの時はありがとう。」
予想外の出来事に少しだけ慌てる。しかし、美咲はそんな菖蒲をどうこう言うわけではなく、ただ一言、そっか、と呟いただけだった。
そしてまた、沈黙。
菖蒲は横目で美咲の様子を伺う。
歩くたびにふわふわと揺れる美咲の髪は、最近染め直していないからか、根元の方に若干黒が混ざって見える。
最近。
美咲の様子が変わり始めたのも、最近。
菖蒲がそれに気づいたのは、この前菖蒲が風邪をひいた時。
ただ単に病気の自分に気を使っていただけかもしれないが、よくよく思い返してみれば、それより以前にも同じようなことがあったかもしれない。
前に美咲の帰りが遅かった時。その時も美咲の様子が普段とは違ったような感覚がした。
何が違ったかはわからない。
それにあくまで、気がしただけ。
そんなことをぼんやりと考えながら美咲の髪を眺めていると、菖蒲の視線に気づいた美咲と目があう。
菖蒲は慌てて視線を外して、少し俯きながら歩き続けた。
墓地の規模はあまり大きくはない。寺が近くにあったりだとか、そういったこともない。
特別特徴のない墓地だが、改めて訪れると心に何か冷たいものが触れる感覚がする。
両親の墓の前にくると、それはより一層冷たさを増す。
「あたしはこれ洗ってくるよ」
美咲は既に供えてあった花を抜き、花立を取り外すとさっさと洗い場へ消えてしまった。
菖蒲は墓の上に置き去りにされた、少し枯れかけた花を見つめる。
まだ少し枯れかけているだけ。
まだお父さんとお母さんが死んでから、そんなに経っていないんだな、と思い返しながら、古い花をビニール袋に入れる。
「でも……とても長い月日が経ったように感じます、お父さん、お母さん」
黒々とした墓石を見上げながら、菖蒲は自然と自分の思いを吐露していた。
「まだまだ、大変なことは多いです。色々な手続きも、まだ全部覚えきれていません」
ハンドバッグからお供え物を取り出して、並べる。
「美咲ちゃんも、元気です。私なんかよりも、ずっとずっとしっかりしています。この前も、私が風邪をひいたとき、一生懸命に看病してくれました」
布を取り出して、乾いたままな事に気づく。
「私ももっと頑張ります。二人で力を合わせれば、きっと大丈夫です。」
再び墓石を見上げる。
「これからも二人で元気に過ごせるように、見守っててください。」
手を合わせて目を閉じる。蝉がいつの間にか鳴き始めていた。
そこへ、通路を戻ってくる足音が聞こえてきた。
目を開けると、美咲が水を入れた花立を両手に持って立っていた。
「……洗ってきた」
「ありがとう。私、タオル濡らしてくるね。少しだけ待ってて」
乾いたタオルを持って、美咲が来た道を菖蒲が行く。洗った花立から滴ったであろう水滴が通路の石に点々と続いている。
洗い場の水道でタオルを濡らし、戻る。
その途中、通路の石の上に垂れている水滴が一箇所に集中している場所を見つけた。丁度、藍川家の墓がある通路の陰に当たる部分だった。
ここにいたのだろう。菖蒲が話し終わるまで。
「お父さん、お母さん。美咲ちゃんは、気を遣うのが上手な子です。」
菖蒲は小さく呟いた。
墓石を拭いて、線香をあげて、お下がりを頂いた頃には、太陽も照りだし、比較的涼しかった気温は何処へやら、すっかり真夏日の暑さとなっていた。
「それじゃあ、帰ろうか。」
墓石を見つめたままの美咲に声をかける。うん、と短い返事を返すと、美咲はさっさと歩き出した。慌てて菖蒲も後を追う。
帰り道は蝉が五月蝿く鳴いていたが、それでもやはり、姉妹の間には会話は生まれなかった。相変わらず美咲は菖蒲の方を見ないし、相変わらず菖蒲は美咲の髪を見ている。
美咲ちゃんはどうして、お墓参りについてきたのだろう。
菖蒲はずっとそれを考えていた。
別に美咲と行くのが嫌だったからではなく、純粋に不思議だったからである。
美咲と親の関係は、頗る悪かった。虐待、と言っても差し支えはないかもしれない。
菖蒲が見たことがある範囲内でも、母親には叩かれ、父親には罵声を浴びせられ、時には食事が美咲の分だけない、という事もあった。
そんな目に遭わされていた美咲が、両親の墓参りをする、何てことは、到底考えられなかった。
私に気を遣って?なぜ?そもそも私は美咲ちゃんに嫌われているはずなのに?
どうして?
思考がまとまらず、頭の中で同じ問いを何度も繰り返す。
再び美咲を見る。こんなにも近い距離にいるのに、その考えは全くわからない。ふわふわと揺れる髪を見ていると、そのまま妹がどこか、自分の知らない場所へと飛んで行ってしまうような気さえしてくる。慌てて急ぎ足で美咲を追いかける。
どこかで鳴いていたはずの蝉は、いつの間にか居なくなっていた。