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桜守

作者: 遠野 紗

 桜は空の青に咲き、水の碧へと返る。


 桜を見る度にその言葉を思い出す。何故かその言葉だけが弥景みかげの中に残っているのだ。真っ白な画用紙の上にポタリと青い絵の具を落としたように。

 誰が言ったのかは分からない。

 もしかしたら、突然その人に会えるかもしれないし、会えないかもしれない。

 でもきっと、それでも、思い出すことはないだろう。青い絵の具は落ちたまま。ポツリと丸を描いたままで、広がる事はない。

 同じ言葉が、そこにない限り…。




 何処かで鶯が鳴いている。

 弥景は一つ息を吐いて、視線を落とした。透明な水が山肌を流れている。

 合ってる。

 その事を慎重に確かめながら山道を進む。


 昨日の事だ。

 父方の従兄弟の中でも一番年下の誕生会で、親戚一同が集まった。それまでなんてことない話をしていたのだが、伯母の、

「桜が綺麗な季節になったねぇ」

という言葉から桜の話になった。

「そういえば、うちの山櫻は綺麗に咲いたのかね?」

 伯父の言葉に祖母が苦笑しながら答える。

「さぁ、最近は誰も見に行かないから…」

「うちに山櫻なんてあるの?」

 弥景は身を乗り出して聞いた。

「あぁ、弥景ちゃんは桜が好きだったね」

 微笑んで言う祖母に弥景はこくりと頷いた。

 忘れない言葉がある。

 その言葉だけが妙に耳に残っていて、いつも、桜はそんな花だったろうかと思うのだ。弥景にとって、桜は青空であり流れる水であったから。

「裏山に山櫻の群生地があるのよ」

「おばあちゃんは見たことがあるの?」

「えぇ。それは見事なものだったわ…。嫁入りしてすぐの事だったかしら?おじいちゃんに連れられて一度、ね」

「伯父ちゃん達は?」

 そう聞くと二人とも、子供の頃に何度か、と答えた。

 山道を歩くのが大変で、なかなか行く事がないのだそうだ。

「ねぇ、おばあちゃん」

 心此処に在らずな様子で弥景が口を開くと、祖母はふわりと笑って、

「おじいちゃんに聞いといで」

と弥景の背中をトンと押した。


 足元の水の流れに木漏れ日が落ちて、キラキラと反射している。

 山に入ったら、とにかく水流を遡れ。

 祖父の言葉に従って黙々と山を登る。とにかく遡っていると何となく分かるらしい。

 桜木の者であれば。

 そんな馬鹿なと思ったが、どうやら本当らしいと弥景は笑みを浮かべた。

 一歩また一歩と足を進める度に甘い香りが濃くなっていくような錯覚。陰樹林の緑を分け入ると、


 いきなり視界が開けた…


 ただ感嘆の溜息だけが口から漏れる。

 見えるのは、霞と見紛う薄紅の桜と、時折隙間から見える空の青、そして足元の水流。

 あぁ、と思う。

「空の青と水の碧…」

 くすりと弥景は笑った。

 流れる水がシャラシャラと涼しげな音を立て、春風に乗って桜の花びらがサラサラと舞う。

 こんな所を自分の一族が代々所有しているとは思ってもみなかった。

 忘れたくないな。

 そっと弥景は目を閉じた。


「誰?」


 不意にかけられた言葉に慌てて目を開く。

「誰か…いるの?」

 山奥に少女と桜と…

「いるよ」

 その声と共に桜の蔭から現れたのは、落ち着いた色の袴を着た同い年くらいの青年だった。サラリとした切れ長の目が弥景に向けられている。

「えっと…誰?」

「君が先に名乗ってくれるとありがたいんだけど」

 透明なよく通る声でそう言われ、弥景は苦笑しながら桜木弥景だと名乗った。

「弥景?そうか、もう…」

 春の風がサァっと吹いて彼の声を掻き消した。

「え?」

「いや、何でもないよ」

 そう言って彼は微笑む。

「それで…貴方は?」

「僕は、」

 ひらり、はらりと彼と彼女の間を桜の花びらが舞う。空の青から水の碧へと。


 花守。


「花守?それって苗字?名前?」

 珍しい名もあったものだ。

「いや。どちらでもないよ。役職名」

「何故役職名で名乗るの?」

 彼は一瞬驚いたような表情をした後、

「名を呼ぶ人なんて、久しくいなかったし、名を呼ぶ程の存在じゃないから」

と言った。そういう彼の表情からは何も読み取れない。ただ、静かだ。

「そんな…」

「事実だよ。今の僕は花守という仕事を行う為に存在する」

 光栄な事だ、と言って彼は側の桜の幹に触れた。

「花守って?」

「そのままだよ。桜の花を守る者の事」

「…ねぇ」

「ん?」

 寂しく、ない?

 そっとそう尋ねると、彼はまたしても驚いた表情で、何故かと問うた。

「その仕事だけの存在って…」

「そう?」

「そうよ。他にしている事はないの?」

「他にって?」

「学校とか、いろいろ…」

 具体例が思い浮かばず言葉を濁した弥景に、彼はクスクス笑った。

「学校には行っていないよ」

 え?

「行って、ないの?」

「うん。行ってない。だって僕は、」


 夢、だから。


「…夢?」

「そう、夢」

 彼は微笑みを浮かべて手をスッと差し出した。その手の平に引き寄せられるように桜の花びらが舞い落ちる。

 弥景は首を傾げた。

「夢には四つの意味がある。一、睡眠中の心的現象。二、将来の願い。三、現実から離れた空想。四、はかないもの。僕の場合は三と四が当てはまるのかな?」

 現実から離れた空想。はかないもの。

「ねえ、弥景は桜の異名を知っているかい?」

「いいえ」

「桜はね、夢見草とも言うんだよ」

 彼はそう言って笑った。

 春風に乗って手の上の花びらが春の景色に溶けていく。

「僕は桜が見せる幻影だ」




 そうして、弥景は毎日彼に会いに行った。彼は寂しくないと言ったが、寂しくないという彼が寂しかった。

「やぁ」

 桜の蔭からスッと出てきながら静かに彼が言う。

「此処は本家の山だろう?近いの?家」

「うん」

 タタッと駆け寄ると彼は歩き始めた。何処へ行くでもない。ただ、こうして桜の中を歩くのだ。

「花守さん」

 呼びかけて、何となくその白い手に触れたくて手を伸ばすと彼はパッと手を引いた。

「ごめん」

 彼が困ったように笑う。

「人に触れられたら消える」

 もう何を言われても驚かないけれど。その握られた白い手がひどく寂しかった。

「ごめんなさい」

「いや。こちらこそごめんね?」

 桜が今日も霞のように、辺りを薄紅に染めている。

「ねえ」

「ん?」

「貴方の名前、本当はなんて言うの?」

 そっと聞いてみると彼は少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。

「何故?」

「だって、なんか遠いんだもん。花守さんって。それに、名前あるんでしょ?役職名とは別に」

 困ったなぁ、と彼が隣で苦笑している。

「多分、教えてもすぐに忘れちゃうよ?」

 その言葉に弥景はハッとして視線を下げた。散った桜の花びらは足元を薄紅に染め上げている。

「弥景の記憶力の問題じゃないよ。僕は夢。だから、存在が曖昧なんだ。つまり…」

「つまり?」

「この世の者じゃないってこと。彼岸の人間なんだよ」

 彼岸の人間…?

「あの世…?」

「そう」

「え…。じゃあ、もともとこの世に生きていたって事?」

 彼が、自分の事を幻影だという彼が同じ人間だった?

 その事に心が弾む。

「そういうこと。もっとも、生きていたのは随分前の話だけどね」

「随分前…」

 この時代の人ではないとは思っていた。だとすると、もしかしたら現代では想像もつかない死に方だったのかもしれない。

 ふとそう考えて、弥景はそっと彼から目を外した。

「彼岸の者はただでさえ人の目に止まりにくい。だから、すぐ忘れられてしまう」

 静かな声だった。ひらひらと二人の間を桜が舞う。

「それでもいい。教えてくれない?」

 呟くようにそう言うと、彼は追憶するように遠い目をした。あぁ、思い出したとクスリと笑う。

樹弥たつみ

「名前?」

「名前」

「苗字は?」

「…秘密」

 ケチと口を尖らせると、彼はクスクスと笑った。

「樹弥さん」

 樹弥の笑いが治まった頃に、呼びかける。弥景は寂しそうに笑って樹弥から視線を逸らした。

「私、忘れてしまうんです」

 彼は鸚鵡返しして小首を傾げた。

「小さいときに遭った事故の影響で、記憶が続かないんです」

 前を向いたまま歩く弥景の黒髪に桜の花弁がひらりと乗った。

「記憶がもつのは長くて十四日。その後徐々に記憶は消えていって、七日後には全部消えてるの…」

 そっと手を伸ばしてみるけれど、桜の花びらは弥景の指先に微かに触れるだけ。やっぱり彼の様にはいかないか、と小さく笑みを浮かべた。

「一緒だ」

「え?」

「桜と、一緒」

 フワリと笑った彼は握った手を弥景に差し出した。小さく首を傾げながら、弥景も手を伸ばす。ひらりと、手と手が触れるか触れないかの距離から落とされたそれは、小さな桜の花びらだった。

「蕾七日、咲いて七日、散って七日の花二十日。桜の花はそう言われているんだ」

 だから君と一緒、と彼が優しく微笑んでいる。

「君も記憶が蓄積するのが十四日、散るのが七日。今回はどうなりそう?」

「どうって?」

「いつ頃から弥景の記憶は散り始めそう?」

 向けられる優しい笑みに一瞬固まる。小首を傾げた樹弥にハッとして弥景は逆計算を始めた。

 まだ記憶は失くなってない。ということは、あの言葉以外の一番古い記憶は…あぁ、見つけた。十三日前のクラスメイトとの会話だ。だから…

「明日、からです。多分」

 明日になったら、会話が消える。あの楽しかった会話が消えてしまう。

 弥景は俯いた。

 もう大分慣れた。記憶がもたないこと。一定期間の後風が吹いた様にサラサラと消えていくこと。せめて期間がなければこんな思いはせずに済んだのかもしれない。毎回そう思っては詮無いことだと小さく笑う。

「僕もだよ」

「え?」

「僕も君の記憶と同じ様に七日後、姿を消す」

 さらりと口にする彼を、弥景は目を見開いて見つめた。

「それは…どういう…?」

 消えてしまうんだろうか。全て真っさらに。

 いつもの恐怖がやって来る。弥景はふるりと身を震わせた。

「この桜、七日後に最後の一枚が散る。言ったろう?僕は桜が見せる幻影だ。だから、こうして姿を現す事が出来るのは、枝が薄紅に染まる頃だけなんだ。要は、二十一日間」

「怖く、ないの?」

 そう尋ねると彼はキョトンとして、

「何故?」

と聞き返した。その反応に逆に驚く。

「霧散するだけだよ?形が失くなるだけで、空気中に意識は漂ってるんだ。怖いことはない」

「空気中に漂う…?」

「ここら一帯に存在するってこと」

 こんな言い方するとちょっと怖いけどね、と彼は笑った。

「君のそれも同じものだと考えたらどうかな?」

 同じもの?

「そこら中に存在するものとして」

 そう言いながら、彼は空を仰いだ。つられて上を向いてみると、桜霞の隙間から淡い春の青空がのぞいているのが見える。

 あの言葉が蘇る。

「記憶がない、夢のようなものというのはすごく不安定だ。だけどね、それは裏を返せば自由だと言えるんじゃないかな?何にも囚われない。だから、不自由であり自由なんだよ」

 独り言のように呟く樹弥に首を傾げると、それに気付いた彼はクスリと笑った。その表情に何故か心が落ち着いた。

 ひどく懐かしいその表情。これも私の中からこぼれ落ちて、記憶のカケラとして此処に存在し続けるのだろうか…。

 ふと気付くと、いつの間にかもと来た場所にいて、いつもの様に隣から彼はいなくなっていた。



 それから一日過ぎ、二日が過ぎた。一日に三日分のペースで徐々に記憶は散っていく。三日目には彼と出会った記憶までも桜の季節に溶けていった。

 会話の途中にもフッと恐怖が襲ってくるようになって、黙り込む事が多くなる。そんな弥景に気付く度、彼はそっと微笑んで大丈夫、と言った。自分はもともと夢のような存在なのだから、と。

 触れたら消える、桜が散ったら消える、会わなかったら忘れられてしまう彼の性質。そんな彼を、

 忘れたくない。

 どんなに願おうと無理無茶難題だ。彼の性質だけの問題ではない。弥景の体質の問題もあるのだから。

 忘れられる青年と、忘れてしまう少女。

 差はどうしようもなく、埋まらない。


 そうして日々は過ぎ、六日経った。

 扉の隙間から外からの光が漏れ、部屋の中に差し込む。普段掃除などしない物置で、小さな埃がチラチラと照らされ光っている。

「見つけた…」

 弥景はそっと呟いてその文字を撫でた。

 ここ二日、本家の山で会っている彼。いつ名乗り合ったのか分からないけれど、私は彼を樹弥と呼び、彼は私を弥景と呼ぶ。ただ、ひどく懐かしくて、忘れたくなくて。


 桜木樹弥。



「今日でお別れだね」

 昨日一昨日と同じ場所で出会った彼は、微笑んでそう言った。

「いつもは七日目のいつ頃消えるの?」

「分からない。いつもバラバラだから」

 そう、と彼は一言言って歩き出す。

「ねぇ」

「ん?」

「桜木樹弥。家系図の中で見つけたの」

 ハッと振り向いた彼は目を見開いて弥景を見ていたが、やがて困ったと言うように笑った。

「見つかった、か。どうして分かったの?」

「本家の山にいるってことは、祖父が何か知ってるんじゃないかなって聞いてみた。そんな名前の人がいたようなって言うから、物置の家系図を見てみたら、ね」

 袂からから片手を出して頭を掻く彼は、

「若くして亡くなった、祖父の叔父」

 この世の人ではないんですか、という下手なことは聞かない。そんな気はしてたし、きっと事前に説明している。ただ、家系図は最近解かれた気配はなかったから、

「教えてくれなかったでしょう?どうして?」

「どうしてって…。教えて欲しかった?」

 コクリと頷くと逆にどうしてと聞かれた。

「家族、だから?」

 よく分からないままで呟くと、語尾に疑問符が付いた。

「家族、か…」

 彼がクスリと笑う。

「確かにそうだ。弥景は僕から見てどうなるのかな?」

「すぐ上の兄、私にとっては曾祖父の長男、祖父の次男、父の長女…?」

「合ってるけど…ややこしいね」

 クスクスと笑う樹弥に、弥景は唇を少し尖らせて上を見上げた。

 ほとんど散って葉桜となった木々の隙間から青空が見える。ふと視線をずらせば、鮮やかな黄緑の中に、今にも散りそうな薄紅。

 すぐに分かった。

 あぁ、これが最後の「カケラ」なんだ、って。

「弥景。君は覚えていないだろうね」

「え?」

「こうして僕達は会ったことがあるってこと」

 風が吹いた。最後の「カケラ」が枝から離れる。弥景は咄嗟に手を伸ばした。



「桜は空の青に咲いて、水の碧へと返るんだ。弥景」



 足元を透き通った水が流れている。まだ柔らかい黄緑をした葉から、春から初夏へ移り変わる気配のする木漏れ日が落ちる。風が吹いて弥景の頬を撫でた。

 また記憶が消えてしまった。慣れてしまった喪失感を抱きながら、弥景は上を向いた。


 桜は空の青に咲き、水の碧へと返る。


 あの言葉だけは今回も覚えている。

 その事を噛み締めて、弥景はそっと何故か握り締められた手を開いた。

 「カケラ」。

 透明なよく通る声が弥景を呼ぶ声がした気がして、ゆっくりと目を閉じた。



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