第二部 第1章 ごめん
四月、息子は星陵学園に入学した。
真紀は入学式の体育館で、保護者席の真ん中あたりに座っていた。式次第が進み、学長が壇上に上がった。吉村亮介。真新しいスーツの保護者たちに向けて、落ち着いた声で祝辞を述べる男。
「立派な学長先生ね」
隣の母親が、前の席の母親に囁いた。前の母親が頷いた。真紀も頷いた。頷きながら、膝の上で、自分の手が小さく震えているのに気づいた。
(この人は、私の冬を、知っている)
あの冬、あの学長室に、何度通ったか。自分が何を数え、何を待ち、最後に何を知らされたか。全部、あの壇上の男は知っている。息子の合格には、それが一つも要らなかったことも。
祝辞の内容は、一つも頭に入らなかった。
式が終わって保護者がぞろぞろと出口へ向かう時、吉村と目が合った。彼は大勢の保護者にするのと同じ、事務的な会釈を真紀にもした。それだけだった。それだけなのに、真紀は帰りの電車でずっと窓の外を見ていた。
***
制服の襟は、まだ硬かった。
息子は、入学式の帰りの電車で、何度も首の後ろに指を入れた。隣で母が窓の外を見ている。式の途中から、母はほとんど喋らなかった。
緊張してたのかな、と息子は思った。自分の入学式なのに、母の方が。
(まあ、いろいろあったしな)
模試の判定は、最後まで届かなかった。それを一般入試の本番で覆したのは自分だが、その前の何か月か、母が自分以上に張りつめていたのも知っている。説明会だ、面談だと、星陵に何度も通っていた。夜遅く帰ってくる日もあった。
その全部が、今日で報われたのだ。そう思えば、母が黙っているのも、分からなくはなかった。
「母さん」
「……ん?」
「腹減った」
母は、やっと笑った。
「帰ったら、何か作るね」
***
五月、授業参観があった。
廊下で、大場悟とすれ違った。彼はジャージ姿で、他の保護者にするのと同じ人懐っこい笑顔で会釈した。
「北条さん、お世話になってます。息子さん、運動神経いいですね」
体育教師として、彼は今、真紀の息子の担任ではないが授業を受け持っていた。普通の、保護者と教師の会話だった。
「北条さん、大場先生とお知り合い?」
一緒に廊下を歩いていた母親が、不思議そうに聞いた。
「……受験の時に、少し。面談で」
「ああ、説明会とか、いろいろあったものね」
母親は、それ以上聞かなかった。真紀は笑って頷いた。
あの冬の特別選考で、面談を担当した教師の一人。大場もまた、あの冬を知っている人間だった。知っている人間が、学校という場所に二人いる。その事実が、真紀には思っていたより重かった。
息子は、順調だった。部活に入り、友達ができ、星陵の制服はすぐに彼の日常になった。玄関に脱ぎ捨てられた学生鞄。洗濯物に出てくる体操着。食卓での、学校の話。真紀の愛する光景は、戻ってきていた。
戻ってきた光景の代金が、実は最初から要らなかったのだという事実だけが、彼女の胸の奥で、静かに沈んでいた。
和也は、何も聞かなかった。何も変わらなかった。変わらなかった、はずだった。
***
最初に「変だ」と思ったのは、五月の連休だった。
久しぶりに、和也が真紀を抱き寄せた。灯りを落とした寝室で、彼の手はいつもの夫の手だった。真紀は目を閉じた。
しばらくして、和也が小さく言った。
「ごめん。疲れてるみたいだ」
「ううん。いいよ、そんな日もある」
四十代半ばの夫婦には、珍しいことではない。そう思った。本当に、そう思っていた。
翌朝、真紀は和也の好きな焼き魚を出した。彼は普通に食べ、普通に「行ってきます」と言った。玄関で見送る時、その笑顔が、目まで届いていないことに、彼女は気づいた。気づいて、何も言えなかった。言えば、昨夜のことに形を与えてしまう気がしたのだ。
ドアが閉まってから、彼女はしばらく玄関に立っていた。大丈夫。まだ、大丈夫なはず。
***
あの冬の、ある夜のことを、真紀は時々思い出す。
最後の面談から帰ったのは、夜の十一時を回っていた。玄関の明かりがついていた。和也は、リビングで起きていた。
「……ただいま」
「おかえり。寒かったろ。茶、入れるか」
彼は、それだけしか言わなかった。どこへ行っていたのかも、どうして遅かったのかも、聞かなかった。真紀は湯呑みを受け取りながら、ほとんど衝動的に、言いかけた。私ね、今日――。だが喉の奥で、言葉は形にならなかった。
優しい夫だ、と彼女はその夜も思った。問い詰めないのは、信頼だ、と。
今になって思えば、あの沈黙は、別の形をしていたのかもしれない。あの冬の数ヶ月、彼女の帰りが遅い日は、他にもあった。和也は、一度も問い詰めなかった。その沈黙を信頼と呼び、甘え続けていたのは、彼女の方だった。だが五月の真紀には、まだその形を見分ける目がなかった。
***
六月、和也は週末の約束を一つ、取り消した。
「ごめん。仕事が、ちょっと」
息子の部活の試合を、三人で見に行くはずの日だった。和也は朝から書斎にこもり、昼過ぎにソファで眠っていた。真紀はその寝顔に、ブランケットをかけた。眉間に、薄く皺が寄っていた。
寝ている時まで、何かを我慢している顔だった。
その夜更け、和也は一人、洗面所に立っていた。
鏡の中の男は、疲れた顔をしていた。廊下の先に、玄関の靴箱が見える。あの夜、あの前に立って、自分は何度か声を出した。その声のことを、和也は今も、誰にも話していない。
話せば、その前の一日のことまで、全部話すことになる。
「……ごめんな」
誰に言うでもない謝罪が、夜の洗面所に落ちた。
***
七月。三度目に、真紀は気づいてしまった。
その夜の夕食で、真紀は保護者会の話をしていた。新しいクラスの役員決めで、くじ引きになったこと。誰も手を挙げないので、最後は担任が困った顔をしたこと。和也は頷きながら聞いていた。相槌も、打っていた。
だが、ふと顔を上げた時、和也の目は、真紀を見ていなかった。
焦点の合っていない、遠くを見る目。何か別の場面を、頭の中で繰り返している目。その目のまま、彼は「そうか、大変だったな」と言った。
(私の話じゃ、ないんだ)
根拠はなかった。女の勘、と笑い飛ばせる程度のものだった。だが、その勘は妙に正確な場所を刺した。和也の頭の中にあるのは、目の前の妻の話ではない何かだ、と。
翌週の夜、和也は食卓でぼんやりして、醤油と間違えてソースを焼き魚にかけた。息子が笑った。和也も笑った。笑ってから、長い間、皿を見ていた。
寝る前に、和也は小さく言った。
「ごめん。最近、上の空で」
「謝らないでよ。……私のせいじゃない?」
「違う」
「歳、かな。私が。つまらなくなった?」
「違う、真紀。お前のせいじゃ、決してない」
決して、の強さが、逆に真紀を不安にさせた。何かを知っている人間が、知らない人間に向ける種類の強さだった。
その夜、真紀は眠れなかった。自分が抱えている冬のことを思った。夫が遠くなった理由が、自分の側にあるのなら。言っていないことの重さを、夫が言葉より先に嗅ぎ取っているのなら。
(――そんな、馬鹿なこと)
打ち消して、彼女は目を閉じた。打ち消したはずの考えは、朝までずっと、胸の隅に残り続けた。
***
八月、温泉の予約が、二度目に延びた。
二月の終わり、息子の合格通知が届いた日に、和也がその場で取った予約だった。真紀が雑誌の端を折っておいた宿だった。一度目は、和也の仕事で。二度目は、宿の改装工事で。
「秋には、行けるさ」
「うん。楽しみにしてる」
楽しみにしていた。本当に。ただ、その旅行が延びるたびに、真紀はどこかでほっとしている自分にも気づいていた。二人きりの宿で、夫の顔をまっすぐ見られるかどうか、自信がなかったのだ。
***
九月、二学期の保護者面談があった。
廊下で、真紀は吉村とすれ違った。彼は他の保護者にするのと同じ、事務的な会釈をした。それだけだった。それだけなのに、彼女の背筋は固くなった。時間が経っても、学校という場所では、あの冬は生々しかった。
面談を終えて帰宅すると、和也が夕食の支度を手伝ってくれた。玉ねぎを切りながら、彼は言った。
「今日は、疲れた顔してるな」
「……そうかな」
「無理するなよ」
普通の夫の、普通の優しさだった。その優しさを前にすると、彼女は時々、泣きそうになった。こんなふうに大事にしてくれる人に、自分は一番大きなことを話していない。その落差を抱えて、彼女は味噌汁の味見をした。少し、塩が足りなかった。
その夜の食卓は、いつもと変わらなかった。変わらなかったことが、彼女には一番、堪えた。
彼女はまだ知らなかった。その「ごめん」の裏側に、夫が何ヶ月も抱えてきたものがあることを。知らないふりの、限界が近づいていることを。




