第五十九話:黄金色の未来
あのささやかな結婚の儀から、五年という歳月が流れた。
帝国は、かつての停滞が嘘のように、穏やかで力強い発展の季節を迎えている。
帝都の郊外、かつては荒れ地だった場所に、今では帝国一と謳われる農業研究所が立っている。賢者の書庫の叡智と、各地から集められた実践的な知識が融合する、帝国の新しい心臓部だ。
その広大な試験農場の一角で、私は小さな男の子の手を取りながら、ゆっくりと歩いていた。
「母様、見て。お水が、キラキラしながらお野菜に届いています」
私の手を引くのは、アレクシスとの間に生まれた、四歳になる息子、レオ。陽光を浴びて輝く金色の髪と、私の緑の瞳を受け継いだ、好奇心旺盛な皇子だ。彼が指さす先では、フィンが設計した太陽光を利用する温水ポンプが、畑に優しい水を撒いている。
「本当ね、レオ。あのお水が、美味しいお野菜を育ててくれるのよ」
私がそう微笑みかけると、背後から大きな、温かい手が、そっと私の肩を包んだ。振り返るまでもなく、それが誰なのかはわかっていた。
「二人とも、楽しそうだな」
政務を終えたアレクシスが、皇帝の威厳を全て脱ぎ捨てた、ただの父親の顔で、隣に並んだ。彼は軽々とレオを抱き上げ、その頬に自分の頬をすり寄せる。レオの甲高い笑い声が、畑に響き渡った。
私たちの穏やかな時間は、一人の使者によって中断された。彼がもたらしたのは、後宮からの定期報告書だった。
「……女官長殿は、相変わらずお元気そうね」
羊皮紙に目を通しながら、私はくすくすと笑った。女官学校は帝国全土から優秀な女性たちを集める最高学府となり、その卒業生は今や、各地で行政官や教師として活躍しているという。アンナとサラは、それぞれ内務省と財務省で、その実務能力を存分に発揮し、今や若手官僚たちの目標となっていた。
手紙の最後には、フィンからの私信も添えられていた。彼が復活させた氷室の冷房システムは、帝国の南方で流行していた熱病の発生率を劇的に低下させ、多くの命を救っているらしい。
「皆、それぞれの場所で、見事に自分の畑を耕しているな」
アレクシスが、感慨深げに呟く。
そうだ。私たちの革命は、もう私一人のものではない。私たちが蒔いた種は、信頼する仲間たちの手によって、帝国の隅々で芽吹き、それぞれの場所で豊かな実りをもたらしているのだ。
「母様、お腹がすきました」
レオの可愛らしい声に、私ははっと我に返った。私は持参していた籠の中から、今朝、後宮の工房で焼き上げられたばかりの、温かいパンを一つ取り出した。それは、賢者の書庫の知識を元に品種改良された、新しいロスマリン小麦で作られた、栄養満点のパンだ。
そのシンプルなパンを、レオが美味しそうに頬張る姿を見つめる。
そして、そのパンを半分こにして、当たり前のように私の口元へ運んでくれるアレクシスの優しい眼差しを見つめる。
(……始まりは、一杯のスープだった)
後宮の片隅で、ただ、温かくて美味しいものを、大切な人と分かち合いたい。
私の、あのささやかで、けれど切実だった願い。
それは今、この帝国全土を、そして何よりも、私の愛する家族の心を、温かく満たしていた。
「リディア」
アレクシスが、私の名を呼ぶ。
「君の耕した畑は、世界で一番、美しい畑だ」
私は、彼の胸にそっと寄り添った。
目の前では、レオが、畑の畝の間を元気に走り回り、一匹の蝶を追いかけている。その黄金色の髪が、豊かな小麦の穂のように、初夏の風に揺れていた。
最下位の妃として始まった私の物語は、今、愛しい家族と、信頼する仲間たちに囲まれて、穏やかな幸せの中に在る。
そして、私たちの足元には、どこまでも続く、黄金色の未来が広がっている。
この愛する人々と共に、明日もまた、新しい希望の種を蒔いていこう。
私の、そして私たちの物語は、これからもずっと、この豊かな大地と共に、続いていく。
(完)




