第五十八話:祝宴、そして始まりの庭へ
あの夜明けの誓いから、季節は一つ巡り、帝都には柔らかな初夏の日差しが降り注いでいた。
そしてその日、帝国は歴史上、最も温かく、そして最も風変わりな祝宴に包まれていた。
皇帝アレクシスと、妃リディア・バーデンの、ささやかな結婚の儀である。
会場は、荘厳な大神殿ではなかった。
全ての始まりの場所。かつては最下位妃の離宮の、荒れ放題だったあの小さな庭。今では色とりどりの花が咲き乱れ、穏やかな風がハーブの香りを運ぶ、後宮で最も美しいその場所が、二人の誓いの場として選ばれた。
参列者も、帝国中の貴族が列をなすようなものではない。
北の地から駆けつけた、今や帝国技術顧問となったフィン・グレイシア伯爵。
鉄の仮面を脱ぎ捨て、母親のような優しい眼差しで二人を見守る、後宮女官学校校長の女官長。
涙ぐみながらも、誇らしげに胸を張るアンナとサラ。
そして、娘の晴れ姿に、ただ涙を流す、私の実直な父と母。
私たちの本当の仲間たちだけが、そこにいた。
私が身にまとったのは、何百もの宝石が縫い付けられた豪華な婚礼衣装ではなかった。
組合の仲間たちが、心を込めて織り上げてくれた、柔らかな亜麻色のドレス。髪には、この庭で今朝摘んだばかりのカモミールの花冠が、優しく輝いている。
祭壇の前に立つアレクシスの隣に並んだ時、彼は皇帝の威厳を全て脱ぎ捨て、ただ一人の男として、愛おしげに私を見つめていた。
「――汝、皇帝アレクシスは、リディア・バーデンを、生涯唯一の伴侶とし、その喜びも、悲しみも、帝国の未来も、全てを分かち合うことを誓うか」
神官の問いに、アレクシスは私を見つめたまま、力強く答えた。
「誓う。我が帝国の土よりも、彼女の心の畑を、生涯かけて耕し続けることを」
その彼らしい誓いの言葉に、参列者から温かい笑いがこぼれる。
「――汝、リディア・バーデンは、皇帝アレクシスを、生涯唯一の伴侶とし……」
私は、彼の紫紺の瞳を見つめ返し、はっきりと告げた。
「誓います。この国の全ての民が、そして何より、あなたの心が冷えることのないよう、生涯、温かいスープを作り続けることを」
私たちの誓いの口づけは、短く、そしてとても温かかった。
その後の祝宴で振る舞われたのは、宮廷の高級料理ではなかった。北の村で採れたロスマリン小麦のパン、燻煙室で初めて作られたベーコン、そして私たちの組合が誇る、野菜たっぷりのスープ。その一皿一皿が、私たちの歩んできた道のりそのものだった。
宴が終わり、夕暮れの優しい光が庭を包む頃。
二人きりになった私たちは、全ての始まりである、あの小さな畑の前に立っていた。
「ここからだったな」
アレクシスが、懐かしそうに呟く。
「最下位の妃が、土いじりをしていると聞いた時は、一体どうなることかと思ったが……」
「ふふ。今や、その畑は帝国全土に広がりましたわね」
私たちは、顔を見合わせて笑い合った。
すると、アレクシスは改まったように私の手を取り、その手の甲に、恭しく口づけを落とした。
「皇后陛下」
その新しい響きに、私の胸がくすぐったくなる。
「これから、よろしく頼む。私の、ただ一人の……」
「ええ、喜んで。アレクシス」
私は、皇帝でも陛下でもなく、ただ愛しい人の名を呼んだ。
私たちは、再び手を取り合い、ゆっくりと歩き始めた。私たちの足元には、どこまでも続く、豊かに耕された大地が広がっている。
やるべきことは、まだ山のようにある。けれど、もう何も怖くはない。
後宮の片隅、最下位の妃から始まった私の物語は、今、愛する人と共に、この国の未来を耕す、新しい物語の、本当の第一歩を踏み出した。
その道が、どこまでも、温かい光に満ちていることを、私たちはもう知っていた。




