第五十四話:偽りの絶望、真実の罠
私が帝都に帰還したのは、それから数日後の、重く曇った日のことだった。
北の村での奇跡的な成功は、私と、皇帝アレクシス、そしてごく一部の仲間たちだけの秘密。帝都の多くの者たちの目には、私の帰還は「敗北」として映っていた。
「ご覧なさい、妃様よ……」
「まあ、お可哀そうに。あれほどお元気だったのに、すっかりやつれてしまわれて……」
わざとやつれた化粧を施し、疲れ切った表情で馬車を降りる私に、遠巻きに見る者たちから同情の声が寄せられる。計画通りだ。私はその声に力なく微笑み返し、誰とも目を合わせることなく、後宮の奥へと足早に消えた。
その夜、皇帝の執務室で、私は久しぶりにアレクシスと再会した。
二人きりになった瞬間、彼は皇帝の仮面を脱ぎ捨て、私の肩を強く掴んだ。その紫紺の瞳には、深い安堵と、隠しきれない愛情が揺れている。
「……リディア。よく、戻った」
「ええ、アレクシス。あなたこそ、帝都をよく守ってくださいました」
言葉は少なくとも、互いの労をねぎらうには十分だった。私たちの間には、もう疑念の影はない。試練を乗り越え、より強く結ばれた、絶対的な信頼だけがあった。
「ジュリアンは、完全に油断している」
アレクシスは、苦々しげに、しかしどこか楽しげに報告した。
「私が、お前からの偽の報告書に絶望し、奴の屈辱的な支援条件を呑む寸前だと信じ込んでいる。明後日に迫った『初穂儀』は、我が帝国がソラリスに膝を屈する、その調印式になると思っているだろう」
「結構ですわ。舞台は、高いほど見栄えがするものですから」
私たちは、最後の仕上げに取り掛かった。
アレクシスは、帝都の全貴族と各国の使節に対し、「初穂儀において、帝国に関する重大な発表を行う」という招待状を送付した。ジュリアンはこれを、帝国の敗北宣言だと確信するだろう。
一方、私は後宮の仲間たちと共に、祝祭の準備を進めていた。表向きは、凶作を嘆き、神に豊穣を祈るための、ささやかな儀式。しかしその裏では、女官長と組合の総力を結集し、北の村から密かに運び込まれた大量のロスマリン小麦を、パンや焼き菓子へと加工する作業が、徹夜で進められていた。
翌日、私は宮殿の廊下で、ジュリアン王子と偶然を装って鉢合わせた。
彼は、私のやつれた姿を見て、心から同情するかのような、完璧な笑みを浮かべた。
「リディア様。お一人で、あまり思い詰めなさらないでください。どのような結果になろうとも、あなたの才能を、私だけは理解しております。我がソラリスは、いつでもあなたを歓迎いたしますよ」
その甘い言葉の裏に隠された、勝利者の傲慢さ。私は、力なく俯き、か細い声で答えた。
「……お心遣い、痛み入ります」
その演技が、彼の最後の油断を誘ったことを、私は確信していた。
運命の『初穂儀』の前夜。
帝都は、静かな緊張感に包まれていた。凶作の噂は民衆の間にまで広がり、明日の儀式が、自分たちの未来を占う重要なものであることを、誰もが感じ取っていた。
私は、後宮の工房で、仲間たちが焼き上げた、黄金色のパンの山を見つめていた。その香ばしい香りは、私たちの勝利の香りだ。
「アンナ、サラ。準備はいいわね?」
「はい、妃様!」
「いつでも、号令を」
二人の瞳には、決戦を前にした、力強い光が宿っていた。
私は、窓の外に広がる帝都の夜景を見つめる。明日、この帝都で、歴史が動く。
(ジュリアン王子、イザベラ。あなた方が用意した絶望の舞台で、帝国が奏でる豊穣の詩を、とくとご覧にいれますわ)
私の静かな宣戦布告が、帝都の夜の闇に、溶けていった。




