第五十三話:静かなる反撃
北の村は、夜明けと共に生まれ変わった。
絶望の闇は去り、村全体が、一つの巨大な薬草工房と化したのだ。女たちは苔を丁寧に洗い、男たちはフィンが設計した圧搾機を力強く動かす。子供たちでさえ、薬液を運ぶための小さな木の桶を、誇らしげに抱えて走り回っていた。
村全体が、一つの心、一つの目的のために動いている。その光景は、どんな軍隊よりも力強く、そして美しかった。
数日が経つ頃には、私たちの手元には、畑全体を処置するのに十分な量の、奇跡の薬液が完成していた。
しかし、私はすぐに行動を起こすことを禁じた。
「フィン様、長老。ただ病を治すだけでは、本当の勝利とは言えませんわ」
集会所に、主要メンバーだけを集めた作戦会議の席で、私は静かに告げた。
「敵には、私たちが絶望の淵にいると、そう思い込ませるのです。彼らが勝利を確信し、最も油断した瞬間こそ、私たちが反撃するべき時なのですから」
私の作戦は、大胆不敵そのものだった。
まず、畑の中でも街道から見える一角は、あえて処置をせず、病が進行しているように見せかける。そして、夜陰に紛れて、村人総出で、畑の大部分に薬液を散布するのだ。
同時に、帝都へ向かう商人には、二通の書簡を託した。
一通は、わざと封を甘くした、偽の報告書。
『苔の発見により希望が見えたものの、その栽培と成分の抽出は困難を極め、病の進行に追いつかず、村は疲弊しております』
これは、ジュリアン王子の密偵の目に触れるための、偽りの絶望。
そしてもう一通は、アレクシスの紋章が押された、厳重に封をされた親書。
『アレクシス、反撃の舞台を整えてください。治療は成功しました。北の小麦は、必ずや黄金色の穂を実らせます。数日後に開かれる予定の、収穫を占う『初穂儀』こそ、私たちの勝利を大陸全土に示す、絶好の機会となります』
それは、愛する人へ送る、勝利の約束手形だった。
帝都では、私の計画通りに、全てが動き始めていた。
偽の報告書は、すぐにジュリアンの元へ届いた。
「……ふん、やはりあの程度か。愚かなことだ」
私が苦境に喘いでいると信じ込んだ彼は、皇帝アレクシスに対し、さらに傲慢な態度で「食糧支援」の交渉を持ちかけ始めた。その条件は、帝国の経済主権を脅かす、屈辱的なものばかりだった。
アレクシスは、私の筋書き通り、苦渋に満ちた表情でその要求を検討するふりを続け、敵を完全に油断させていた。
後宮では、女官長とアンナ、サラが、私の本当の意図を汲み、来るべき『初穂儀』の準備を水面下で進めていた。それは、単なる儀式ではない。帝国の底力を見せつけるための、壮大な祝祭の準備だった。
そして、北の村。
私たちの静かな反撃は、着実に実を結んでいた。
夜ごとに行われる薬液の散布により、畑は目に見えて生気を取り戻し始めていた。黒ずんでいた穂は、内側から淡い緑色を取り戻し、再び天に向かって力強く伸びようとしている。
全ての準備が整った日、私は再生した小麦畑の前に立っていた。
その手には、アレクシスの誓いが記された、あの一通の手紙が握られている。
(アレクシス、あなたの信じてくれた心を、わたくしは決して裏切らない)
私は、仲間たちに振り返り、決意を込めて言った。
「さあ、帰りましょう。私たちの戦場、帝都へ」
私の瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
ジュリアン王子。あなたが用意した盤上で、あなたに完膚なきまでの敗北を。
そしてアレクシス、あなたには……揺るぎない勝利を届けに参りますわ。




