第五十二話:夜明けの反撃
北の村に、夜明けが訪れた。
それは、ただ朝日が昇るだけの、いつもと同じ夜明けではなかった。絶望の闇を打ち破り、帝国の未来を照らし出す、反撃の始まりを告げる夜明けだった。
アレクシスからの手紙を読んだ後、私は一睡もせずに研究室に籠もっていた。しかし、私の心身に疲労はなかった。彼の誓いが、私の心に尽きることのない炎を灯してくれたからだ。
フィンと村の職人たちは、私の指示のもと、夜を徹して一つの装置を組み上げていた。賢者の書庫にあった、植物の成分を効率的に抽出するための、古代の圧搾機だ。
「リディア様、準備が整いました」
フィンの声に、私は頷いた。
私たちの手には、夜通し村人たちが集めてくれた、あの小さな苔が山と積まれている。
私たちは、その苔を圧搾機にかけ、ゆっくりと、しかし着実に、希望の一滴を絞り出していく。緑がかった、濃厚な液体。病害の毒を中和する、奇跡のアルカロイド成分だ。
作業は、朝日が完全に昇りきる頃に終わった。
私たちは、その貴重な液体を水で希釈し、二つの小さな畑へと向かった。一つは、病に侵された小麦が植えられた実験区。もう一つは、比較のための対照区だ。
村人たちが、遠巻きに、固唾を飲んで私たちの作業を見守っている。その瞳には、不安と、そして最後の希望が入り混じっていた。
「……お願いします」
私は、祈るような気持ちで、一株一株の小麦の根元に、その液体を丁寧に注いでいった。まるで、病に苦しむ我が子に薬を与える母親のように。
全ての作業を終えた時、陽は高く昇っていた。
あとは、待つだけ。私たちの知恵と、この大地の生命力を信じて。
――その頃、遠く離れた帝都。
ソラリスの使節団が滞在する屋敷では、ジュリアン王子が、奪い取った私の研究メモを優雅に眺めていた。
「……苔から抽出したアルカロイド、か。実に興味深い。あの女、あと一歩で答えにたどり着いていたというわけだ」
彼は、くつくつと喉を鳴らして笑う。
「病とは、絶望の淵にある時こそ、薬の価値が最も高まるものだ。帝国が、この病害によって完全に膝を屈し、食糧の支援を我が国に乞うてくるまで、我々はこの『薬』を懐に温めておけばいい。……そして、その時には、小麦だけでなく、この帝国の未来そのものを、我々の言い値で買い叩いてやろう」
彼の青い瞳には、甘美な笑顔の裏に隠された、底知れぬ野心と冷酷さが渦巻いていた。
北の村では、焦燥と期待が入り混じった、長い時間が流れていた。
昼が過ぎ、陽が傾き始める。しかし、畑の小麦に、目に見える変化はまだない。村人たちの間に、諦めの空気が重く垂れこめ始めた、その時だった。
「……見ろ!」
最初に気づいたのは、誰よりも視力の良い、若い狩人だった。
彼が指さす先、実験区の小麦の穂。その黒ずんだ斑点の一つが、心なしか、薄くなっているように見えた。
「まさか……」
「気のせいではないのか……」
誰もが半信半疑で目を凝らす。
だが、その変化は、ゆっくりと、しかし確実に、畑の至る所で起こり始めていた。黒い病斑が薄れ、枯れかけていた葉に、かすかな緑の生気が戻り始めている。
「おお……」
誰からともなく、感嘆の声が漏れた。それはやがて、嗚咽となり、そして大地を揺るがすような大歓声へと変わっていった。
「治っていく……!」
「呪いが、解けていくぞ!」
村人たちは抱き合い、涙を流して奇跡の光景を喜んだ。
私は、隣に立つフィンの顔を見上げた。彼の静かだった瞳も、今は熱い感動に揺れている。私たちは、言葉もなく、力強く頷き合った。
勝ったのだ。
私は、生き返った緑の穂をそっと撫で、そして、遠い帝都にいる愛しい人へと、心の中で語りかけた。
(見ていてください、アレクシス)
――さあ、ここからが、私たちの本当の反撃ですわ。




