第五十一話:皇帝の誓い
帝都、皇帝執務室。
アレクシスは、私宛の手紙に最後の一文を書き終えると、溶かした封蝋をゆっくりと羊皮紙に垂らした。皇帝家の紋章が、彼の揺るぎない決意を刻み込む。
その顔には、もはや嫉妬に揺れる青年の姿はなかった。過ちを犯したことを認め、愛する女性とその仲間たちを、帝国そのものを、己の全てを懸けて守り抜くと誓った、君主の顔があった。
「近衛騎士団長を」
彼の静かな声に、控えていた側近が駆け寄る。
「団長、これをお前に託す。帝国で最も速い馬を選び、北へ走れ。この手紙を、リディアの手に直接渡すのだ。帝国の命運を届けると思え」
「ははっ!」
団長が恭しく手紙を受け取ると、アレクシスは氷のように冷たい視線を、部屋の隅で命令を待つ別の騎士に向けた。
「イザベラの離宮へ行け。一人の侍女たりとも外へ出すな。……一匹の鼠もだ。だが、まだ手を出すな。鳥籠の中の鳥に、自分が囚われたことを、じっくりと味あわせてやれ」
その声には、怒りを通り越した、絶対零度の静けさが宿っていた。
その頃、後宮の北の離宮では、イザベラが祝杯を挙げていた。
手に入れた研究メモの写しを眺め、ソラリスの側近から約束された輝かしい未来を思い描き、彼女は勝利の美酒に酔いしれていた。
「見ていなさい、リディア・バーデン。あなたの時代は、もう終わったのよ……」
彼女がグラスを掲げた、その時だった。
ふと、外が異様に静まり返っていることに気づく。いつもなら聞こえてくる侍女たちの話し声が、全くしない。
不審に思い、窓の外を見たイザベラは、凍りついた。
彼女の離宮が、寸分の隙間もなく、皇帝直属の近衛騎士団によって完全に包囲されていたのだ。月光を反射して煌めく銀色の甲冑と、天を突く槍の穂先。彼らは石像のように微動だにせず、ただ静かに、離宮を見つめている。
イザベラの顔から、血の気が引いていく。手から滑り落ちたグラスが、床で甲高い音を立てて砕け散った。
鳥籠の扉は、音もなく閉ざされた。彼女は、自分がもはや狩られる側の獲物になったことを、悟った。
――それから二日後。
北の村の仮設研究室に、帝都からの使者が嵐のように駆け込んできた。
馬は泡を吹き、乗り手である近衛騎士団長は、泥と汗にまみれていた。彼は、研究室で憔悴しきった様子の私を見つけると、その前に恭しく膝をつき、皇帝からの親書を差し出した。
「リディア様! 陛下より、緊急のご親書にございます!」
アレクシスから……?
私の胸が、不安と、ほんのわずかな期待に揺れる。震える手で封を開くと、そこに綴られていたのは、彼の力強い、そして見たこともないほど乱れた筆跡だった。
手紙には、全てが書かれていた。
後宮での火事、アンナとサラが襲われたこと、そして私の研究メモが奪われたこと。
そして、その後には、彼の魂の叫びとも言える言葉が続いていた。
『……リディア、許してほしい。私が、愚かだった。君の偉業を誇りに思う一方で、君が遠くへ行ってしまうことを恐れる、ちっぽけな嫉妬に囚われていた。私が君を疑い、冷たい言葉で傷つけている間に、君の大切な仲間たちが傷つけられ、君の努力が踏みにじられてしまった。この責任は、全て私にある』
『君は一人ではない。決して。私がいる。もう二度と、君を疑わない。君を傷つける全ての者から、この命に代えても、君を守り抜くと誓う』
『だから、どうか。私を信じてほしい。そして、無事に、私の元へ帰ってきてほしい』
一文字、また一文字と読み進めるうちに、私の瞳から、大粒の涙が次々と羊皮紙の上にこぼれ落ちた。
それは、孤独や悲しみの涙ではなかった。
理解された喜び。信じてもらえた安堵。そして、遠く離れた場所で、同じ痛みを分かち合い、私のために戦おうとしている人がいる。その温かい真実が、私の凍てついた心を、ゆっくりと溶かしていく。
私は、涙で濡れた顔を上げた。隣で心配そうに私を見守っていたフィンに、そして仲間たちに、私は微笑んでみせた。それは、この村に来てから、初めて見せる心からの笑顔だった。
「……フィン様」
私の声は、もう震えていなかった。そこには、揺るぎない決意と、新しい力がみなぎっていた。
「夜明けを待ちましょう。そして、この病を終わらせるための、最後の実験を始めます」
「陛下が、帝都で待っておられますもの」
皇帝の誓いは、私に光を取り戻させた。
そして、その光は今、帝国の未来を照らす、反撃の狼煙となって、北の地で、かつてないほど力強く燃え上がろうとしていた。




